残影の言霊
第一章 影蠢く夜
月さえも雲に食われた、墨を流したような江戸の夜。湿った土の匂いと、どぶの淀んだ臭気が路地に絡みついていた。浪人、時雨(しぐれ)は、その闇の底で、冷たくなった亡骸の前に膝をついていた。彼の周りを囲む岡っ引きたちの囁き声が、まるで遠い世の音のように聞こえる。
「頼む、時雨。お前さんの力が必要だ」
提灯の明かりに照らされた同心が、すがるような目で言った。時雨は応えず、ただ亡骸の固く閉じた瞼にそっと指を触れた。ひやりとした感触が、彼の指先から魂の芯までを凍らせていく。
息を吸い込む。世界が軋み、音が消えた。
次の瞬間、時雨は自分ではなかった。彼は裕福な呉服屋の主人となり、己の店の中で何かに追い詰められていた。心臓が早鐘を打ち、喉の奥からひきつれた悲鳴が漏れる。目の前に立つのは、人の形を失った黒い影。それは己が長年隠し続けた、商売敵を陥れた罪悪感そのものだった。影が伸びてくる。冷たい絶望が全身を包み、骨が砕ける激痛と共に、彼の意識は闇に呑まれた。
「……っ、はぁ……っ!」
時雨は現実へと引き戻され、激しく咳き込んだ。喉にこびりつく死の感触。全身をびっしょりと濡らす冷や汗が、夜風に吹かれて肌を刺す。
「どうだった。やはり『心の影』の仕業か」
「……ああ」
時雨はかろうじて頷いた。だが、伝えなかったことがある。呉服屋の主人が絶命した、その刹那。彼の脳裏を過ったのは、影への恐怖ではなかった。金属の光。規則的な機械音。そして、能面のように感情を失くした人々が整然と歩く、見たこともない街の光景。それは、死の苦痛の中に混じった、あまりにも異質な『未来の予兆』だった。
第二章 言霊鏡の囁き
月のない夜ばかりを選ぶように住み着いた、打ち捨てられた古寺が時雨の寝床だった。軋む床板を踏みしめ、彼は懐から古びた真鍮の手鏡を取り出した。手のひらに収まるほどのそれは、『言霊鏡(ことたまかがみ)』。彼の忌まわしい能力の根源であり、唯一の手がかりでもある。
時雨は事件現場の土から、僅かに拾い上げた黒い砂粒を鏡面に落とした。それは、心の影が遺した持ち主の強い後悔の残滓。砂粒が触れた瞬間、鏡の表面が水面のように揺らぎ、鈍い光を放ち始めた。
鏡が映し出したのは、死んだ呉服屋の過去。帳簿をごまかし、無実の人間を罪に陥れ、その座を奪い取る姿。影が生まれた因果が、音のない映像として流れていく。なるほど、これほどの罪を隠せば、影もまた凶暴になろう。
だが、映像の終わり、鏡が光を失う寸前。再びあの光景が映り込んだ。無機質な建物、感情のない人々。それは一瞬の幻影のようであったが、確かにそこにあった。同時に、ピシリ、と小さな音が響く。見れば、言霊鏡の隅に髪の毛ほどの細いヒビが入っていた。ずきり、と時雨自身の胸の奥が痛んだ。この鏡は心を映す。そして、砕ける時は、持ち主の魂も共に砕けるのだ。
第三章 凶兆の連鎖
江戸の街は、見えざる熱病に浮かされているようだった。夜毎に凶暴化した『心の影』が現れ、人々を襲う事件が相次いだ。まるで、誰かが人々の心の内に眠る罪悪感を、無理やりこじ開けているかのようだ。
三日後、新たな犠牲者が出た。今度は腕利きの宮大工だった。現場に駆けつけた時雨は、躊躇いの後、再び死者の最期に身を浸した。
今度の苦痛は、前回とは比較にならないほど鋭かった。嫉妬だった。同輩の才能を妬み、その道具に細工をして大怪我を負わせた過去。その罪が、鋭い刃を持つ獣のような影となって彼を八つ裂きにしていた。時雨は己の体までが引き裂かれるような錯覚に、地面を掻きむしった。
そして、まただ。
断末魔の叫びの向こうに、あの『未来』が見える。今回はさらに鮮明だった。灰色の空の下、誰もが同じ歩調で、同じ方向へ向かって歩いている。笑う者も、泣く者もいない。ただ、静かで、完璧な秩序だけが存在する世界。その光景は、死の苦痛よりもなお、時雨の心を冷たくさせた。街では奇妙な噂が囁かれていた。夜空に筋状の光が走るのを見た、と。まるで、天から誰かがこの街を覗き込んでいるかのように。
第四章 調律者の影
これ以上、個別の事件を追っても意味はない。時雨は、この連続する狂気の根源を突き止めるため、一つの賭けに出ることにした。
古寺に戻った彼は、これまで集めた全ての影の残滓を言霊鏡の上に撒いた。呉服屋の黒い砂、宮大工の血の滲んだ木屑、そして新たに手に入れた、役人の不正を映す墨の染み。複数の魂の情報が一度に流れ込み、鏡は悲鳴のような光を放った。
「ぐっ……!」
魂を直接握り潰されるような激痛に、時雨は歯を食いしばる。鏡に走るヒビが、蜘蛛の巣のように広がっていく。だが、彼は目を逸らさなかった。鏡は、犠牲者たちの罪を次々と映し出し、やがて一つの共通項を浮かび上がらせた。彼らは皆、立場や手段は違えど、「他者を強く支配し、己の意のままにしようとした」者たちだった。
その答えに辿り着いた瞬間。鏡の中の景色が歪んだ。
