残響を聴くもの
2 4159 文字 読了目安: 約8分
文字サイズ:
表示モード:

残響を聴くもの

第一章 凍てつく音色

風の音が、死んだ。

それが、響夜(キョウヤ)が「凍結領域」に足を踏み入れたことを知る合図だった。彼の盲いた両目に映るのは永遠の闇だけだが、その代わり鋭敏になった聴覚が、世界のあらゆる音を拾い上げる。だが、ここでは何も聞こえない。頬を撫でるはずの空気の流れも、遠くでざわめく木の葉の音も、全てが完璧な静寂の中に塗り込められていた。

足元で、乾いた土がぱきりと音を立てる。いや、違う。これは土ではない。人の形をした、石だ。響夜は鞘に収めたままの刀の柄で軽くそれに触れる。こつり、と無機質な感触。数刻前まで、この村で笑い、語らっていたであろう人々の、最後の姿だった。

彼はゆっくりと歩を進める。空気を吸い込むと、埃と、凍りついた悲しみの匂いがした。この現象が起こる原理を、響夜は知らない。ただ、人が深い絶望に囚われた時、その感情が世界の理を歪め、時間を停止させるのだと聞いている。

そして、耳を澄ますと、聞こえてくる。

全ての音という音が消え失せた静寂の奥底から、微かに響く音。それは甲高い、少年の悲鳴の残響。ここ数ヶ月、全国で頻発する凍結領域の最深部からは、必ずこの同じ悲鳴が聞こえてくるのだ。

響夜は腰の刀に手を添える。刀身に微かに砂時計の紋様が浮かぶ、彼の愛刀「時を縫う刀(トキノヌイカタナ)」。その悲鳴の正体を突き止め、この連鎖を断ち切ること。それが、彼に課せられた旅路だった。

第二章 時を縫う刃

村の中心、広場と思しき場所にたどり着く。悲鳴の残響は、ここが最も強い。まるで、この場所から世界中に響き渡っているかのようだ。人々は皆、空を見上げたまま石化している。その表情は一様に、深い驚愕と絶望に彩られていた。

「何があった……」

響夜は呟き、ゆっくりと刀を抜いた。

空気が震える。時を縫う刀が鞘から放たれると、凍てついた時間の澱みが僅かに揺らぎ、彼の周囲にだけ音の世界が戻ってきた。刀身に刻まれた砂時計の紋様が、淡い光を放っている。

響夜は目を閉じ、聴覚に全神経を集中させる。刀が凍結した時間に切れ込みを入れ、過去の残響を縫い合わせていく。

――ドォォン、という地響き。

――家々が崩れる轟音。

――人々の短い悲鳴、そして、絶望の沈黙。

それは、一瞬の出来事だったようだ。天から何かが降り注ぎ、村を破壊した。その凄惨な光景が、音の断片として響夜の脳裏に流れ込んでくる。そして、全ての音を塗りつぶすように、あの甲高い少年の悲鳴が響き渡った。

『――やめて!』

それは、懇願だった。助けを求める声ではなかった。何かを止めようとする、必死の叫び。

残響に深く同調しすぎたせいか、響夜の頭を鋭い痛みが貫く。彼は膝をつき、刀を杖にしてかろうじて体を支えた。強い悲劇の残響は、聞く者の精神を蝕む。だが、彼は確信を深めていた。この悲鳴は、ただの現象ではない。何者かの強い意志が介在している。

第三章 支配者の影

いくつもの凍結領域を渡り歩き、響夜は悲鳴の残響を地図の上に繋ぎ合わせていった。そして、ある不気味な法則に気づく。凍結領域が発生した場所は、全て数年後に起こると予言されている大災害の被災想定地域と、寸分違わず一致していたのだ。

まるで、未来に起こる悲劇を先取りするように、時間が凍らされている。

「偶然ではない……」

宿屋の一室で、響夜は冷たい汗を拭った。誰かが、意図的に時間を凍結させている。未来を知り、それを防ごうとしているのか。あるいは、もっと別の邪悪な目的があるのか。

人々は、その存在を「時の支配者」と呼んで恐れていた。

その夜、響夜は悪夢にうなされた。故郷が炎に包まれる音。愛する人々が自分を呼ぶ声。そして、何もできなかった自分の無力さを責める、過去の残響。彼は悲鳴を上げて飛び起きた。全身が汗で濡れている。凍結領域の残響に触れすぎるたび、彼自身の心の傷が抉られるのだ。

だが、立ち止まるわけにはいかない。あの少年の悲鳴に、なぜか彼は他人事とは思えないほどの繋がりを感じていた。あの悲鳴を止めなければならない。それはもはや使命ではなく、彼自身の魂の叫びとなっていた。

第四章 始まりの場所

全ての凍結領域が指し示す場所。それは、この国の首都、その旧市街の中心に聳える大時計塔だった。そこから、これまでとは比較にならないほど強大な凍結の気配が放たれている。

響夜がたどり着いた首都は、死の都と化していた。天を突くほどの高層建築も、道行く人々も、空を飛ぶ鳥さえも、全てが時を止められ、巨大な灰色の彫刻と化している。耳を澄ませば、全ての凍結領域で聞いてきたあの悲鳴が、まるで交響曲のように、幾重にも重なって響き渡っていた。

ここは、全ての始まりの場所。

響夜は刀を抜き、その柄を強く握りしめる。時の支配者が、この先にいる。

時計塔へと続く道は、瓦礫で埋め尽くされていた。まるで、過去に一度、この場所が徹底的に破壊されたかのようだ。響夜は慎重に足を進める。一歩踏み出すごとに、悲鳴の残響は強まり、彼の精神を直接揺さぶってくる。

