第一章 灰色の雨と極彩色の街
腐った水の匂いが、鼻腔にまとわりつく。
路地裏の湿気は重く、肌にへばりつく膜のようだ。
傘は差さない。
どうせこの街の雨は、私の網膜を濡らす極彩色に比べれば、あまりに無力だから。
「ふざけんじゃねえ!」
怒声と共に、男の背中から**粘つくような赤**が噴き出す。
それは熱波となって、私の頬をじりじりと焼く。
「す、すみません……!」
頭を下げる青年の胸元からは、**汚泥のような黄土色**が垂れ流されている。
恐怖じゃない。あれは『欺瞞』だ。
安っぽいペンキをぶちまけたような色が、視界を汚染する。
吐き気がした。
(うるさい、眩しい、臭い)
街は暴力的な色で溢れている。
歓喜は目を刺す蛍光ピンク。
嫉妬は皮膚を腐らせる深緑。
悲哀は肺を圧迫する藍色。
私は目を伏せ、逃げるように足を速めた。
水たまりを見つける。
泥水に映り込んだ自分の姿だけが、唯一の救いだった。
そこには、何もない。
透き通るような『無色』。
私の心には色がない。
喜びも、悲しみも、怒りさえも欠落した、空っぽのガラス瓶。
それが私、朧(おぼろ)だ。
「……ララ……鎮めよ……」
路地の奥から、乾いた音が擦れるように響く。
壁にもたれた老婆。
その肌は、血の気を失った蝋のように白く、硬質化していた。
『無色病』。
老婆の足元には、かつて彼女の一部だったはずの「感情の色」が、灰のようになって散らばっている。
心を喰い尽くされ、抜け殻になる奇病。
ズキリ。
ポケットの中で、硬いものが太ももを突いた。
私はくすんだ鈍色の『糸巻き』を取り出す。
拾った時はただのガラクタだった。
だが今、それは脈打つように小さく震えている。
誰かの感情(いろ)を吸うと、熱を持つ奇妙な古道具。
「その糸巻き」
背筋が凍った。
雨音すらも吸い込むような、絶対的な静寂が背後に立っていた。
振り返る。
白い外套の男。
彼が立つ場所だけ、雨が避けて落ちている。
男の周囲には、色がない。
私と同じ、空虚な『無色』。
けれど私とは違う。彼の無色は、全てを拒絶する「断絶」の色だ。
「……誰」
「返してもらおうか。それは本来、穢れた世界を『剪定』するための鋏なのだから」
男が一歩、踏み出す。
彼が踏んだ石畳から、色が――苔の緑や土の茶色が――瞬時に抜け落ち、真っ白な灰へと変わった。
ポケットの糸巻きが、火傷しそうなほど高熱を発した。
逃げろ。
この男に関われば、硝子の心臓など容易く砕かれる。
私は弾かれたように駆け出した。
極彩色の雑踏を切り裂き、腐敗臭のする雨の中へ。
第二章 調律師の孤独
肺が焼けつくほど走った。
逃げ込んだのは、丘の上に立つ廃墟の大聖堂だ。
ステンドグラスは砕け散り、吹き込む風がパイプオルガンの残骸をヒューヒューと鳴らしている。
「逃げ場などない」
男の声は、唐突に頭上から降ってきた。
白い外套の男――シジマは、祭壇の崩れた梁の上に立っていた。
彼は私を見下ろろすと、壁面に残された古い壁画を、愛おしそうに指でなぞる。
そこには、指揮棒を振るう神官が、荒れ狂う嵐を『白紙』に変えていく様子が描かれていた。
「美しいと思わないか」
シジマが壁画から視線を外し、床に落ちていた壊れたバイオリンを拾い上げた。
弦は切れ、ニスは剥げている。
「人は騒がしすぎる。怒りの炎で身を焦がし、愛欲の泥沼で窒息する。感情というノイズが、この星の和音を乱しているのだ」
彼が指先で、切れた弦を弾く。
音は出ない。
代わりに、私の鼓膜をキーンと劈(つんざ)くような衝撃波が走った。
「うっ……!」
「私はただ、静寂を取り戻したいだけだ。この先祖たちの絵のように」
シジマの瞳には、何の光も宿っていない。
深海のような、底知れぬ孤独と虚無。
彼は「説明」などしなかった。
ただ、その佇まいと、廃墟に残された痕跡だけで理解させられた。
彼は、感情という雑音に絶望し、世界を「無音」に還そうとする調律師なのだと。
「だから……無色病を広めたの? 人の心を殺して、平穏を作るために?」
「『浄化』だ」
シジマが手をかざす。
白い外套の裾から、無数の「無色」の棘が放たれた。
「その糸巻きには、人々の感情の残滓が溜まっている。私にとっては耳障りなゴミだが……完全な鎮魂歌を奏でるには、その器が必要だ」
「嫌!」
私は叫び、咄嗟に糸巻きを掲げた。
鈍色の糸巻きが、カッと輝く。
これまでに街で吸収してきた、誰かの『安らぎ』の深緑が、光の盾となって展開された。
バヂヂヂッ!
