残香のリフレイン

残香のリフレイン

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第一章 空白の香り

私の仕事は、香りを調律することだ。人々が忘れたい記憶を覆い隠す甘いフローラルを、あるいは、特別な瞬間を永遠に封じ込めるためのスパイシーなアンバーを。だが、私の鼻だけが捉える香りがある。世界からこぼれ落ちた、誰にも記憶されていないはずの感情の香りだ。

公園のベンチに座ると、ふと鼻を掠めるものがある。それは錆びた鉄と湿った土が混じり合った、苦い香り。ここに座っていた誰かが抱えていた、「間に合わなかった謝罪」の香りだ。街角の古びた郵便ポストからは、乾いたインクと涙の塩気を含んだ「届かなかった恋文」の香りがする。人々は何も気づかずに通り過ぎていく。彼らの世界では、それらの香りの主は最初から存在しなかったのだから。

その日、ニュースは奇妙な話題で持ちきりだった。街の再開発地区に聳え立つ、巨大なアトリエの壁。何のために建てられたのか、誰が使っていたのか、一切の記録がない。ただ、真っ白な、あまりに巨大なキャンバスだけが、がらんどうの空間に鎮座しているという。人々はそれを「現代のバベルの塔」などと呼び、物珍しげに噂していた。

だが、私はそのニュース映像を見た瞬間、息を呑んだ。画面越しに、嗅いだことのない強烈な香りが流れ込んできたからだ。焦げ付いた油絵の具、砕かれた木炭、そして、どうしようもない諦念に濡れた涙の塩辛さ。それは、巨大な絶望と、それでも何かを成し遂げようとした執念がせめぎ合う、「未完の後悔」の香りだった。

いてもたってもいられず、私はアトリエ跡地へと足を運んだ。立ち入り禁止のテープを潜り抜け、巨大な空間に足を踏み入れる。目の前に広がるのは、圧倒的な「白」。あまりの純白さに、目が眩むほどだった。人々が噂する通り、そこには何もなかった。いや、何も描かれていなかった。

しかし、私の鼻には、その空白が雄弁に語りかけていた。このキャンバスは、かつて何か途方もないもので満たされていたのだと。そして、その創造主が、あまりに深い罪悪感か後悔を抱えたまま、この世界から「修正」されたのだと。私はゆっくりと空白に近づき、そっと指先を伸ばした。その瞬間、足元に転がる一本の古い絵筆が、鈍い光を放った気がした。

第二章 忘れられた絵筆

現場は、奇妙な静寂に包まれていた。警察は早々に引き上げ、世間の興味も新たなゴシップへと移ろいでいた。残されたのは、意味を失った巨大な空白と、私だけだった。

床に落ちていた絵筆を拾い上げる。

それは、使い古された、何の変哲もない木の筆だった。穂先は硬く擦り切れ、柄には何層にも重なった絵の具が化石のようにこびりついている。誰かの指の形に窪んだその場所が、奇妙な熱を帯びているように感じた。

指先が、その窪みに触れた瞬間だった。

世界が、音を立てて反転した。

視界が色彩の洪水で塗り潰される。赤、青、黄、緑。あらゆる色が奔流となって渦を巻き、私の意識を飲み込んでいく。それは誰かの記憶。この絵筆を握っていた、男の記憶だ。

彼の名は、月島蓮。

脳裏に、忘れられていたはずの名前が雷のように響き渡る。彼は、時代の寵児と呼ばれた天才画家だった。

フラッシュバックの奔流の中で、私は彼の目を通して世界を見ていた。目の前の巨大なキャンバスに、無数の顔、顔、顔が浮かび上がっては消えていく。老婆の深い皺、泣きじゃくる子供の潤んだ瞳、何かを諦めたような青年の虚ろな表情。彼らは皆、この世界から消された人々だった。蓮は、彼らの存在を、その記憶を、この壁画に刻み込もうとしていたのだ。

「君は、誰だ?」

記憶の中の蓮が、まるで私に語りかけるように呟く。彼の視線の先には、モデルもおらず、写真もない空間が広がっている。だが、彼には見えていた。私と同じように、そこに残された「記憶の残像」が。

