約束の残像、忘れられた世界
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約束の残像、忘れられた世界

第一章 薄明の残像

朔(さく)の目には、世界が時折、不確かに揺らめいて見えた。それは比喩ではない。雑踏の中、向かいのカフェで待ち合わせ相手を待つ男がいた。苛立ちげに腕時計を叩き、やがて諦めたように席を立つ。その瞬間、男の輪郭が陽炎のように歪み、足元から淡い光の粒子となってほどけていく。誰も気づかない。誰も悲鳴を上げない。ただ、その男が存在したという事実だけが、世界の記憶から綺麗に削り取られていく。朔だけが、空になった椅子の上に、人型の光がぼんやりと残っているのを見ていた。

「またか」

呟きは、吐息となって冬の空気に溶けた。

最近、この「消失」が頻発している。人々は、守られるはずだった小さな約束を、まるでそんなものが初めから存在しなかったかのように破り捨てていく。そのたびに、世界から何かが一つ、また一つと失われていくのだ。街角の時計塔はとうに音を止め、ショーウィンドウに飾られていたカレンダーは、いつの間にかただの白い紙束に変わっていた。「時間を守る」という約束が、その概念ごと世界から剥落し始めている証拠だった。

朔はコートの襟を立て、早足に家路を急ぐ。背後で、途切れた会話の断片が木霊のように響いた気がした。

『――ごめん、少し遅れ…』

その声が誰に向けられたものだったのか、もう誰にもわかりはしない。

第二章 空白の羊皮紙

朔が住み込みで管理している古書店は、忘れられた物語の墓標のような場所だった。インクと古い紙の匂いが満ちる静寂の中、彼は祖父が遺したという曰く付きの木箱を開けた。埃をかぶった蓋の下から現れたのは、一枚の古びた羊皮紙。そこには何も書かれていなかった。

だが、朔が指先でそっと触れた瞬間、そこに見えないインクが滲むように、淡い光の文字が浮かび上がった。

『失われたものを、決して忘れない』

それは、幼い頃に最初の「消失」を目撃し、得体の知れない恐怖と孤独の中で自らに課した、朔自身の根源的な誓いだった。驚きに息を呑む彼の手の中で、羊皮紙は再び白紙に戻る。

これは一体何なのだろう。朔は書庫の奥深く、祖父が「禁書」として封じていた記録を漁った。そこには、この世界を構成する法則についての記述があった。世界は無数の「約束」によって成り立っており、それが破られると関連する記憶や概念が消滅する、と。そして、その記録の最後に挟まれていた数枚の羊皮紙――それらは、かつてこの世界に存在したはずの約束が記されていた「契約書」の残骸だった。

『時間を守る』『感謝を伝える』『助け合う』

それらの契約書は、完全に色を失い、ただの空白の紙切れと化していた。誰かが、意図的にこの世界の土台を崩そうとしている。底知れぬ悪意の存在を確信し、朔の背筋を冷たいものが走り抜けた。

第三章 褪せる世界の輪郭

世界の崩壊は、肌で感じるほどに加速していた。コンビニの店員に「ありがとう」と言っても、怪訝な顔をされるようになった。感謝の概念が失われ、人々は他者への温かい感情を表現する術を忘れてしまったのだ。贈り物の習慣は廃れ、街角の花屋は次々とシャッターを下ろした。世界の色彩が、まるで古い写真のように少しずつ褪せていく。

そんな灰色に沈む街で、朔は彼女と出会った。

結(ゆい)と名乗るその女性は、公園のベンチに座り、消えゆく世界の風景をスケッチブックに描き留めていた。彼女の周りだけ、時間がゆっくりと流れているような、不思議な空気があった。

「あなたにも、見えているんですね」

結は、朔の視線に気づくと、寂しげに、だが確かに微笑んだ。

「この世界が、少しずつ壊れていくのが」

彼女もまた、世界の異変に気づいている稀有な存在だった。彼女は、人々が忘れてしまった歌を小さな声で口ずさみ、消えかけた花の匂いを惜しむように吸い込んだ。失われゆくものの美しさを知る結の存在は、孤独だった朔の心に、小さな灯火をともした。二人は自然と惹かれ合い、共にこの世界の謎を追うことを、言葉にはしない約束として交わした。

第四章 破られた旋律

「おかしいわ。狙われているのは、人と人とを繋ぐ約束ばかり」

結が古い文献をめくりながら呟いた。待ち合わせ、感謝、助け合い――それらは全て、他者との関係性を築くための礎だ。まるで、人々を原子レベルにまで分解し、孤立させようとするかのように。朔は、見えない敵が世界そのものを再構築――あるいは、破壊しようとしているのだと確信を深めていた。

その夜、決定的な事件が起こる。

満員のコンサートホールで、高名なヴァイオリニストがステージに立った。だが、彼が奏で始めたのは、楽譜とは似ても似つかぬ不協和音。聴衆が呆気にとられる中、ホールから音が消えた。ヴァイオリンの弦は虚しく空を掻き、指揮者のタクトは意味もなく宙を舞う。人々が「楽譜通りに演奏する」という約束を忘れた瞬間、音楽という概念そのものが世界から消滅を始めたのだ。