映し出されたのは過去ではない。未来でもない。幾何学的な光の粒子で形作られた、人ならざる何かが、鏡の中から時雨を「見て」いた。
『――観測した。お前が、この時代の特異点か』
無機質な声が、脳に直接響き渡る。それは男の声でも女の声でもなかった。
「誰だ……貴様は」
『我は《調律者》。遥か未来より、この世界の不協和音を正すために来た』
調律者は語った。未来の世界では、争いは根絶された。そのために、過去の歴史における争いの火種――人間の持つ過剰な感情やエゴ――を『浄化』する必要があるのだと。心の影の活性化は、その『浄化』プロセスの一環。支配欲という名の罪を持つ者から優先的に排除し、最終的には全ての人間の感情を律し、完全なる調和を創造する。それが彼らの目的だった。
第五章 歪んだ理想郷
時雨が見てきたあの『未来の予兆』は、彼らが創り上げようとしている理想郷の姿だったのだ。感情という名のノイズが消え去った、静謐で、完璧な世界。そこには苦しみも、悲しみも、そして、時雨を苛む死の追体験の能力もない。
『お前の苦痛は、我々の世界では存在しない。その稀有な能力、我らのために使え。協力すれば、お前をその呪いから解放しよう』
調律者の言葉は、甘い毒のように時雨の心に染み渡った。この終わりのない苦しみから逃れられる。死の淵を彷徨う日々から解放される。その誘惑は、抗いがたいほどに強かった。
だが、時雨の脳裏に、追体験で感じた想いが蘇る。影に殺された者たちの、断末魔の恐怖だけではない。その奥底にあった、家族への愛情。果たせなかった約束への後悔。誰かを強く憎む激情。それら混沌とした全てが、彼らが「生きていた」証ではなかったか。
感情を失った世界は、果たして人が生きる世界と言えるのか。それは、静かな墓場と同じではないのか。
「……断る」時雨は絞り出すように言った。「お前たちのやっていることは、救済じゃない。ただの抹殺だ」
『愚かな。感情こそが、お前たちを苦しめる元凶なのだ。いずれ理解するだろう』
調律者の姿が鏡から消えた。同時に、外の空気が一変した。江戸中の怨嗟が一つになったような、おぞましい気配が街全体を包み込んでいた。浄化の最終段階が始まったのだ。
第六章 最後の追体験
夜空が割れたかのように、巨大な影の渦が江戸城の上空に現れた。それは街中の人々が心の内に隠していた罪や後悔を吸い上げ、一つの巨大な怪物へと変貌しようとしていた。地上では、人々がうつろな目をして立ち尽くし、その表情から徐々に色が失われていく。
時雨は、砕け散る寸前の言霊鏡を握りしめ、渦の中心へと向かって駆けた。彼に残された道は一つしかない。
屋根を蹴り、最も渦に近い火の見櫓の頂に立つ。眼下には、魂を抜かれた抜け殻のようになっていく人々。
「お前たちが奪おうとしているものが、どれほど価値のあるものか……未来の亡霊どもに教えてやる」
時雨は最後の決断を下した。彼は言霊鏡を天に翳し、己の全ての魂を注ぎ込む。狙うのは、死者の最期ではない。今、この瞬間に生きている、江戸の全ての人々の心。喜び、悲しみ、怒り、愛……清濁併せ呑んだ、生の感情そのもの。
「うぉぉぉぉぉっ!」
絶叫と共に、鏡が凄まじい光を放った。数え切れぬ人々の心の声が、感情の奔流が、濁流となって時雨の内に流れ込んでくる。娘の生まれた日の歓喜。恋人を失った深い悲嘆。友への裏切りに燃える怒り。親を想う温かな愛情。魂が千々に引き裂かれるほどの情報量が、彼を襲う。
言霊鏡に刻まれた無数のヒビが、一斉に光の筋を迸らせた。
そして、甲高い音を立てて、砕け散った。
第七章 残影の彼方へ
砕けた鏡の破片は、光の礫となって影の渦へと突き刺さった。それは単なる光ではない。混沌とし、矛盾に満ち、しかし圧倒的な熱量を持つ、人間の生の感情そのものの奔流だった。
秩序と調和を絶対とする未来のシステムは、この予測不可能なエネルギーの直撃に耐えきれなかった。『理解不能』『エラー』『論理的矛盾』――調律者の無機質な悲鳴が響き渡り、光の干渉はノイズと共に掻き消え、巨大な影の渦もまた、夜明けの光に溶けるように消滅していった。
やがて、朝が来た。
江戸の街には、いつもと変わらない日常が戻ってきた。人々は何事もなかったかのように目を覚まし、昨夜の奇妙な出来事を、ただの悪い夢のように忘れていった。
ただ、そこに時雨の姿はなかった。砕けた鏡と共に、彼もまた光の中へ溶けて消えたかのようだった。
それから、江戸の街では奇妙なことが語られるようになった。誰かが悲しみに暮れて俯くとき、ふと、背中を撫でるような優しい風が吹く。誰かが心の底から笑うとき、どこからか、共に喜ぶような温かい気配が感じられる。
それは、江戸中の人々の心をその身に受け止め、この世界の片隅に残影として溶け込んだ、一人の浪人の名残なのかもしれない。罪も、苦しみも、喜びも、その全てを抱きしめて。人間が人間であることの証を守るために、永遠の追体験者となった男の、優しい魂の欠片なのかもしれなかった。