万象を紡ぐ最後の筆
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万象を紡ぐ最後の筆

第一章 墨色の残滓

千景(ちかげ)の額には、生まれつき砂時計の紋様が浮かんでいた。淡く金色の光を放つそれは「時の砂」と呼ばれ、彼女に残された寿命そのものであった。そして、彼女の砂は、人よりもずっと速く落ちていく。強い「念」を抱く者ほど、命の燃焼が早いという世界の理(ことわり)のせいだ。

彼女の念は、その右手に握られた一本の古びた絵筆に注がれる。墨壺に念を込めて浸すと、どろりとした液体は、彼女の感情の色を映して艶を帯びた。心象絵巻――強い想念を描いた通りに実体化させる、呪いとも祝福ともつかぬ異能。千景は、この力で生計を立てていた。

「この子の笑った顔を、もう一度……」

老婆の皺枯れた手が、千景の袖を弱々しく掴む。背後には、幼くして逝った孫の小さな仏壇。千景は静かに頷き、白紙の巻物を広げた。老婆の語る思い出を手繰り、記憶の糸を紡ぐ。脳裏に浮かぶのは、向日葵のように笑う童子の姿。その純真な笑顔への強い「願い」を、念として墨に込める。

さらさらと筆が走る。墨の香りが、線香の煙と混じり合った。やがて絵が完成すると、紙の上に描かれた少年がふわりと身じろぎし、立体的な幻となって立ち上がった。

「ばあちゃん」

鈴を転がすような声。老婆は嗚咽を漏らし、その幻影を抱きしめようと腕を伸ばす。触れることは叶わないが、確かな温もりがそこにはあった。千景は、額に走る微かな冷気を感じながら、静かに目を伏せる。またひとつ、時の砂がこぼれ落ちた。これが彼女の日常。命を削り、誰かの心を慰める日々。

その均衡が崩れたのは、月のない夜だった。

史実では合戦に敗れ、無念の死を遂げたという落武者の供養絵巻を描いたときのことだ。依頼主の「どうか安らかに」という念とは別に、千景自身の心に澱んでいた焦燥感が、墨に混じってしまったらしい。

完成した絵巻から、血と泥の匂いが立ち上った。紙の上に描かれた武者が、ぎちり、と関節を鳴らし、その姿を現実へと引きずり出したのだ。その両目は怨嗟の炎で赤く燃え、手にした錆びた刀を振りかぶる。

「まだだ……まだ、終わってはならぬ!」

感情の暴走。それは心象絵巻の最も危険な側面だった。千景は舌打ちし、新たな巻物を広げると、残された念を振り絞って「巨大な岩」を描き出す。轟音と共に実体化した岩が、落武者を壁際へと押し潰した。怨嗟の叫びが掻き消え、武者の姿は墨の染みとなって霧散していく。

ぜ、と荒い息を吐く千景の額で、時の砂がごそりと大きく崩れた。まるで警告のように。世界に留まるべきでない「無念」が、彼女の絵筆を通じて現世に漏れ出そうとしている。そんな得体の知れない予感が、彼女の背筋を凍らせた。

第二章 無念の顕現

予感は、ほどなくして悪夢のような現実となった。落武者の一件は序章に過ぎなかった。

京の都大路に、突如として炎が舞った。燃え盛る寺院の幻影の中から現れたのは、苛烈な気性で知られた戦国の将軍だった。彼は生前、天下統一を目前に部下の裏切りに遭ったという。その無念が、数百年もの時を超えて現世に蘇ったのだ。

「我が覇道を阻む者、悉く灰燼に帰してくれるわ!」

将軍の咆哮と共に、彼の周囲から幻の兵士たちが次々と湧き出し、人々を恐怖に陥れる。千景は現場に駆けつけ、歯を食いしばった。額の砂が、彼の強大な念に呼応するかのようにざわめいている。

「私の絵巻から……なぜ!」

問うている暇はない。千景は懐の絵筆を握りしめ、疾走しながら巻物を広げた。彼女の念が墨となり、筆先から奔流を生む。描くは、天を覆うほどの「豪雨」。墨で描かれた黒い雨雲がたちまち空に広がり、灼熱の炎を叩き消さんと激しい雨を降らせた。

じゅう、と音を立てて炎が勢いを失う。しかし、将軍の無念は消えない。

「小賢しい真似を!」

彼は燃え盛る太刀を千景に向けた。その時、千景が握る絵筆が、不意に脈打つように熱を帯びた。まるで、将軍の無念を喰らおうとするかのように。千景は無意識に、その熱に導かれるままに筆を動かす。描いたのは、一本の巨大な「桜の古木」。

地面を割り、瞬く間に成長した桜は、満開の花を咲かせた。花びらが吹雪のように舞い、将軍と彼の兵士たちを包み込む。それは、ただ美しいだけの光景ではなかった。桜吹雪に触れた兵士たちは、安らかな表情を浮かべ、墨の粒子となって溶けていく。鎮魂の絵巻。

将軍は目を見開き、舞い散る花びらに手を伸ばした。

「これは……我が故郷の桜か……」

彼の荒々しい念が和らいでいく。だが、完全に消え去る寸前、彼は千景を鋭く見据えた。

「小娘……我らを呼び覚ますのは、お主の意志か?否……違うな。もっと大きな何かが……」

その言葉を最後に、将軍の姿もまた、静かに掻き消えた。

戦いは終わったが、千景の消耗は激しかった。額の砂は、もはや半分を切ろうとしている。膝をついた彼女の脳裏に、将軍の最後の言葉がこだましていた。「もっと大きな何か」。この現象は、自分の力の暴走だけが原因ではないのかもしれない。だとしたら、一体誰が、何のために?