街から歌声が消え、イヤホンからはただのノイズが流れるようになった。結が大切にしていたスケッチブックの絵も、急速に色を失っていく。彼女の表情から、少しずつ光が失われていくのを、朔はなすすべもなく見つめていた。世界の終わりは、轟音と共にではなく、完全な沈黙の中で訪れようとしていた。

第五章 最後の約束

「朔くん」

古書店の隅で、結が朔の名を呼んだ。その声はか細く、輪郭がぼやけている。彼女の身体が、足元から透き通り始めていた。あの「消失」の兆候だった。

「どうして……結まで……」

朔が駆け寄ろうとすると、彼女は静かに首を振った。その瞳は悲しいほど澄んでいて、全てを受け入れているように見えた。

「お願い。『空白の契約書』に、触れてみて」

震える手で、朔は懐の羊皮紙を取り出す。結の柔らかな指が、彼の手の上に重ねられた。その瞬間、契約書がこれまでになく強い光を放ち、鮮やかな文字が浮かび上がった。

『――世界を救うため、最も愛する者との記憶を差し出す――』

それは、朔が知らないはずの約束。だが、その文面を見た途端、彼の魂が叫びを上げた。これは、自分が交わした約束だ、と。

「思い出した……?」

結が、光の粒子を散らしながら微笑む。

「あなたは、一度壊れたこの世界を再生するために、未来からやってきたの。そして、この仮初の世界を維持するための楔として……私という存在を創造した。私との記憶を犠牲に、世界を繋ぎ止めるという約束を、過去の自分と交わして」

誰かが約束を破っていたのではない。世界の寿命が尽き、朔が立てた「最初の約束」の効力が、根本から揺らいでいただけなのだ。結の存在そのものが、この歪な世界を支える最後の砦だった。

第六章 原初の破戒者

結の姿が完全に光に溶けて消えた瞬間、朔の世界は反転した。

意識は時間の奔流を凄まじい速さで遡り、彼が降り立ったのは、全てが瓦礫と化した灰色の荒野だった。空には太陽も月もなく、ただ虚無が広がっている。これが、かつて「約束」が完全に失われ、一度死んだ世界の真の姿。

そして、その荒野に、絶望しきった顔でうずくまる若い男がいた。

過去の自分だった。

やがて、未来の自分――今の朔――が、光の中から現れ、過去の自分に語りかける光景を、朔はまるで幽霊のように眺めていた。

「世界をやり直せる方法が、一つだけある」

「……なんだよ」

「最も残酷な約束を、君自身が破るんだ」

未来の自分は、一枚の羊皮紙を差し出した。それは、最も愛する存在を犠牲にして、人々が再び約束を結び直せる仮初の世界を創る、という契約。愛する者を、自らの手で、世界の礎として捧げる。それは、人間が守るべき最後の倫理を踏み越える、究極の「約束破り」だった。

そうだ。この世界を歪ませた、最初の約束破戒者は、他の誰でもない。

この世界を救おうとした、自分自身だったのだ。

第七章 君のいない朝

再び、選択の時が来た。

朔の意識は、過去の自分が契約書に署名する寸前の、時間の狭間に立っていた。この手を止めれば、結は犠牲にならない。だが、彼女と出会ったあの世界、人々が不器用ながらも繋がりを取り戻そうとしていたあの仮初の日々は、全てが「なかったこと」になる。

朔の頬を、一筋の涙が伝った。

彼は、消えゆく結の残像を、その温もりを、確かに胸に感じていた。彼女がいた世界を、無に帰すことなどできなかった。

朔は、選択しないことを選んだ。

過去の自分に干渉せず、この崩壊しゆく世界と共に、結との記憶を抱いて消えることを決意した。

彼がそう覚悟を決めた瞬間。

完全に白紙になったはずの契約書が、胸ポケットで微かな光を放った。震えるような光の文字が、最後に浮かび上がる。

『――君を、決して忘れない――』

それは、未来の彼が過去の彼と交わした契約ではない。朔が、結と、心の中で交わした最後の、そして最初の約束だった。

世界が、真っ白な光に塗りつぶされる。

次に目を開けた時、古書店の窓から、柔らかな朝日が差し込んでいた。街には活気が戻り、時計塔が優しい音色で時を告げている。人々は笑顔で「ありがとう」を交わし、子供たちは歌を口ずさんでいた。

世界は、再生されていた。

だが、その世界に、結の姿はどこにもなかった。

朔は、空になった隣の席をそっと撫でる。そこにはもう光の残像はない。けれど、確かな温もりが、彼の胸の中にだけは残っていた。

失われたものを、決して忘れない。

朔は立ち上がり、新しい朝の光の中へと歩き出した。彼女のいない世界で、新たな約束を紡いでいくために。

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