静寂師(しじまし)と記憶の残響

静寂師(しじまし)と記憶の残響

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第一章 音の無い叫び

江戸、神田の裏長屋。陽炎が立つ夏の昼下がり、俺は「音無しの弦蔵」と呼ばれている。表向きは三味線の弦を張り替えるだけの、しがない職人だ。指先で新しい糸をきりりと締め上げれば、胴に張られた猫皮が微かに震え、まだ音にならぬ音の予感を宿す。その繊細な手仕事だけが、今の俺が生きている証だった。

かつての名は、静(しずか)。幕府の御庭番の中でも、異能を持つ者だけで構成された闇の部隊にいた。俺の異能は「音を消すこと」。足音、斬撃の音、断末魔の叫び。あらゆる音を寸分の狂いなく対象から奪い去り、完全な静寂の中で標的を始末する。仲間からは畏敬と恐怖を込めて「静寂師」と呼ばれた。だが、血と静寂に塗れた日々に魂がすり減り、俺はすべてを捨てて死んだことにして、この長屋に流れ着いたのだ。

そんなある夜だった。油問屋の行灯が揺れる細い路地に、嵐の前触れのような気配が満ちた。俺が戸を閉めようとしたその時、一人の娘が転がり込んできた。息を切らし、着物の裾は泥に汚れ、恐怖に見開かれた瞳が俺を捉える。近所で評判の唄い手、お咲だ。彼女の澄んだ歌声は、この埃っぽい長屋一帯のささやかな慰めだった。

「弦蔵さん……! た、助けて……!」

震える唇が言葉を紡ぐ。だが、奇妙なことに、その声には音がなかった。唇は確かに動き、必死の形相で何かを訴えているのに、俺の耳に届くのは、背後で鳴く虫の声と、遠くで吠える犬の声だけ。彼女の喉からは、一切の音が発せられていない。まるで、見えない壁に声を吸い取られているかのようだ。

「どうした、落ち着け」

俺は身振りで示し、彼女を土間に座らせた。お咲は狂ったように喉を掻きむしり、再び口を大きく開けた。叫ぼうとしている。その表情は、全身全霊で絶叫している者のそれだ。しかし、そこにあるのは、息が漏れる微かな摩擦音だけ。世界で最も恐ろしい無音の叫びだった。

やがて、彼女は泣き崩れ、震える指で自分の喉と、外の闇を交互に指さした。その瞳が、必死に訴えかけてくる。「盗まれたんです」と。

――私の、音を。

日常が軋みを上げて崩れる音を、俺は確かに聞いた。それは、俺が捨てたはずの過去から響いてくる、不吉な呼び声だった。

第二章 静寂師の影

お咲が持ち込んだ静寂は、俺のささやかな日常に深い影を落とした。彼女を追ってきたのは、黒装束の二人組だった。その足運び、気配の消し方、そして何より、奴らが俺の店の前を通り過ぎる際に周囲の物音が不自然に歪んだことで、すぐに同類だと分かった。かつての俺と同じ、音を操る異能を持つ者たち――幕府の隠密組織「音狩り」の者だ。

「なぜ、ただの唄い手の娘を?」

俺は関わるつもりはなかった。過去は固く閉ざしたはずだ。しかし、音を奪われ、生きる希望そのものである声を失ったお咲の絶望は、俺の心の古傷を疼かせた。彼女の瞳に宿る虚無は、俺がかつて闇の中で始末してきた者たちの最期の目に似ていた。

「奴らは、他にも『音』を狙っています。桶屋の親父さんの槌音、豆腐屋の朝の笛の音……。この町の、大切な音が、少しずつ消えているんです」

お咲は、借りてきた筆と墨で、か細い文字を書き連ねた。彼女の訴えは、単なる個人的な悲劇ではなかった。江戸という街を彩る生活の音、人々の営みの旋律が、何者かによって意図的に奪われている。それは、街の魂を少しずつ殺していくような、陰湿で巨大な陰謀の始まりだった。

翌日、俺はお咲を連れて長屋を出た。かつての仲間が残した隠れ家へ身を潜めるためだ。追手の気配は常に背後にまとわりついていた。奴らは音を頼りに追ってくる。だが、俺は「静寂師」。音を消すことにかけては、音狩りの中でも右に出る者はいなかった。

橋を渡る時、俺は橋げたが軋む音、下を流れる川のせせらぎ、行き交う人々の下駄の音、その全てを俺たち二人を中心に半径三間だけ、完全に消し去った。俺とお咲は、まるで分厚い硝子の中にいるかのように、無音の世界を歩む。追手はすぐそこにいながら、俺たちの存在を示す音を何一つ捉えられず、戸惑い、苛立っているのが気配で分かった。

