第一章 澄んだ和音と古びた琴
神田の裏通り、陽の光さえ遠慮がちに差し込むような細い路地に、龍之介は工房を構えていた。かつては名を馳せた武家の嫡男であったが、今は刀を音叉に持ち替え、琴や三味線の調律を生業としている。彼が武士を捨てた理由は、誰にも語ったことはない。
龍之介には、生まれついての秘密があった。人の心の声が、「音」として聞こえるのだ。嘘をつく者の声はガラスが砕けるような鋭い不協和音に、嫉妬は粘つくような低音に、憎しみは耳を焼くような軋み音に聞こえる。人の世は、不快な音の洪水だった。その濁流に耐えきれず、彼は静寂を求めてこの場所に流れ着いた。楽器の純粋な響きだけが、彼の心を慰める唯一の救いだった。
ある雨の日の午後、工房の戸が静かに叩かれた。そこに立っていたのは、粗末な着物をまとった盲目の少女だった。歳は十か十一か。光のない瞳は虚空を見つめているが、その佇まいは驚くほど凛としていた。
「ここは、どのような音でも調えてくださると伺いました」
少女の声は、澄んだ鈴の音のようだった。そして、龍之介はその背後にある心の音に息を呑んだ。一点の曇りもない、完璧な和音。彼がこの世で初めて耳にする、純粋で美しい響きだった。
「名は、小夜と申します。母の形見の琴を……どうか、もう一度鳴るようにしてくださいませ」
小夜が差し出した古びた桐の琴は、幾筋ものひびが入り、絃は切れかかっていた。それはもはや楽器ではなく、ただの木箱に近かった。だが、龍之介は断れなかった。目の前の少女から流れる清らかな和音に、干上がった心の一部が潤されていくのを感じたからだ。
「わかった。預かろう」
龍之介が琴を受け取った、その瞬間。彼の耳に、これまで聞いたことのない異質な不協和音が突き刺さった。それは、琴そのものから発せられていた。深く、底知れない悲しみが凝り固まったような、凍てつく音。まるで、琴自体が何かを訴え、呻いているかのようだった。
少女の心は完璧な和音。しかし、彼女が持ってきた琴は、救いようのない不協和音を奏でている。この奇妙な矛盾が、龍之介の静かな日常に、波紋のように広がっていく予兆となった。
第二章 楽譜に秘められし声
龍之介は、小夜の琴と向き合った。埃を払い、胴を磨き、新しい絃を張る。指先で軽く弾くと、やはりあの不協和音が響く。それは単なる物理的な不調ではない。この琴には、音にできない「記憶」が染みついているようだった。
数日後、小夜が再び工房を訪れた。
「龍之介様の心の音は、とても静かですね。でも、少しだけ、寂しい音がします」
光のない瞳で、小夜は正確に龍之介の内面を言い当てた。彼女もまた、別の形で世界の「音」を聴いているのかもしれない。
龍之介は尋ねた。「この琴には、何か謂れがあるのか」
小夜は小さく頷いた。「父は、藩の勘定方でございました。ですが、三年前、公金横領の濡れ衣を着せられ、斬られました。母は、父の無実を信じておりました。亡くなる直前、『この琴の音が、いつか真実を教えてくれる』と……」
その言葉に、龍之介の胸がざわついた。武家、藩、不正。彼が捨ててきた世界の、不快な響きだった。関わるべきではない。心の警鐘が鳴る。しかし、小夜の澄んだ和音が、彼を引き留めた。
琴の修繕を続けるうち、龍之介は胴の内側に、微かな引っかかりを見つけた。薄い和紙が張り付けられている。慎重に剥がすと、そこに現れたのは墨で書かれた不可解な模様。それは一見すると染みに見えたが、注意深く見ると、音の長短や高低を示す、一種の楽譜であることに気づいた。
「これは……」
龍之介は試しに、その楽譜通りに琴を奏でてみた。奏でられたのは、お世辞にも美しいとは言えない、途切れ途切れの旋律。しかし、その不規則な音の連なりが、彼の脳裏にある種の情景を喚起した。それは、特定の場所の地図、あるいは何かの手順を示す「音の暗号」のように感じられた。
「この音を頼りに、父上の屋敷跡へ行ってみよう」
なぜそんなことを口にしたのか、龍之介自身にも分からなかった。ただ、この琴が発する悲痛な叫びと、小夜の純粋な願いを、無視することができなかった。彼は再び、自分が逃げ出したはずの過去と向き合おうとしていた。音叉を懐にしまい、彼は小夜の手を引いて、雨上がりの湿った道を歩き始めた。
第三章 聞こえざる真実
小夜の父が住んでいた武家屋敷は、今は荒れ果て、蔦の絡まる廃墟となっていた。主を失った庭には、無人の静寂が満ちている。龍之介は楽譜の記憶を頼りに、縁側の特定の場所で琴を構えた。
彼が暗号の旋律を奏でると、奇妙なことが起こった。琴の音が、床板と共鳴し、低いうなりを上げたのだ。龍之介が音の響く場所を調べると、一枚だけ不自然に浮き上がる床板が見つかった。それを引き剥がすと、床下から黒塗りの小箱が現れた。
