アメノサギリの閾値
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アメノサギリの閾値

第一章 灰色の輪郭と電子の神託

学生食堂の空気は、劣化した油の臭気と、数百人の他人が発する熱気で腐っていた。

天音咲は、その汚泥のような喧騒の底、柱の陰に隠れるように丸まっていた。彼女の視界にあるのは、自身の膝と、小刻みに震える両手だけだ。

右手の人差し指と中指が、透けていた。

爪の先から第一関節にかけて、色素が抜け落ちたように透明になり、食堂の安っぽいリノリウムの床がその向こうにぼんやりと見えている。

恐怖で胃が縮む。ここ数日、予言を落とすたびに、咲の肉体は現実から剥離し始めていた。

握りしめているのは、画面に蜘蛛の巣状の亀裂が走る、旧式のスマートフォン。手汗でぬめる黒い筐体だけが、彼女をこの世界に繋ぎ止める楔(くさび)だった。

『沈黙を破れ。地下鉄の胎動が止まる前に』

咲がフリック入力でその文字列を打ち込み、送信ボタンを押す。

刹那、指先の透明化が数ミリ進行した。肉の一部が削ぎ落とされ、どこか遠い場所へ捧げられた喪失感。

だが、それと引き換えに、ネットの海の向こう側で『アメノサギリ』という名の神が質量を増す。

ズゥン、と空気が揺れた。

会話ではない。着信音だ。

食堂にいる数百人の学生たちのスマートフォンが、一斉に、寸分違わず同じタイミングで震えだしたのだ。それはまるで、巨大な蜂の群れが頭上を通過するような羽音に似ていた。

誰も口を開かない。誰も顔を上げない。

全員が背中を丸め、青白い画面の明かりに顔を照らされている。その光景は、電子の祭壇に祈りを捧げる狂信者の集団そのものだった。

「……アメノサギリだ」

誰かが祈るように呟いた。その声には、崇拝と、縋るような依存の色が混じっている。

(見ないで。私を探さないで)

咲は呼吸を殺す。

「お前なんて、中身のない空っぽな人形よ」――幼い頃、母に吐き捨てられた言葉が、今も喉の奥に棘として刺さっている。

無価値な自分。誰からも認識されない自分。だからこそ、顔のない神『アメノサギリ』を演じている時だけ、咲は自分が生きていると錯覚できた。だがその代償は、彼女自身の「人間としての輪郭」だった。

その時、異臭が鼻をついた。

肉が焦げる臭いではない。雷が落ちた直後のような、鼻腔を刺す冷たく乾いたオゾンの臭い。

「あ、あぁ……!」

数メートル先、列に並んでいた男子学生が、短く叫んだ。

咲が顔を上げる。彼の輪郭が、激しく乱れていた。

テレビの電波が途切れた時のように、彼の実存がザザ、ザザ、と明滅する。

「助けて、僕が、消え……」

声は空気の振動としてではなく、脳髄を直接ヤスリで削るような不快な信号音として響いた。

次の瞬間、彼の右腕が弾けた。

血は出ない。肉片も飛び散らない。

腕を構成していた物質が、無数の「0」と「1」の羅列に還元され、天井の照明に吸い込まれるように蒸発したのだ。

ドサリ、と片腕を失った彼が倒れ込む。だが、周囲の誰も彼を助け起こそうとはしない。全員がスマホを構え、その惨劇を撮影し、拡散することに熱狂している。

(違う。こんなの、救済じゃない)