白い棘が盾に突き刺さり、火花を散らす。
「他人の感情を借りて身を守るか。空っぽの君らしい」
シジマが冷ややかに笑い、さらに一歩、距離を詰めた。
圧倒的な圧迫感。
私の膝が、恐怖でガクガクと震え始める。
第三章 透明という名の光
防戦一方だった。
シジマが指を振るたび、見えない刃が空気を切り裂き、私の頬や腕を掠める。
痛みよりも先に、そこから「感覚」が消えていく。
色が奪われる。
「終わりだ」
轟音と共に、光の盾が砕け散った。
衝撃で吹き飛ばされ、私は泥だらけの床に転がる。
糸巻きが手から離れ、カランと虚しい音を立てた。
「君は、自分が何者かになれると思っていたのか?」
シジマが私の喉元に、氷のように冷たい手をかける。
指先が食い込む。
息ができない。
「君はただの器だ。中身のない、哀れな人形だ」
視界が白く塗りつぶされていく。
ああ、そうかもしれない。
私は誰かを愛した記憶も、本気で憎んだ熱量もない。
(……いやだ)
指先が、床に転がった糸巻きに触れた。
その瞬間。
ドクン。
心臓ではなく、脳髄を直接鷲掴みにされるような鼓動。
糸巻きから、奔流が流れ込んできた。
『愛してる、行かないで』
『許さない、殺してやる』
『会いたい、会いたい』
誰かの最期の祈り。
産声の歓喜。
煮えたぎるような殺意。
数えきれない他人の感情が、濁流となって私の中に雪崩れ込む。
熱い。痛い。苦しい。
普通の精神なら、瞬時に焼き切れて発狂するほどのエネルギー。
けれど。
(壊れ、ない……?)
私は歯を食いしばり、その奔流を受け止めていた。
私の心は空っぽだから。
色がついていないから。
どんなに激しい色でも、どんなに汚い色でも、すべて飲み込み、透過させることができる。
私の『無色』は、虚無じゃない。
すべてを受け入れる『透明』だったんだ。
「ぐ、あああああ!」
私はシジマの腕を掴み、叫んだ。
喉が裂けてもいい。
身体中を駆け巡るこの熱を、叩きつけなければ。
「まだ抵抗するか!」
「違う! 抵抗じゃない……共鳴させるの!」
私は糸巻きを握りしめ、歌った。
旋律など知らない。
ただ、溢れ出す感情のままに、魂を震わせた。
それは綺麗な歌声じゃない。
泥臭く、耳をつんざくような、生の咆哮。
「な……なんだ、この熱は!?」
シジマが顔を歪め、後ずさる。
私の歌声に呼応し、糸巻きから七色の光が爆発した。
怒りの赤が、シジマの氷の壁を溶かす。
悲しみの青が、彼の乾いた心を浸す。
歓喜の金が、大聖堂の闇を切り裂く。
「やめろ! 感情などあれば、また傷つけ合うだけだ!」
シジマが無色の刃を無数に放つ。
私の肩を、脚を、刃が貫く。
鮮血が飛ぶ。
痛い。
けれど、歌うのをやめない。
「傷ついてもいい! 痛いから、優しさが分かるの!」
私は血を流しながら、彼に向かって踏み出した。
一歩、また一歩。
光の渦の中で、私の「透明」な魂が、プリズムのように全ての色を増幅させていく。
「あんたが恐れているのは雑音じゃない! 寂しさよ!」
私の叫びは、物理的な衝撃となってシジマの白い外套を吹き飛ばした。
「ぐ、うあああ……!」
七彩の光の奔流が、彼を飲み込む。
彼の「拒絶」の壁が、音を立てて砕け散った。
最終章 世界に満ちる音色
光が収束していく。
大聖堂の天井の穴から、雨上がりの陽光が真っ直ぐに差し込んでいた。
シジマは、瓦礫の上に崩れ落ちていた。
その身を包んでいた絶対的な拒絶の気配は消え失せている。
彼の頬を、一筋の雫が伝った。
それは、透き通るような美しい**水色**をしていた。
「……そうか。私は、ただ聞いてほしかったのか」
彼は震える手で、自身の胸を押さえる。
そこにあったのは、空虚な穴ではなく、温かい鼓動だった。
誰かの悲しみに共鳴し、誰かの喜びに震える、生きた心臓の音。
「君の勝ちだ、朧」
シジマは穏やかに目を閉じた。
その表情は、長い悪夢から覚めた子供のように安らかだった。
私は大きく息を吐き、空を見上げた。
雨雲が割れ、虹がかかっている。
不思議なことに、もうあの毒々しい「色の幻覚」は見えなかった。
視覚をジャックするような暴力的な色彩は消えていた。
能力が消えた?
いいえ、違う。
風が頬を撫でる。
湿った土の匂い。
遠くから聞こえる街のざわめき。
誰かが笑う声、誰かが叱る声。
それら一つ一つが、肌に触れる温度のように、じんわりと伝わってくる。
「見る」のではなく、「感じる」ことができるようになった。
世界はこんなにも、豊かで、騒がしい手触りをしていたんだ。
「……行こう」
私は糸巻きをポケットにしまう。
それはもう熱くない。
私の体温と同じ温度で、静かに脈打っている。
水たまりを覗き込む。
そこに映る私は、もう「空っぽ」ではなかった。
世界中のあらゆる色を柔らかく受け入れ、反射して輝く『透明な光』。
何色にも染まらない。
けれど、どんな色とも手をつなげる。
それが、私の色。
大聖堂の扉を押し開ける。
眩しい日差しが、私の全身を包み込んだ。
「さあ、帰ろう。この騒がしくて、愛おしい世界へ」
私は泥だらけの靴で、光の中へと一歩を踏み出した。