時告げの絵図

時告げの絵図

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第一章 硝子戸の向こうの悲鳴

江戸の宵闇は、ただ暗いだけではない。澱(おり)のように重く、人の肌にまとわりつく泥ごとき湿り気を孕んでいる。

日本橋の裏路地、野良猫さえも足音を忍ばせる静寂の奥に、一軒の古物商が息を潜めるように建っていた。屋号は『偲(しのぶ)』。

店主の志月(しづき)は、帳場の隅で古びた筆を握りしめ、浅い呼吸を繰り返していた。

店内には、釉薬の禿げた壺、刃こぼれした脇差、持ち主を失った櫛などが並ぶ。常人には単なるガラクタの山に見えるだろう。だが志月にとって、そこは怨嗟と悲嘆が渦巻く地獄の釜だった。

(……痛い)

錆びた脇差からは、腹を裂かれた男の断末魔が、鉄の味と共に舌根へ這い上がってくる。ヒビ割れた手鏡からは、老いらくの遊女が化粧の下で流した涙が、冷たい雫となって志月の頬を濡らす幻覚を見せる。

志月は『残滓(ざんし)』を見る。物に染み付いた情念が、視覚と触覚を伴って彼女の肉体を蝕むのだ。

彼女の震える指が、無意識に手元の筆を撫でた。父・源十郎が遺した、白猫の毛で設えられた一本の筆。これに触れている間だけは、流れ込む他人の感情が薄皮一枚隔てた向こう側へと遠のく。これが彼女の命綱だった。

不意に、店の空気がさざめいた。

硝子戸が引き裂かれるような音を立てて開く。

「……これを」

転がり込んできたのは、一人の浪人だった。雨も降らぬのに、着物はじっとりと濡れ、磯臭い海藻のような臭気を放っている。男の目は焦点が合わず、何か恐ろしい化け物から逃れてきたかのように白目が血走っていた。

男が帳場へ投げ出したのは、一本の巻物だった。

その瞬間、志月は思わず口元を覆った。

古物の臭いではない。それは、雷が落ちた直後のような焦げ臭さと、舐めると舌が痺れるような奇妙な金属の気配。

「金なら出す。これを見てくれ。これを開くと……俺は、焼かれるんだ」

男の歯の根が合わない。

志月は拒絶したかった。その巻物から立ち上る気配は、過去の湿った情念とは違う。もっと乾いた、鋭利で、圧倒的な暴力の予感だった。

だが、父の遺した筆が、なぜかその巻物に反応して微かに熱を帯びた気がした。

志月は意を決し、白く透き通るような指先を、巻物の紐へと這わせた。

紐を解いた刹那、店内の風景が弾け飛んだ。

(――熱いッ!)

志月が立っていたのは、紅蓮の炎に包まれた江戸だった。

否、江戸ではない。見上げれば、空を覆い尽くすほどの巨大な『鋼鉄の鷲』が、腹から黒い卵を産み落としている。卵が地に触れるたび、太陽が地上で破裂したかのような閃光が走り、轟音が鼓膜を食い破る。

