江戸音調律始末(えどねちょうりつしまつ)

江戸音調律始末(えどねちょうりつしまつ)

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第一章 沈黙を探す女

その女が現れたのは、夕立が江戸の土埃を洗い流し、雨上がりの匂いが濃く立ち込める刻だった。俺、音儀(おとぎ)の仕事場である薄暗い長屋の一室に、からりと障子が開く音がした。入ってきたのは、絹の衣擦れの音さえも控えめな、気配の薄い客だった。

「ごめんください。こちらで音を合わせるお仕事をされている、音儀様でいらっしゃいますか」

鈴を転がすような、という陳腐な表現では足りぬ、凛として澄み切った声だった。ほとんど光を拾わぬ俺の目には、ぼんやりとした白い人影が映るだけだ。だが、その声の響きに含まれる微かな揺らぎから、並々ならぬ覚悟と、深い憂いを感じ取った。

「いかにも。三味線か、それともお琴かな。随分と年代物のようだが、その張り詰めた糸の音、そろそろ限界だろう」

俺は壁に立てかけてあった、客が持ってきたらしい古びた月琴を指した。俺には見えずとも、その存在が発する微かな音、空気を震わす圧で分かる。女は息を呑んだ。その驚きの呼気が、部屋の空気を小さく揺らした。

「……お見事でございます。ですが、本日お願いしたいのは、楽器の調律ではございません」

「ほう?」

俺は客用の粗末な座布団を勧めながら、耳を澄ませた。女の草履が畳を擦る音は、迷いなく、静かだ。肝の据わった人間特有の足音。

「あなた様は、江戸一番の耳を持つと伺いました。どのような音も聞き分け、その源を突き止めると」

「おだてても何も出やしねえ。用件を言いなさい」

俺がぶっきらぼうに言うと、女は居住まいを正し、その声から一切の揺らぎを消した。芯の通った、決意の音だった。

「……江戸から消えた『音』を探していただきたいのです」

「音、だと?」

「はい。私が探しておりますのは、『沈黙』という音でございます」

沈黙を探す。奇妙な依頼だった。江戸は音で出来ている。日の出と共に起き出す人々のざわめき、職人たちの槌音、天秤棒の軋み、物売りの威勢のいい声、子供らのはしゃぎ声、そして夜のしじまに響く拍子木の音。この音の洪水の中から、「沈黙」を探せと言うのか。

「あんた、正気か。静かな場所なら寺にでも行けばいい」

「いいえ、そういうことではございません。場所としての静寂ではないのです。音と音の『間』にあるべき沈黙が、この江戸から失われつつあるのです。まるで、見えぬ何かに急き立てられるように、すべての音が間を失い、ただただ鳴り響いている……。音儀様、この狂った不協和音の中から、かつてあったはずの安らかな『沈黙』を取り戻してはいただけませんか」

女の言葉は、ただの戯言ではなかった。その声には、切実な響きが宿っていた。俺はここ数ヶ月、江戸の音に奇妙な違和感を覚えていた。それは、まるで精巧な絡繰人形が刻む拍子のように、あまりに整いすぎた、人間味のないリズム。女が言う「沈黙の喪失」とは、この違和感の正体なのかもしれない。

俺はかつて、刀で人を斬った。その時の、肉を断ち、骨を砕く湿った音は、今も耳の奥にこびりついている。その日を境に俺の目は光を失い、代わりに世界は音で満たされた。以来、俺は音を憎み、音に生かされてきた。

「……面白い。その依頼、引き受けた。だが、礼は高くつくぜ」

俺の心に、久しぶりに鈍い疼きと、わずかな好奇心の音が響いた。この江戸を蝕む不協和音の正体を突き止め、調律することができたなら。あるいは、俺自身の魂にこびりついた、あの忌ましい音も、いつか調律できる日が来るのかもしれない。

第二章 不協和音の源流

依頼を引き受けた翌日から、俺の耳は江戸の探偵となった。盲いた目はもはや役には立たない。俺はただ、白杖一本を頼りに、音の奔流の中へと身を投じた。

まずは日本橋の魚河岸。威勢のいい売り声、活きのいい魚が跳ねる水音、行き交う人々の下駄の音。それらが渾然一体となり、朝の活気を生み出している。だが、女――名を静(しずか)という――の言葉を意識して聴くと、確かに奇妙な点があった。声と声が重なり合う間隔が、妙に均一なのだ。まるで、見えぬ指揮者が振り下ろす棒に合わせているかのように、個々の音が持つ自然な「揺らぎ」が失われている。

次に職人街へ足を向けた。鍛冶屋が槌を振るう音、桶屋が木を削る音、染物屋が布を打つ音。どれも熟練の技が奏でる小気味よいリズムのはずだった。しかし、それらの音もまた、どこか性急で、遊びがなかった。職人たちの呼吸音にさえ、焦りのような浅い響きが混じっている。彼らは何かに追われるように手を動かし、本来仕事の合間にあったはずの、一息つく「間」を忘れてしまっているようだった。