「……すごい」

お咲が、懐から取り出した小さな板に炭で文字を書いて見せる。彼女は俺の能力に驚嘆していたが、俺の心は鉛のように重かった。この力は、人を守るためにあるのではない。人を殺めるために磨き上げられた、呪われた技だ。使うたびに、血の匂いと消え去った命の感触が蘇る。

追跡を振り切り、古い神社の境内にある寂れた社に身を落ち着けた。そこは、俺が「弦蔵」になる前に、全ての過去を埋めた場所だった。

「お前を狙う奴らの目的は、おそらくお前の歌声に宿る何かだ。ただの音ではない、もっと特別な……」

そこまで言いかけて、俺は言葉を呑んだ。音狩りが集める音。それは、人の心を揺さぶり、記憶を呼び覚ます「力」を持つ音だ。お咲の歌声には、聞く者の心を慰め、明日への希望を抱かせる不思議な力があった。もし、その力を悪用しようとするならば……。

その夜、社に一人の男が現れた。月明かりに照らされたその顔を見て、俺は息を呑んだ。かつて、俺に静寂の技を叩き込み、兄弟子として背中を預け合った男――影斉(えいさい)。音狩りを率いる頭目、その人だった。

「静か……いや、今は弦蔵か。生きていたとはな」

影斉の声は、凪いだ水面のように静かだった。だがその奥には、底知れぬ闇が広がっていた。

第三章 盗まれた残響

「娘を返してもらおう。我々の『蒐集』の邪魔をするな」

影斉の言葉は、冷たい刃のように突き刺さった。俺は懐に忍ばせた小刀の柄を握りしめ、お咲を背後にかばう。

「蒐集だと? 人の魂とも言える音を奪っておきながら、戯けたことを言うな」

「魂だと? 笑わせる。音はただの空気の振動にすぎん。だが、その振動に付随する『何か』には価値がある」

影斉はゆっくりと歩みを進めながら、衝撃的な事実を語り始めた。

「我々が奪っているのは、単なる音ではない。その音に宿る『人々の記憶』だ」

記憶――その言葉に、俺は脳髄を殴られたような衝撃を受けた。

「桶屋の槌音には、家を建てた喜びの記憶が。豆腐屋の笛の音には、温かい朝餉を家族と囲んだ記憶が。そして、その娘の歌声には……人々が抱く、平和な時代への郷愁と、ささやかな幸福の記憶が色濃く宿っている。我々はその記憶の『残響』だけを抜き取り、集めているのだ」

影斉が率いる音狩りの真の目的は、江戸の文化を支える音を武器に転用することなどではなかった。もっと恐ろしく、巨大な計画。人々の心から幸福な記憶、労働の喜び、家族への愛情といった、生きていく上での根幹となる感情を奪い去り、江戸全体を無気力と無関心で満たし、内側から腐らせて幕府を転覆させること。それが奴らの狙いだった。

「馬鹿な……そんなことが出来るはずが……」

俺の否定を、影斉は嘲笑で一蹴した。

「できるさ。お前が一番よく知っているはずだ、静寂師。お前がかつて、俺たちのために消してきた『音』が何だったのかを」

その言葉は、俺の足元を崩壊させる巨大な槌だった。俺が暗殺稼業で消してきたのは、足音や斬撃の音だけではなかったのか? 標的の断末魔を消し、誰にも知られずに闇に葬る。それが俺の仕事だったはずだ。

「思い出せ、静か。お前が標的を始末した後、その標的を知る者たちはどうなった? 親兄弟でさえ、まるで初めからそんな人間はいなかったかのように、その者のことを綺麗に忘れていったではないか。お前が消していたのは、断末魔の叫びなどではない。その人間がこの世に生きた証、他者の記憶に刻まれた存在の『音』そのものだったのだ」

全身の血が凍りついた。そうだ。思い返せば、不可解なことがいくつもあった。俺が始末した大名を、翌日には家臣たちが誰一人として話題にしなかったこと。俺が斬ったはずの商人の家が、まるで主人が蒸発したかのように、静かに寂れていったこと。俺はそれを、恐怖による緘口令か何かだと思っていた。だが、違ったのだ。

俺は、人を殺していただけではなかった。その人の存在そのものを、世界から、人々の記憶から消し去っていたのだ。俺の「静寂」は、物理的な音を消すだけの力ではなかった。存在の残響、記憶の旋律を抹消する、神をも恐れぬ力だった。

俺は暗殺者ではなかった。人の記憶を喰らう、化け物だったのだ。

「う……あ……」

声にならない呻きが漏れる。目の前が暗くなり、自分が今まで犯してきた罪の、本当の重さに押し潰されそうになる。お咲を哀れむ資格など、俺にはなかった。俺は彼女以上に、数え切れない人々の大切な記憶を、存在そのものを奪い続けてきたのだから。