立ち並ぶのは木造の長屋ではない。墓標のように高く、天を突き刺す石の塔。それらが次々とへし折れ、崩れ落ちていく。

逃げ惑う人々の着物は見たこともない奇妙な布地で、彼らの悲鳴は爆音にかき消されていく。

「あぁ……っ!」

志月は短く絶叫し、畳の上へ弾き飛ばされた。

全身から脂汗が吹き出し、心臓が早鐘を打つ。

今のは過去ではない。これから訪れる、あるいは訪れうる『この世の終わり』の光景。

荒い息の下、開かれたままの絵図に目を凝らす。

そこに描かれていたのは、極めて精緻な筆致で描かれた焦土の地獄絵図。使われている染料は、見る角度によって血の色にも、闇の色にも変わる『夢幻染(むげんぞめ)』。

そして、絵図の隅、赤黒い落款の脇に、見覚えのある、奔放かつ繊細な筆跡で記されていた。

『――源十郎』

志月の心臓が凍りついた。

十年前に神隠しに遭った、愛する父の名。

第二章 狂気の染料

父は消える直前、部屋中に奇妙な図面を書き散らしていた。

『時は川ではない。織物だ。解き、染め直し、織り直すことができる』

そう呟いていた父の背中を思い出す。

「この絵図……どこで手に入れたのですか」

志月が問うと、浪人は震えながら答えた。

「本所の古道具市だ……。あと四つ、あるはずだ。五枚揃えば、本当の『時』が見えると……売り主は笑っていた」

浪人は金も受け取らず、逃げるように闇夜へと消えた。

残されたのは、不吉な予言の絵図と、志月だけ。

彼女は父の筆を握りしめたまま、絵図を見下ろした。父の筆跡には、狂気と共に、悲痛なまでの『祈り』が込められているように見えた。

翌日から、志月の地獄巡りが始まった。

五枚の絵図。それは江戸の四方へと散らばり、手にした者を狂わせていた。

二枚目は、吉原の遊郭で見つかった。

持ち主の太夫は、部屋の隅で膝を抱え、「氷が来る、世界が凍る」と譫言(うわごと)を繰り返していた。

志月が絵図を奪い取ると、指先から冷気が侵入した。

幻視の中、世界は白い沈黙に包まれていた。作物は枯れ、飢えた人々が互いの肉を食らい合う極寒の未来。

その絶望の冷たさに、志月のまつ毛に霜が降りた。

三枚目、四枚目と集めるたび、志月の体は削られていった。

疫病により肉が腐り落ちる未来。海が膨れ上がり、陸地を飲み込む水没の未来。

彼女の頬はこけ、目の下にはどす黒い隈が刻まれた。食事は喉を通らず、水さえも血の味がした。

それでも彼女を突き動かすのは、それぞれの絵図に残された父の筆跡だった。

父は、この地獄をすべて見たのだ。一人で、この絶望を受け止め続けたのだ。

そして、最後の一枚。

それは、深川の貧乏長屋、死病に侵された絵師崩れの老人の元にあった。

長屋の扉を開けた瞬間、腐臭と共に、強烈な殺意が志月を襲った。

「渡さん……これは俺が見た、神の啓示だ……!」

老人は骨と皮だけの体で絵図を抱え込み、狂ったように笑っていた。

「渡して……ください」

志月の声は掠れていた。立っているだけで精一杯だった。

彼女の体内で、既に手に入れた四枚の絵図が共鳴し、五枚目を求めて暴れ回っている。内臓を雑巾絞りにされるような激痛。

「嫌だ! この美しい破滅は、俺のものだ!」

老人が噛み付こうとした瞬間、志月の懐で父の筆が熱を放った。

「ッ……!」

志月は残る力を振り絞り、老人の腕を掴んだ。

その瞬間、彼女の『物霊視』が、老人の脳内に焼き付いた絶望の光景を強制的に共有した。

――感情を失い、ただ管理されるだけの灰色の未来。心が死滅した世界。

あまりの虚無に、老人は白目を剥いて気絶した。

志月はその手から、滑り落ちる絵図をもぎ取った。

五枚目。これで揃った。

彼女はその場に崩れ落ち、荒い板の間に膝をついた。

指先は痙攣し、鼻からツーと一筋の血が流れる。

限界だった。だが、彼女の瞳の奥、その灯火だけは、かつてないほど強く燃え上がっていた。

「お父っつぁん……今、行くから」

第三章 深淵の幻視

嵐の夜だった。

雨戸を叩く風音が、まるで亡者たちの慟哭のように響く店内。

志月は五枚の絵図を円環状に並べた。

絵図が、互いを認識したかのように震え出した。

紙の上に描かれたインク――父が『夢幻染』と呼んだ未知の染料が、生き血のように脈打ち、紙の境界を越えて混ざり合い始める。

