亀裂の向こう、風化する僕ら
第一章 歪みの輪郭
僕、晄(あきら)の眼には、世界が少しだけ違って見えている。それは生まれついての、誰にも理解されない秘密だった。
例えば、いま僕が座っている図書館の古書閲覧室。向かいの席にいるはずの友人、カイトが席を外している間、彼の存在があった場所の空間は、夏の陽炎のように微かに揺らめいて見える。それは「不在」のしるし。彼が戻ってくれば、その歪みはすっと消える。しかし、完全にこの世から消滅した存在は、もっと残酷な形で視界に焼き付く。三年前になくなった祖母が愛用していたロッキングチェア。その周囲には今も、光すら吸い込むような漆黒の亀裂が、音もなく空間を裂いている。それは「喪失」の絶対的な証明だった。
僕は慣れてしまったこの奇妙な視界の中で、古文書のページをめくる。革の乾いた匂いと、インクの微かな甘さが鼻腔をくすぐる。静寂を破るのは、自分の指先が羊皮紙をなぞる、かさりという小さな音だけだ。この感覚だけが、僕を世界の確かな一部だと感じさせてくれる。
その日、僕の平穏は、壁面に設置された大型モニターから流れるニュースによって、静かに引き裂かれた。映し出されていたのは、高名な量子物理学者、エリナ・オーブリー博士の姿だった。彼女は、この世界の構造を根底から覆す可能性を秘めた、新たな理論を発表したのだという。知的な眼差しと、自らの言葉に確信を宿した穏やかな声。僕は、彼女のような人間になりたいと、ずっと密かに憧れていた。
だが、僕は息を呑んだ。モニターの中で、聴衆の拍手に応えるオーブリー博士。その輝かしい存在の輪郭に沿って、糸のように細く、しかし紛れもない漆黒の『亀裂』が走っていたのだ。
ありえない。
心臓が冷たい手で掴まれたように凍りつく。あれは、死んだ者にしか現れないはずの、完全な存在の亀裂。だが博士は生きている。現に、世界に向けて語りかけているではないか。これは死ではない。だとしたら、一体何なのだ? まるで彼女という概念そのものが、世界から引き剥がされようとしているかのような、冒涜的な異変だった。
周りの誰も、その異常には気づいていない。彼らの眼には、偉大な科学者の栄光の瞬間しか映っていない。僕だけが、その足元で静かに広がる、存在の深淵を覗き込んでいた。
第二章 流転する文字
オーブリー博士の亀裂は、日を追うごとに深く、そして数を増していった。僕はいてもたってもいられず、彼女が教鞭をとる大学の研究室を、半ば衝動的に訪れた。博士は僕のような一介の学生にも丁寧に応対してくれたが、その顔には隠しきれない疲労の色が浮かんでいた。そして、彼女の周囲の空間は、もはや砕け散る寸前のガラス細工のように、無数の亀裂で覆われていた。
「何か、悩み事でもあるのかい?」
博士は僕の視線に気づいたのか、優しく問いかけた。僕は喉まで出かかった言葉を飲み込む。あなたの存在が消えかかっている、などと、どうして言えるだろう。
結局、何も聞けないまま研究室を後にした僕は、答えを求めて大学の地下にある古文書保管室へと向かった。埃と黴の匂いが混じり合った、時が止まったような場所。そこで僕は、一冊の奇妙な古文書と出会った。『流転の写本』と表紙に記されたそれは、どの時代の、どの言語で書かれたものかも判別がつかなかった。
そっとページを開く。すると、そこに記された文字が、まるで生き物のようにうごめき、僕の眼の前で新たな文章を形成した。
『共有されし真実は、世界を分かつ楔となる。ひとつの真実は、ひとつの世界しか内包できない』
衝撃に身体が震えた。隣で僕の様子を訝しげに見ていたカイトが、そのページを覗き込む。
「なんだこれ。古い恋の詩か? 『君の瞳は、星々を映す湖のようだ』だってさ。ロマンチックだな」
カイトが指差した場所には、僕の眼には先ほどの警告文がはっきりと見えている。この写本は、読み手の認識によって内容を変えるのだ。そしてそれは、この世界の法則そのものを象K徴しているのかもしれない。人々が真実を共有すると、それは客観性を失い、それぞれの解釈という名の伝説へと風化していく。だが、もし、風化しようのない、絶対的な真実が共有されてしまったとしたら?