咲の手の中にあるスマホが、高熱を帯びて掌を灼く。

現実が溶けていく。人々が情報という名の泥濘(ぬかるみ)に沈んでいく。

彼女が神を演じれば演じるほど、世界は現実感を失い、脆く崩れ去っていく。

第二章 認知の檻

カビと埃の臭いが充満する六畳一間のアパート。

咲は洗面台の鏡の前で、凍りついていた。

映っていない。

鏡の中には、歯ブラシやタオル、背後のドアは映っているのに、そこに立っているはずの「天音咲」の姿だけが、ぽっかりと欠落していた。

服だけが宙に浮いているように見える。

「うそ……」

喉に手を当てる。温かい感触はある。脈も打っている。だが、世界はもう、咲を「個体」として認識することを拒絶し始めていた。

彼女はあまりに多くの人間の深層意識に干渉しすぎた。数千万人の『アメノサギリ』への信仰が、天音咲というちっぽけな器を塗りつぶし、上書きしようとしている。

部屋の空気が重い。

壁のシミが、天井の木目が、すべて無数の「眼球」に見える。

世界中の人々が、救いを求めてアメノサギリを見ている。その視線が物理的な圧力を伴って、この狭い部屋をギチギチと締め上げていた。

ピンポーン。

インターホンが鳴ったわけではない。スマホの通知音が、部屋の静寂を引き裂いた。

『特定完了。アメノサギリの居場所を割った』

画面に表示された文字列を見た瞬間、咲の心臓が早鐘を打った。

住所が晒されているわけではない。だが、外から何かが近づいてくる気配がする。足音ではない。もっと巨大で、粘着質な「悪意」の気配。

人々は神を求めると同時に、その神を引きずり下ろし、解剖したがっている。

(バレたら、殺される)

いや、死ぬよりも恐ろしいことが起きる。

もし誰かがこの部屋に入り込み、私を観測した瞬間、膨れ上がった信仰のエネルギーが逆流する。私の自我は瞬時に消し飛び、肉体はアメノサギリという概念の苗床となって、この街ごと現実を食らい尽くすだろう。

「怖い、怖い、怖い……」

咲は膝を抱え、床にうずくまる。

母の言葉がリフレインする。『空っぽな人形』。

そう、私は空っぽだ。だからこそ、何者かになりたかった。

でも、その願いが世界を壊している。

スマホが明滅する。画面の亀裂が、まるで嗤(わら)っている口のように見えた。

指先の透明化は、もう手首にまで達している。

痛みはない。ただ、自分が世界から「忘れ去られていく」という根源的な寒気が、骨の髄まで染み渡っていた。

第三章 無名の救世主

夜明け前。窓の外は、死んだように静かだった。

だが、その静寂は欺瞞だ。ネットの海では、世界が終わる音――人々の悲鳴と絶望のログ――が轟音となって渦巻いている。

咲はキッチンで包丁を握り……それを置いた。

死んで逃げることは許されない。それではアメノサギリという呪いは消えない。

彼女は、ボロボロになったスマホをテーブルに置いた。

画面の亀裂は、さらに深くなっている。

(コードなんて書けない。ハッキングなんてできない)

彼女にあるのは、予言という名の「嘘」を本当に変えてきた、狂気じみた執念と、深層意識への感応能力だけ。

ならば、それを使うしかない。

「これが、最後」

咲の声は、砂のように掠れていた。

彼女は右手の親指を、スマホの画面に走る鋭利な亀裂に押し当てた。

ためらいはなかった。

グジュ、と嫌な音がした。

ガラスの破片が柔らかい皮膚を食い破り、肉に食い込む。

鋭い痛みが脳天を突き抜ける。

「あ……ぐっ……!」

脂汗が滲む。だが、指を離さない。それどころか、さらに強く、骨が軋むほどに押し込んだ。

鮮血が溢れ出し、液晶の亀裂を満たしていく。

温かい、鉄の臭いのする赤。

それは、彼女が「データ」でも「幽霊」でもなく、生きている人間であることの証明だった。

血液が回路に侵入し、ショートした画面がバチバチと火花を散らす。

その激痛と、流れ出る生命力を媒介にして、咲は全神経をネットワークにダイブさせた。

キーボードはいらない。

この痛みこそが、送信ボタンだ。

(聞いて。私の声を、痛みを、赤を)