空間が歪む。畳がきしみ、重力が消失したような浮遊感が志月を襲った。

中心に生まれたのは、漆黒の穴。

志月は父の形見の筆を口に咥え、両手でその闇の縁を掴んだ。

「……見せて!」

意識が肉体から剥がれ落ち、情報の奔流へとダイブする。

そこは、言葉が存在しない世界だった。

数億、数兆の悲鳴。未来から過去へと逆流する、人類の悔恨のデータ。

それは『銀色の虫』の群れのように見えた。光る微細な粒子の嵐が、志月の自我を食い荒らそうと襲いかかる。

《戻れ!》《見るな!》《手遅れだ!》

無数の声が脳髄を直接レイプする。

普通の人間なら、一瞬で精神が焼き切れていただろう。だが、志月は耐えた。幼い頃から、他人の感情という泥の中を歩き続けてきた彼女の魂には、強靭な『耐性』があった。

(お父っつぁん……どこ!)

嵐の中心、すべての因果がねじれる特異点に、それは在った。

巨大な柱。否、柱に見えたのは、無数の黒い鎖に雁字搦めにされた、一人の男だった。

父、源十郎。

彼は、未来から送られてきた膨大な絶望のデータを一身に受け止め、過去へ流出しないようにその身を『楔(くさび)』として捧げていたのだ。

「……志月か?」

父の目が、虚ろに開かれた。その体は半ば炭化し、絵図のインクと同化しかけている。

「逃げろ……。これは、未来からの『遺書』だ。変えることなどできん……ただ、滅びを記録するためだけの……」

父の思念が流れ込んでくる。

遥か未来、滅びの淵にある人類が、起死回生を賭けて過去へ送ったナノマシンの群れ。それは過去の分岐点に干渉し、歴史を書き換えるための『設計図』だった。

だが、そこに込められた絶望があまりに重すぎた。受信者である父の心は折れ、書き換えはおろか、その呪いを封じ込めるだけで精一杯だったのだ。

「私は失敗した……。重すぎる……人の業は、変えられん……」

父の涙が、黒いインクとなって零れ落ちる。

志月は、口に咥えていた筆を手に取った。

不思議なことに、この筆だけは、銀色の虫たちの干渉を受け付けず、凛とした白い光を放っている。

(そうか……この筆もまた、お父っつぁんが遺した『抗うための道具』)

父は、自分では耐えきれないと悟った時、娘に希望を託すためにこの筆を残したのだ。

「違うわ、お父っつぁん」

志月は、吹き荒れる絶望の嵐の中で、仁王立ちになった。

着物が裂け、肌が血に滲む。だが、彼女は一歩も引かなかった。

「変えられない未来なんてない。あんたが教えてくれたんじゃないか!」

彼女は筆を振り上げた。

その穂先に、志月の魂そのものを込める。

恐怖も、痛みも、すべてを飲み込んで、彼女は叫んだ。

「私が描く! 私が、続きを描いてみせる!」

第四章 明日を紡ぐ色

志月が筆を一閃させると、暗黒の空間に鮮烈な朱色が走った。

それは単なる色ではない。志月がこれまでの人生で触れてきた、人々の「温かい残滓」の結晶だった。

使い込まれた手鞠の温もり、祝いの席の杯の喜び、母が子を包んだ着物の優しさ。

彼女が疎ましく思っていた『他人の想い』が今、最強の絵の具となって穂先から溢れ出す。

「未来は、暗闇なんかじゃない!」

志月の筆が、父を縛る黒い鎖を次々と断ち切っていく。

黒いインクの鎖は、志月の『祈り』に触れた瞬間、金色の光の粒子へと変換された。

父が驚愕に見開いた目の前で、志月は踊るように筆を走らせる。

燃え盛る江戸の業火。

志月がそこに『水』の青を落とすと、炎は鎮まり、焼け跡から緑の芽が吹き出した。

崩れ落ちる石の塔。

志月が『風』の白を乗せると、瓦礫は天へと続く階段に変わり、子供たちが笑いながら駆け上がっていく。

「志月……お前、それは……」

「お父っつぁん、手伝って! 二人で仕上げるのよ!」

志月の叱咤に、父の瞳に光が戻った。

源十郎は自らの指をインクに浸し、娘と共に虚空へ線を引き始めた。

父の技術と、娘の情熱。

二つの魂が共鳴し、絶望の設計図を塗り替えていく。

銀色の虫たちが、歓喜の声を上げて形を変える。

『破壊』のプログラムが、『再生』の歌へと書き換わっていく。

黒い雨は、大地を潤す慈雨へ。

飢餓の冬は、命を育む休眠の季節へ。

(ああ、なんて美しい色……)