数日を費やし、江戸中を歩き回った。静は時折俺の長屋を訪れ、調査の進み具合を尋ねた。彼女は多くを語らなかったが、その声の奥に潜む憂いは、日を追うごとに深くなっているように感じられた。俺は彼女が差し入れる手製の握り飯を食いながら、感じた音の違和感を伝えた。

「江戸の音は、病に罹っている。まるで、拍子木かなにかで、四六時中、誰かに急かされているみてえだ」

「……その拍子木の主は、一体何者なのでしょう」

「分からねえ。だが、全ての不協和音は、一つの源流から生まれているはずだ。その中心を突き止めねばならん」

調査の最中、俺は何度も過去の悪夢に苛まれた。人を斬ったあの夜の音だ。刃が肉に食い込む鈍い音、骨の軋み、そして絶命する男が漏らした、途切れ途切れの息の音。その音を聞くたびに、俺の身体は凍りつき、呼吸が浅くなる。この耳は、俺にとって祝福であり、呪いでもあった。

手掛かりは、意外な場所から聞こえてきた。ある日の昼下がり、大店の連なる商家町を歩いていた時のことだ。他の場所と同じく、ここもまた性急な音に満ちていた。その中で、ふと、全ての音の根底に流れる、ごくごく微かな、しかし決して途切れることのない金属的な響きに気づいた。

「……カチリ……カチリ……」

それは、ほとんどの人間には聞こえないであろう、極めて精密で、冷たい音。それは江戸のあらゆる喧騒の下で、まるで大地の脈動のように、絶え間なく同じリズムを刻み続けていた。この冷徹なリズムこそが、江戸の音から「間」を奪い、人々を無意識に急き立てている元凶に違いなかった。

俺は全ての神経を耳に集中させ、その金属音の震源地を探った。音は、江戸城の方角から、いや、城に隣接する大名屋敷の一角から響いてくるようだった。そこは、幕府の要職にある老中・久世大和守の屋敷がある場所だ。

俺は静にそのことを告げた。彼女の顔は見えない。だが、俺が「久世の屋敷」と口にした瞬間、彼女の呼吸が凍りつく音を、俺の耳は確かに捉えていた。

第三章 絡繰の心音

久世の屋敷に忍び込むのは、骨が折れた。今はしがない調律師だが、元は公儀隠密の末席を汚した身だ。視力を失ってなお、音を頼りに気配を殺し、闇に紛れる術は錆びついていなかった。

屋敷の庭は、不気味なほど静かだった。虫の声も、風にそよぐ木の葉の音さえも、あの金属音に飲み込まれているかのようだ。音の源は、屋敷の奥深く、土蔵の中から響いてくる。厳重に閉ざされた蔵の扉に耳を当てると、それは確信に変わった。

「……カチリ、カチリ、カチリ……」

無数の歯車が噛み合う、冷たく、巨大な生命体の心音。俺は錠前を壊し、重い扉を押し開けた。

蔵の中にあったのは、巨大な「絡繰時計」だった。天井に届くほどの高さで、大小様々な歯車が複雑に絡み合い、巨大な振り子が正確無比な時を刻んでいる。西洋の技術と日本の絡繰の粋を集めて作られたであろうその機械は、禍々しいほどの威圧感を放っていた。これだ。こいつが江戸の音を支配する不協和音の源流。この機械が刻む完璧すぎるリズムが、人々から自然な時の流れと心の余裕を奪っていたのだ。

呆然と立ち尽くす俺の背後で、静かな声がした。

「……見つけられましたか、父の最高傑作を」

振り返ると、静が立っていた。いつの間に俺の後をつけてきたのか。彼女の足音は、この機械音の前ではあまりに無力で、聞こえなかった。

「父……? どういうことだ」

「私の父は、当代随一の絡繰師でした。晩年、久世様の命を受け、この『刻(とき)を統べる絡繰』を作り上げたのです。寸分の狂いもなく江戸に時を知らせ、人々の営みをより効率的にするための、偉大な発明だと信じて……」

静の声は、悲しみと後悔の音色を帯びていた。

「ですが、父は間違っていました。この完璧な時は、人の心を急き立て、豊かさの象徴であったはずの『間』を奪い去った。父が亡くなった後、私は自分が探していた『沈黙』が、父の作ったこの絡繰によって奪われたのだと気づいたのです。でも、私一人の力では、どうすることもできなかった。だから、江戸一番の耳を持つあなた様にお願いしたのです。この絡繰を、壊してほしい、と」