箱の中には、一冊の帳簿が収められていた。藩の上層部による公金の不正な流れが、詳細に記されている。これが、小夜の父が命を懸けて守ろうとした真実だった。
「これで、お父上の無念が晴らせるかもしれん」
龍之介が安堵の息をついた、その時だった。背後から、冷たい声が響いた。
「そこまでだ、龍之介」
振り返ると、そこに立っていたのは藤堂景虎。龍之介のかつての親友であり、今は藩の若き家老として権勢を振るう男だった。彼の背後には、数人の配下が刀を構えている。藤堂の心からは、複雑に絡み合った、激しい不協和音が鳴り響いていた。
「やはりお前か、藤堂。お前が、この不正の黒幕だったのだな」龍之介は失望と怒りを込めて言った。
藤堂は悲しげに首を振る。「お前は、まだ何も分かっていない」
そして、藤堂は衝撃的な事実を告げた。
「お前のその耳が聞く『音』は、真実の一面に過ぎん。それは他人の感情そのものではなく、お前自身の心が反射して作り出した幻影なのだ。お前は人の悪意に敏感すぎるあまり、他のあらゆる感情――苦悩や葛藤、慈悲さえも、不快な『不協和音』として捻じ曲げて聞いてきた」
龍之介は混乱した。何を言っているのだ、この男は。
「ならば、この不正は? 小夜殿の父を殺めたのは誰だ!」
藤堂の瞳が、深く沈んだ。「……小夜殿の父君を斬るよう命じたのは、我らが藩主。そして、お前の実の父親だ」
雷に打たれたような衝撃が、龍之介を貫いた。父が? あの厳格で、正義を体現したような父が、不正に手を染め、人を殺めたというのか。
「父上は、藩を、民を飢饉から救うために、やむなく不正に手を貸した。その苦悩がお分かりか。だが、お前は父上の心の音を『醜い不協和音』と断じ、ただ逃げ出した。お前の耳は、父上の悲痛な叫びを聞き取ろうとはしなかったのだ」
藤堂の言葉が、龍之介の世界を根底から覆した。彼の能力は、真実を映す鏡ではなかった。それは、彼自身の不信と恐怖を増幅させる、歪んだレンズだったのだ。彼は人の心を聴いていたのではない。自分の心の弱さが奏でる雑音を、他人のせいにしていただけだった。
呆然と立ち尽くす龍之介の袖を、小夜がそっと引いた。
「龍之介様……」
彼女の声は震えていた。
「あなたの心の音が、今、壊れてしまいそうに鳴っています。でも……でも、その奥から、とても優しい音が聞こえます」
その言葉に、龍之介は我に返った。そうだ。自分は、この少女の澄んだ和音に救われたではないか。彼女は、彼の心の奥底にある、彼自身も忘れていた響きを聴いてくれたのだ。
第四章 新たなる響き
龍之介は、ゆっくりと顔を上げた。彼の耳には、まだ世界の不協和音が聞こえている。藤堂の苦悩、配下たちの緊張、そして遠くで鳴く鳥の声。だが、その聞こえ方は、以前とはまるで違っていた。一つ一つの音が、それぞれの意味と背景を持っていることに、彼は初めて気づいた。それは、ただ不快な雑音の洪水ではなかった。世界を構成する、無数の旋律の集合体だった。
彼は懐から音叉を取り出し、静かに鳴らした。キィン、と澄んだ基準音が、廃墟の空気に響き渡る。それは、彼の新たな決意の音だった。
「藤堂。俺は間違っていた」龍之介は帳簿を拾い上げ、藤堂に差し出した。「だが、過ちを正すのに、遅すぎることはないはずだ」
藤堂は驚きに目を見開いたが、やがてその表情は深い理解へと変わった。彼は龍之介から帳簿を受け取ると、深く頭を下げた。
「……待っていた。お前が、真の『調律師』となる日を」
藤堂は、龍之介の父の苦悩を知りながら、友がいつか自分の殻を破ってくれることを信じ、藩の中で汚れ役を演じ続けていたのだ。彼の心の不協和音は、忠義と友情の間で引き裂かれる、苦悶の旋律だったのである。
数日後、龍之介は、生まれ育った城へと向かった。もはや彼に迷いはない。父と対峙し、その心の音を、今度こそ正しく聴くために。そして、藩という巨大な楽器の、狂った音律を正すために。それは、血を分けた親子による、最も困難な調律の始まりとなるだろう。
彼が歩き出すと、背後から、懐かしい琴の音が聞こえてきた。小夜が、工房で龍之介の帰りを待ちながら、琴を奏でているのだ。その音色は、父を失った悲しみを含みながらも、未来への希望を確かに感じさせる、力強く美しい和音だった。
龍之介は、その響きを胸に、前を向いた。彼の耳には、街を行き交う人々の、無数の心の音が流れ込んでくる。喜び、悲しみ、怒り、そして愛。それら全てが混じり合った、この世界の複雑で、しかし愛おしい音楽を、彼はもう恐れない。
音叉を握るその手は、かつて刀を握っていた手だ。だが今、彼が向かうのは、斬り合いの戦場ではない。対話と理解によって、歪んだ響きを調和へと導く、新たな闘いの舞台だった。空は青く澄み渡り、龍之介の歩む先を、静かに照らしていた。