第三章 世界の慟哭

次々と現れる過去の亡霊たち。剣聖、悲劇の姫、志半ばの革命家。千景は命を削り、彼らの無念を鎮める戦いを続けた。その度に、手に馴染んだ絵筆は奇妙な共鳴を示し、彼女の力を増幅させたが、代償として時の砂は加速度的に失われていった。

そして、ついに最強の「無念」が顕現する。

月が血のように赤い夜、古城の天守閣にその男は現れた。乱世を終結させ、新たな時代を築こうとしながら、最も信頼した部下に討たれた伝説の覇王――暁月(あかつき)。

他の亡霊たちのような猛々しい狂気はない。彼は静かに月を見上げ、そこに佇んでいた。だが、彼が発する念の圧力は、これまで対峙した誰よりも強大で、空気を歪ませるほどだった。

「お主か。我らを現世(うつしよ)に繋ぎ止める絵師というのは」

暁月はゆっくりと振り返る。その瞳には、深い理性が宿っていた。

「なぜ、こんなことを……」

千景が震える声で問うと、彼は静かに首を振った。

「問いが違う。なぜ我らが現れたか、だ。我らを呼び出したのは、お主ではない。この世界そのものだ」

彼の言葉は、雷鳴のように千景の心を打った。

「世界が……?」

「そうだ。この世界は、遠からず滅びる」

暁月は語り始めた。時の砂が完全に枯渇し、すべての生命と思念が停止する未来。時間の流れそのものが淀み、やがて無に帰す大災厄。それを防ぐ術を失った世界が、最後の救いを求め、過去に生きた者たちの強大な「念」――無念を、未来への警鐘として呼び覚ましたのだと。

「我らの暴走は、この世界の断末魔の叫びよ。滅びゆく未来に対する、悲痛な慟哭なのだ」

千景は絶句した。自分はただ、歴史の染みを浄化しているだけだと思っていた。だが、本当は、死にゆく世界の瀬戸際で、その叫びを鎮めていただけだったのだ。

「ならば、どうすれば……」

「知らぬ。だが、我らには我らの果たせなかった志がある」

暁月の瞳に、再び覇王の炎が灯った。

「我らが呼び覚まされた意味が世界の救済にあるのなら、まずはこの腐りきった現世を立て直し、我が理想の国を築くまで。それこそが、未来へと繋がる唯一の道と信じる」

彼は腰の刀に手をかけた。その無念もまた、本物。世界の未来と、目の前の英雄が抱く途方もない理想。千景は、その両方を一身に受け止め、最後の決断を迫られていた。

第四章 時の源流に捧ぐ絵巻

千景は、静かに絵筆を構えた。暁月を力で封じることは、根本的な解決にならない。彼の言う通り、彼らの無念は世界の叫びそのものなのだから。ならば、自分が描くべきは、ただ一つ。

「覇王・暁月。あなたの夢見た国を、私に見せてください」

彼女の言葉に、暁月はわずかに目を見張る。千景は、残された僅かな時の砂――己の命のすべてを、念として筆先へと注ぎ込んだ。それは、死への覚悟を決めた、澄み切った祈りのような念だった。

額の紋様が、最後の輝きを放つ。砂が流れ落ちる幻の音が、やけに大きく聞こえた。

彼女が描き始めたのは、暁月との戦いではない。彼が築きたかったであろう、理想の国の姿だった。子供たちの笑い声が響く町。民が畑を耕し、実りを分かち合う村。争いのない、穏やかな光に満ちた風景。それは、千景自身が心の底から渇望していた世界でもあった。

絵筆が、これまで感じたことのないほどの熱を発する。それは、持ち主の最後の念を吸い上げ、世界の理を書き換えるための触媒として、本来の力を覚醒させた姿だった。失われた「時の管理者」が、この瞬間のために遺した希望の道具。

巻物から溢れ出した光が、世界を包み込んでいく。千景の描いた理想郷の絵巻が、現実の風景と溶け合い、一つになっていく。暁月は、その光景を呆然と見つめていた。彼の鋭い眼差しが和らぎ、口元に穏やかな笑みが浮かんだ。

「そうか……これだ。我が見たかったものは……」

彼の身体が光の粒子となり、風に溶けていく。他の場所に現れていた亡霊たちもまた、その無念を浄化され、安らかに昇華していった。

千景の身体もまた、足元から透き通り始めていた。彼女は「時の砂の源流」へと還っていくのだ。最後の念を世界に捧げ、新たな時の流れを生み出すための礎として。意識が薄れゆく中、彼女は感じていた。淀んでいた時の流れが、再び清らかに、そして緩やかに動き出すのを。人々が、当たり前に明日を信じられる世界が、始まるのを。

「これで……よかった」

誰に聞かれることもない呟きと共に、千景の姿は完全に消え失せた。

***

世界から、過去の亡霊たちの脅威は去った。人々は額の「時の砂」の減りが緩やかになったことに気づき、未来への希望を語り合うようになった。

だが、誰も、千景という名の孤独な絵師がいたことを覚えてはいない。彼女の存在そのものが、世界を救うための代償として、時の流れから消し去られてしまったからだ。

都の片隅、忘れ去られた路地裏に、一本の古びた絵筆だけが静かに横たわっていた。その黒檀の軸には、まるで誰かの涙の粒のように、虹色に輝く小さな砂が一粒、きらりと光を放っていた。

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