これは、ただの絶望ではない。世界そのものに向けられた、深淵のような悲しみだ。

時計塔の真下。広場の中心で、響夜は足を止めた。そこに、一つの人影があった。風もないのに、その人物が纏う黒い外套の裾だけが、まるで時間そのもののように揺らめいている。

第五章 時の支配者

「ようやく来たか」

その声は、ひどく掠れていた。だが、どこかで聞いたことがあるような、懐かしさすら覚える響きを持っていた。

「お前が、時の支配者か」

響夜は刀を構える。相手はゆっくりと響夜の方を向いた。フードで顔は窺えない。

「支配者、か。滑稽な呼び名だ。私は、ただ未来を救おうとしているに過ぎない」

「人々を石に変えて、か? これが救いだと?」

「他に方法がなかった。このまま時が進めば、この国は、いや、世界は滅びる。全てが無に帰すのだ。私はそれを知っている」

男の言葉には、揺るぎない確信があった。それは、実際にその未来を見た者だけが持ちうる、絶望の色をしていた。

響夜は一歩、踏み出した。

「お前の顔を見せろ」

男は、ふ、と短く息を吐き、静かにフードを下ろした。

そこに現れた顔を見て、響夜は息を呑んだ。闇しか映さないはずの彼の目に、まるで幻のようにその光景が焼き付く。

深い皺が刻まれ、両の目には自分と同じように光のない、だが遥かに深い絶望を宿した瞳。それは、紛れもなく、歳を重ねた自分自身の顔だった。

「……なぜ」

「私は、お前だ。大災害を生き延び、全てを失った未来のお前だよ」

第六章 悲鳴の真実

未来の響夜は、静かに語り始めた。

彼の生きた未来。数年後、この首都で発生した原因不明の大爆発が引き金となり、世界は連鎖的に崩壊へと向かった。彼は全てを失い、ただ一人、生き残った。そして永い孤独の果てに、彼は時間を遡る力を手に入れ、過去を変えるためにこの時代に戻ってきたのだ。

「大災害の引き金は、この時計塔で起こる、たった一人の少年の死だった。私は、その最初の絶望を防ごうとした。だが、未来は変えられなかった。運命はあまりに強固だ」

彼にできたのは、悲劇が起こるその瞬間、時間を「凍結」させることだけだった。首都を、村を、街を、災害の連鎖が起こるはずだった場所を、先回りして凍らせていく。それこそが、彼が世界を救うために見つけ出した、唯一の方法だった。

「では、あの悲鳴は……」

「そうだ」と、未来の自分は顔を歪めた。「あの少年の悲鳴こそ、私のものだ。時間を凍結させるたび、因果の歪みとして響き渡る、私の過去の絶望の残響なのだ。私が、故郷と家族を失った、あの日の……」

皮肉な真実だった。響夜がずっと追いかけてきた悲鳴は、未来の自分自身が過去の悲劇を繰り返さないために生み出していた、新たな悲劇の音色だったのだ。世界を救うための行為が、世界を静かな死で満たしていた。

第七章 新たな選択

「もう、やめろ」

響夜は、時を縫う刀をまっすぐに未来の自分へと向けた。

「この静寂は、救いじゃない。ただの諦めだ」

「他に道があるとでも言うのか! この先に待つのは地獄だけだぞ!」

未来の響夜が叫ぶ。それは、過去の自分への悲痛な訴えだった。

二人の響夜が、時が止まった広場で対峙する。剣を交えるまでもない。互いの呼吸、覚悟、そして絶望が、音なき音となってぶつかり合っていた。

やがて、現在の響夜はゆっくりと刀を下ろした。そして、切っ先を未来の自分ではなく、天へと向ける。全ての悲鳴の残響が渦巻く、この凍結領域の核へと。

「お前の未来は、俺が変える。だが、お前のやり方じゃない」

彼は叫んだ。

「俺は、止まった時間の中の安寧よりも、不確かでも動き続ける未来を選ぶ!」

響夜は、時を縫う刀を振り上げた。それは、全ての元凶である「最初の悲鳴の残響」そのものを斬り裂くための一閃だった。凍てついた因果を、その根源から断ち切るために。

未来の響夜が目を見開く。

「やめろ! 時が動き出せば、大災害が……!」

その制止も虚しく、刀は振り下ろされた。

世界を覆っていた悲鳴が、ぷつりと途切れる。すると、まるで張り詰めていた糸が切れたかのように、世界の凍結がゆっくりと溶け始めた。灰色の彫像と化していた人々に、微かに血の気が戻り、止まっていた時計塔の針が、軋みながらも再び時を刻み始める。

未来の響夜の身体が、足元から光の粒子となって崩れていく。彼は、穏やかな、どこか安堵したような表情で呟いた。

「そうか……その選択があったか……。あとは、頼んだぞ……過去の俺」

その言葉を最後に、時の支配者は完全に消え去った。

時が再び流れ始めた世界で、響夜は一人、刀を杖に立ち尽くす。彼の耳にはもう悲劇の残響は聞こえない。ただ、蘇った街のざわめきと、頬を撫でる優しい風の音だけが、静かに響いていた。未来がどうなるかは分からない。だが、彼は選んだのだ。絶望に凍える過去ではなく、希望も絶望も全て抱きしめて進む、明日を。

この物語の「別の結末」を創作する

あなたのアイデアをAIに与えて、この物語の続きや、もしもの展開を創作してみましょう。

0 / 200
本日、あと...

TOPへ戻る