志月は泣きながら筆を振るった。

これが、父が見せたかった景色。これが、私たちが選び取るべき明日。

絵図が眩い光を放ち、世界を白く染め上げていく。

その光の中で、父の体が透け始めた。

「……見事だ、志月」

「お父っつぁん、行かないで!」

志月は手を伸ばすが、その指は父の体をすり抜けた。

父は穏やかに微笑んでいた。十年前の、あの優しい顔で。

「役目は終わった。お前が、新しい時の守り人だ。……愛しているよ」

父の姿が、無数の光の蝶となって霧散する。

「お父っつぁん――!」

志月の絶叫と共に、視界は完全な白に飲み込まれた。

終章 開かれた扉

小鳥のさえずりが、鼓膜を優しく撫でた。

志月は、畳の上で目を覚ました。

体中が軋むように痛むが、昨夜までの、魂を引きずり回されるような重苦しさは消え失せていた。

目の前には、一枚の大きな掛け軸が横たわっている。

五枚の絵図は融合し、一つの美しい風景画へと姿を変えていた。

そこに描かれているのは、活気に満ちた江戸の町並み。だが、よく見れば、遠くの雲間には見たこともないほど美しい、硝子と光でできた塔が幻のように浮かんでいる。

過去と未来が、優しく手を取り合っている景色。

そこからはもう、怨嗟の声も、破滅の予感も聞こえない。ただ、清冽な風の音だけが響いてくる。

「……馬鹿な、お父っつぁん」

志月は筆を置き、目尻を拭った。

寂しさはある。だが、胸の奥には、確かな温もりが残っていた。

彼女は立ち上がり、店の雨戸を一枚ずつ開け放った。

朝の光が、埃っぽい店内を黄金色に染め上げる。

通りからは、物売りの声、子供たちの笑い声、下駄が土を踏む音が聞こえてくる。

以前の彼女なら、それらを「騒音」として耳を塞いでいただろう。

だが今は、その一つ一つが、愛おしい「生」の音楽として響いた。

「おはよう、志月さん。今日はいい天気だね」

通りかかった近所の老婆が声をかけてきた。

志月は眩しそうに目を細め、そして、花が咲くように微笑んだ。

「ええ、本当。……素晴らしい、始まりの朝ですね」

彼女の店『偲』の扉は、もう閉ざされることはない。

古道具たちの声を聞き、人々の想いを繋ぎ、そしてまだ見ぬ未来の色を紡いでいく。

新しい物語が、ここから始まるのだ。

AIによる物語の考察

本作は、他者の情念に苦しむ志月が、父の遺した筆と絵図を巡り、世界と自身の運命に抗う物語です。

【登場人物の心理】志月は、忌まわしいと感じていた「残滓を見る能力」を、父の遺志と人々の温かい想いを込めることで、未来を彩る力へと昇華させます。絶望に打ちひしがれながらも、娘に「抗うための筆」を託した父・源十郎の、悲痛な祈りと自己犠牲が描かれます。

【伏線の解説】当初志月の弱点とされた「残滓を見る能力」は、終盤で「温かい残滓」として未来を描く最強の絵の具となります。父の筆も、単なる防御具ではなく、未来を書き換えるための鍵でした。「時は織物」という父の言葉は、変革の可能性を示唆する重要な伏線です。

【テーマ】絶望的な未来の予言に対し、個人の自由意志と、過去から受け継いだ愛情が「運命」を塗り替える希望を紡ぎ出す物語です。他者の苦しみを共有する能力が、世界を変える力となるという、自己肯定と継承の哲学が深く問われます。
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