彼女の告白は、衝撃だった。俺が追い求めてきた不協和音の正体。そして、その音を止めてくれと依頼してきた女の正体。全てが、この巨大な絡繰時計の前で一つに繋がった。

俺は刀の柄に手をかけた。こいつを破壊すれば、江戸は元の音を取り戻すだろう。だが、その時、俺の耳に再びあの忌まわしい音が蘇った。人を斬った時の、命が潰える音。この絡繰を斬ることは、あの夜の繰り返しになるのではないか。音を音で、暴力を暴力で制するだけではないのか。

俺は刀を抜かなかった。代わりに、絡繰時計にゆっくりと近づき、その心音に耳を澄ませた。完璧で、冷徹で、少しの乱れもない音。だが、これは本当に「悪」なのだろうか。新しい時代の訪れを告げる、産声なのかもしれない。だとしたら、俺がすべきことは、破壊ではない。

「静殿。俺は、こいつを斬らん」

「……え?」

「俺は調律師だ。斬るのではなく、合わせるのが仕事でな」

俺は懐から、三味線の音を合わせるための小さな音叉を取り出した。

第四章 江戸の調律

俺は音叉をそっと歯の一つに当て、その反響音に耳を澄ませた。キィン、と金属質な音が蔵の中に響き渡る。巨大な絡繰は、まるで生き物のように、その音に僅かに共鳴した。

「音儀様……?」

静の戸惑う声が聞こえる。俺は構わず、絡繰の内部構造を音で探った。一番大きな歯車、中くらいの歯車、振り子を動かすための軸。それぞれの部品が発する固有の響きを聞き分ける。視力があった頃よりも、俺にはこの機械の構造が鮮明に「見えて」いた。

問題は、完璧すぎることだ。自然界の音には、必ず「揺らぎ」がある。川のせせらぎも、鳥のさえずりも、人の声も、決して同じリズムを繰り返すことはない。その予測不能な揺らぎこそが、心地よい「間」や「沈黙」を生み出す。だが、この絡繰にはそれがない。

「……ここだ」

俺は、振り子の動きを制御している、心臓部ともいえる小さな歯車を見つけ出した。そして、懐からもう一つ、調律用の小さな槌を取り出すと、目を閉じて全神経を集中させた。

江戸中の音が、俺の頭の中に流れ込んでくる。喧騒、ざわめき、笑い声、泣き声。そして、それらの根底で鳴り響く、この絡繰の冷たいリズム。俺は、二つの音が調和する一点を探した。破壊ではない。かき消すのでもない。ただ、寄り添わせる。

カンッ、と乾いた一撃。

俺が叩いたのは、歯車の、ほんの僅かな一点だった。刃こぼれにも満たない、目には見えないほどの小さな傷。だが、それで十分だった。

完璧だった歯車の回転に、ほんの、ほんの僅かな「ズレ」が生まれた。コンマ一秒にも満たない、微細な狂い。しかしその狂いが、振り子の動きに人間的な「揺らぎ」を与えた。

「カチリ……カチ……リ……カチリ……」

正確無比だった機械の心音が、不規則なリズムを刻み始めた。それはもはや冷たい機械音ではなく、どこか朴訥とした、まるで老人の鼓動のような、温かみのある音に変わっていた。

蔵の外から聞こえてくる江戸の喧騒も、呼応するように変化していくのが分かった。あの性急なリズムが和らぎ、音と音の間に、柔らかな隙間が生まれ始めている。鍛冶屋の槌音に、一拍の休みが戻った。物売りの声に、朗々とした節回しが戻った。人々は無意識のうちに、機械の支配から解放され、自分たちの呼吸を取り戻しつつあった。

静が、そっと俺の腕に触れた。彼女の指先から伝わる微かな震えが、安堵の音を奏でていた。

「……聞こえます。江戸の音が、呼吸を、取り戻していくのが……。これが、私の探していた『沈黙』……いいえ、新しい江戸の音色なのですね」

俺たちはしばらく、蔵の中で生まれ変わった江戸の音に耳を傾けていた。完全な静寂は戻らない。絡繰の音も消えはしない。だが、西洋の技術と江戸の営みがぶつかり合い、そして調和して生まれた、新しい時代の音色がそこにはあった。

俺は、人を斬ったあの夜の音を、もう恐れてはいなかった。あの音もまた、俺という人間を構成する一つの音色なのだ。憎むのではなく、受け入れ、他の音と調和させて生きていく。それが、俺なりの「調律」なのだろう。

長屋に戻る道すがら、静が呟いた。

「音儀様は、江戸を救ってくださった」

「いいや」俺は首を振った。「俺はただ、少しばかり音を合わせただけだ。これから江戸がどんな音色を奏でていくのか、それはここに住む人間たち次第さ」

俺の耳には、雨上がりの空に響き渡るような、希望に満ちた江戸の新しい音が、確かに聞こえていた。そしてその隣で、静の衣擦れの音が、これまでで一番穏やかなリズムを刻んでいた。

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