「さあ、娘を渡せ。お前も我々の元へ戻ってこい、静か。共に新しい時代を、無音の世界を創るのだ」

影斉が手を差し伸べる。その背後で、絶望に打ちひしがれる俺を見つめるお咲の瞳があった。彼女は、俺が化け物だと知ってもなお、その瞳の奥に微かな光を宿していた。俺が、彼女の「音」を取り戻してくれる唯一の存在だと信じている光を。

第四章 名もなき男の唄

絶望の底で、俺の心に灯ったのは、お咲の瞳にあった小さな光だった。俺は化け物だ。数えきれない罪を犯してきた。だが、だからこそ、最後に為すべきことがある。この呪われた力で、一つでも多くのものを、あるべき場所へ還す。

「断る」

俺は小刀を抜き放った。

「俺は、静寂師ではない。ただの弦蔵だ。そして、お前が奪った音と記憶を、取り戻しに来た」

影斉は心底残念そうに肩をすくめると、その両手から濃密な静寂を放った。周囲の虫の声、風の音、木の葉のざわめきが瞬時に消え失せ、世界は墓場のような沈黙に包まれる。これが影斉の力。広範囲の空間を支配する「絶対静寂」。

だが、俺の力は違う。俺の静寂は、対象を絞り、その存在の根幹にまで干渉する。

俺は己の全てを賭けることにした。音を「消す」力の応用。逆転の発想。消し去った存在の残響を、もう一度世界に響かせることが出来るのではないか。それは、己の存在そのものを削り、記憶を世界に還元する、命を賭した荒業だった。

「お咲さん、耳を澄ましてくれ。あんたの唄を、今、還す」

俺は目を閉じ、意識を集中させた。脳裏に、影斉が蒐集した「音(記憶)」が保管されているであろう、奴の精神の深淵を探る。そこには、無数の光の粒があった。桶屋の槌音、豆腐屋の笛の音、そしてひときわ強く輝く、お咲の歌声。

「――っ!」

俺は影斉の絶対静寂の中を駆け、小刀を振るった。狙うは影斉の肉体ではない。奴が操る静寂の核。だが、影斉もまた音の達人。俺の太刀筋から生まれる風切り音さえも先読みし、的確に捌いていく。

無音の剣戟。そこには刃と刃がぶつかる甲高い音も、肉を斬り裂く鈍い音も無い。ただ、月明かりの下で二つの影が舞い、時折、どちらかの着物が静かに裂け、血が飛沫を上げるだけだ。

勝機は一瞬。俺はわざと体勢を崩し、影斉の刃が俺の左肩を貫くのに身を任せた。激痛が走る。だが、その刹那、俺の右手は影斉の胸に触れていた。

「お前の闇ごと、響かせてやる……!」

俺は己の全生命力を注ぎ込み、影斉の心臓部に溜め込まれた記憶の残響を、強制的に解放した。

「ぐ、あああああああああっ!」

初めて、影斉が苦悶の声を上げた。彼の内から、堰を切ったように無数の「音」が溢れ出す。槌音、笛の音、人々の笑い声、赤子の泣き声、そして……澄み渡るような、美しい歌声が。

溢れ出た音の洪水は、江戸の夜空に響き渡った。そして、俺の意識もまた、急速に薄れていった。力の代償として、俺自身の記憶が、俺という人間の存在を形作っていた「音」が、急速に消えていく。弦蔵という男の記憶、静かと呼ばれた過去、人々の顔、覚えたはずの技……その全てが、砂の城のように崩れていく。

最後に脳裏に浮かんだのは、初めてお咲の歌声を長屋で聞いた時の、穏やかな午後の記憶だった。ああ、いい唄だな……。そう思った、ただそれだけの、ささやかな記憶。それだけを胸に、俺の意識は深い静寂の海へと沈んでいった。

数年後。江戸の町には、すっかり活気が戻っていた。とある寄席では、一人の歌姫が万雷の拍手を浴びている。お咲だ。彼女の歌声は以前にも増して輝きを放ち、人々の心を癒し、明日への活力を与えていた。

客席の片隅に、三味線の箱を抱えた、穏やかな顔つきの老人が一人座っている。彼は、お咲の歌を聴くのが何よりの楽しみだった。なぜ好きなのかは分からない。自分の名前も、どこから来たのかも思い出せない。ただ、この歌声を聴いていると、胸の奥がじんわりと温かくなり、忘れてしまった何か大切なものを、少しだけ取り戻せるような気がするのだ。

舞台の上から、お咲がそっと老人に視線を送る。その眼差しには、感謝と、慈しみと、そしてほんの少しの切なさが滲んでいた。彼女は、彼が誰なのかを知っている。自分の全てを懸けて、江戸の音と記憶を守ってくれた男だということを。

老人は、ただ静かに微笑みながら、心に響くその旋律に耳を傾けていた。彼が失った記憶の代わりに、世界は美しい音で満たされていた。それは、名もなき一人の男が奏でた、世界で最も優しく、そして切ない唄だった。

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