その夜、テレビに映ったオーブリー博士の研究チームのメンバーたち。その全員の身体に、大小様々な亀裂が走っているのを、僕は見てしまった。彼らは、何かを「共有」したのだ。世界を分かつほどの、絶対的な真実を。
第三章 分離の序曲
月が冷たく街を照らす深夜、スマートフォンの着信音が静寂を破った。エリナ・オーブリー博士からだった。
「晄君。君にだけは、話しておくべきことがある。私の研究室まで来てくれるかい」
その声は、不思議なほど澄み切っていた。まるで、全ての迷いを振り払ったかのように。
研究室の扉を開けた瞬間、僕は現実感を失った。空間が歪み、空気がガラスのように軋む音が聞こえる。そこに立つ博士と研究員たちの姿は、輪郭がぼやけ、まるで陽炎の向こう側にいるかのように半ば透けていた。彼らを覆う亀裂は、もはや空間そのものを引き裂き、その向こう側には、見たこともない星空のような光が明滅していた。
「ようこそ、世界の境界へ」
博士は穏やかに微笑んだ。
「我々は、観測してしまったのだよ。この世界とは異なる物理法則で成り立つ、無数のパラレルワールドの存在を。そして、その理論を完全に証明し、チーム全員でその『真実』を共有してしまった」
彼女の言葉が、脳内で『流転の写本』の一文と重なる。ひとつの真実は、ひとつの世界しか内包できない。
「我々の存在は、この世界の物理法則から逸脱してしまった。いわば、この物語から退場し、別の物語へと移行しつつあるのだ。この亀裂は、我々が元の世界から『分離』していく過程そのものだよ」
博士は、透けかけた手で僕を指し示した。
「そして晄君。君も、我々の研究が生み出した、最も重要な『成果』なのだ。君のその特異な眼は、単なる能力ではない。世界線が分離する『境界』そのものを知覚するために、我々が未来へと送り込んだ、観測システムなのだよ」
言葉の意味を理解するより早く、僕自身の身体に異変が起きた。指先が、ほんの僅かに透けている。自分の足元に、今まで見えなかったはずの、薄い亀裂の兆候が現れ始めている。
僕の能力は、他者の不在を視るものではなかった。
この世界から『分離』していく存在を、その兆候を、最も早く察知するための、僕自身に組み込まれた本能的な警告システムだったのだ。
第四章 さよならを告げる世界線
分離は加速していく。研究室の機材が激しく火花を散らし、空間が断末魔のような悲鳴を上げている。博士たちの姿は、もはや形を保てず、無数の光の粒子となって拡散していく寸前だった。彼らの瞳には、恐怖も後悔もない。ただ、新たな世界への静かな期待だけが宿っていた。
「君には選択肢がある」
光の奔流の中で、博士の声が僕の心に直接響いた。
「我々と共に、新たな真実が待つ世界へ旅立つか。あるいは、この世界に残り、我々の存在を、風化する『伝説』として語り継ぐか」
この世界に残る。それは、カイトのいる日常に戻るということだ。慣れ親しんだ図書館の匂い、古文書の感触、他愛のない会話。しかし、僕だけが、この夜に起きたことの唯一の証人となる。彼らの偉業は、やがて人々の記憶から消え、僕の中でさえ、時と共に曖昧な夢物語へと風化していくのだろう。それは、途方もない孤独を意味していた。
共に旅立つ。それは、僕の能力の意味を知り、初めて本当の仲間を得るということだ。孤独だった僕の存在が、初めて肯定される場所へ。だが、二度とこの愛しい世界には戻れない。カイトの顔も、図書館の静けさも、全てを捨て去ることになる。
僕は、ゆっくりと自分の手を見つめた。透け始めた指先の向こうに、慣れ親しんだ大学のキャンパスが見える。風が窓を揺らし、遠くで救急車のサイレンが聞こえた。それは、僕が愛した世界の、確かな音だった。
光の奔流が、僕を誘うように手を差し伸べてくる。その向こうには、まだ見ぬ真実が待っている。
僕は、深く、息を吸い込んだ。
そして、決意を込めて、一歩を踏み出した。