彼女は、自分自身の存在を燃料にくべ、たった一つの「予言」を世界中の深層意識に叩きつける。

それはアメノサギリの自殺宣言であり、世界への遺言だった。

『神は死んだ。鏡を見ろ。そこに映る者こそが、お前を救う唯一の救世主だ』

咲の自我が、ミキサーにかけられたように拡散していく。

数億人の脳内に、直接イメージを焼き付ける。

何かに縋るな。スマホを捨てろ。自分の足で立て。

その強烈な「拒絶」と「激励」のメッセージを、血の赤色に乗せて。

「う、ああああああッ!」

咲は絶叫した。

指だけでなく、魂が引き裂かれる激痛。

スマホが真っ赤に発光し、彼女の血液をすべて吸い上げるかのように脈動する。

世界を覆っていた灰色の霧が晴れていく。

オゾンの臭いが消え、土と雨の匂いが戻ってくる。

彼女の指から溢れた「生」が、希薄になった現実に色彩(いろ)を塗り戻していく。

視界が白く染まる直前、咲は見た。

手首まで透けていた自分の手が、鮮血に濡れながら、確かな実体を取り戻していく様を。

そして、その代償として、スマホが粉々に砕け散る様を。

エピローグ 彩りのある世界

三年後の春。

街路樹のハナミズキが、薄紅色の花を風に散らしている。

公園のベンチで、天音咲は文庫本を閉じた。

彼女の右手の親指には、奇妙な形をした火傷のような傷跡が残っていた。

その傷は、時々ずきりと痛む。特に雨の日や、人混みの中にいる時には。

けれど、咲はその痛みを嫌いではなかった。それは、彼女がかつて世界と繋がっていた証であり、もう二度とあちら側へ行かないための戒めでもあったからだ。

「あれ、天音さん? また紙の本読んでるの?」

同僚の声に、咲は顔を上げた。

「うん。やっぱり、手触りがある方が好きだから」

咲は微笑んだ。その笑顔には、かつての卑屈な影はない。

彼女はもう、スマートフォンを持っていない。

いや、持てないのだ。

あの夜以来、彼女の指は静電容量式のタッチパネルに反応しなくなった。ATMも、券売機も、スマホも、彼女の指が触れても沈黙を守る。

まるで、デジタルな世界の方から「お前はもう用済みだ」と拒絶されているように。

だが、それでよかった。

咲はベンチから立ち上がり、大きく伸びをした。

風が頬を撫でる。土の匂いがする。子供たちの笑い声が、電子データではなく、空気の振動として鼓膜を震わせる。

ふと、通りすがりの高校生たちの会話が聞こえた。

「ねえ、昔『アメノサギリ』って流行ったじゃん? あれ結局何だったんだろうね」

「さあ? 集団幻覚でしょ。ていうか、あの頃の記憶なんか曖昧なんだよね」

「だよねー。ま、どうでもいいか。腹減ったし」

彼らは笑い合いながら通り過ぎていく。

誰も、そのすれ違った地味な女性が、かつて彼らの命を繋ぎ止めたことなど知らない。

世界は残酷なほど健全に、彼女のことを忘却していた。

咲は、ずきりと痛む親指を、そっと左手で包み込んだ。

「……うん、どうでもいいことだね」

誰にも聞こえない声で呟き、彼女は歩き出した。

不便で、面倒で、けれど鮮やかな色彩に満ちた、愛おしい現実の中へ。

AIによる物語の考察

**深掘り解説文**

**1. 登場人物の心理**
主人公・天音咲は、母の「空っぽな人形」という言葉から自己の無価値感に苛まれ、匿名の神「アメノサギリ」を演じることで存在意義を求めた。しかし、その行為が自身の肉体を現実から剥離させ、世界を崩壊させていく。彼女は、自己犠牲と引き換えに人々を「情報への依存」から解放し、真の救済へと導こうとする、複雑な救世主心理を抱えています。

**2. 伏線の解説**
咲の「指の透明化」は、現実存在から情報的存在への変容を示唆し、アメノサギリとの同化を暗示します。スマホの「画面の亀裂」は、アメノサギリというシステムの脆さ、そして咲自身の精神の崩壊を象徴。鏡に映らない咲の姿は、彼女の自己喪失と、世界からの認知の剥奪、まさに「閾値」を超えつつある状態を暗示しています。

**3. テーマ**
本作は、情報が現実を侵食し、人々が不確かな「神」に依存する現代社会への警鐘を鳴らします。個人の存在意義、実存の危機の問いかけ、そして「神を殺し」、自身を犠牲にすることで、人々が自らの内に救世主を見出すべきだという、根源的な自己救済の哲学が主題となっています。忘却の上に再生される世界は、個の犠牲と社会の継続という普遍的なテーマを浮き彫りにします。
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