閃光と共に、私は現実のアトリエに引き戻された。ぜえぜえと肩で息をし、握りしめた絵筆を見つめる。絵筆の毛の一本一本が、消えた記憶の断片を宿しているかのように、淡い光を放っていた。

第三章 消された肖像

月島蓮。彼は、私と同じだったのかもしれない。いや、それ以上だった。彼は、残像を嗅ぎ、見るだけでなく、それをキャンバスに描き留めることで、世界の忘却に抗おうとしていたのだ。

私は蓮の痕跡を求めて街を彷徨った。彼が使っていたというアトリエは、今は名もなき倉庫に変わり、彼の作品を収蔵していた美術館の壁は、不自然に空白が目立った。彼の存在は、綺麗さっぱりと世界から拭い去られている。

だが、香りは消せない。

私は、蓮が残した微かな「創造の香り」を辿った。古い画材店の隅に残るターペンタインの香り。彼がスケッチをしていたであろう公園の、鉛筆の芯の香り。それらを道標に、私はついに、古書店の地下に隠された彼の小さな隠れ家を見つけ出した。

そこには、一冊のスケッチブックが残されていた。

ページをめくるたび、息を呑む。そこには、フラッシュバックで見た「消された人々」のデッサンが、鬼気迫る筆致で描かれていた。そして、その肖像の横には、小さな文字でメモが添えられていた。

『雨の日のアスファルトの匂い―約束を破った後悔』

『甘すぎる焼き菓子の香り―伝えられなかった愛情』

『潮風と錆の香り―故郷に帰れなかった絶望』

蓮は、私と同じように「未練の香り」を嗅ぎ分けていた。彼はその香りを頼りに、消された人々の顔を描き出していたのだ。彼は孤独な観測者ではなかった。忘却に抗う、ただ一人の戦士だった。スケッチブックの最後のページには、こう記されていた。

「この世界の完璧さは、無数の犠牲の上に成り立つ偽物だ。私は、この壁画を『忘却への鎮魂歌』と名付ける。彼らがここにいたという、唯一の証明として」

第四章 世界の調律

蓮の覚悟を知り、私はもう一度、あの空白のキャンバスの前に立たねばならないと思った。彼が最後に見た光景を、その意志を、この身で受け止めるために。

アトリエに戻り、再び「忘れられた絵筆」を握りしめる。目を閉じ、意識を集中させると、蓮の最も鮮烈な記憶が、荒れ狂う嵐のように私の中に流れ込んできた。

それは、壁画が完成に近づいた、ある夜のことだった。

蓮は、最後の一人の肖像を描き上げようとしていた。その人物の輪郭を捉え、絵筆をキャンバスに走らせた、その瞬間。

世界が、軋んだ。

キィィン、と耳鳴りのような高音が空間を満たし、アトリエの空気がガラスのように震える。壁が、床が、キャンバスが、まるで蜃気楼のように揺らぎ始めた。蓮の身体が、世界という名の織物から、一本の糸として乱暴に引き抜かれていくような、冒涜的な感覚。

だが、蓮の瞳に恐怖はなかった。彼は静かに、その瞬間が来ることを知っていたかのように、ただ正面を見据えていた。

その時、彼の意識を通して、私ではない「何か」の声が聞こえた。それは声ではなく、思考そのものの奔流。冷たく、無慈悲で、絶対的な意志。

『不協和音ヲ、排除スル』

『世界ハ、完全ナル調和ノ下ニナケレバナラナイ』

『罪。後悔。悲嘆。ソレラハ世界ヲ汚染スル、許容サレザル不純物(ノイズ)デアル』

世界の無意識。人々の平穏を願う集合的な祈りが、歪んだ末に生み出した、巨大な調律システム。それが、この世界の法則の正体だった。強い罪悪感や後悔は、世界の調和を乱す「ノイズ」として自動的に消去されていたのだ。

蓮は、その「ノイズ」そのものを集め、壁画として可視化しようとした。だから、彼はシステムにとって最大の脅威として認識され、消去された。

そして、私もまた、その「ノイズ」を聞き分ける耳と鼻を持つ、異質な存在なのだ。

『次ナル不協和音ヲ、確認。排除ヲ、開始スル』

その声が響いた瞬間、私は自分の手のひらが、ゆっくりと透け始めていることに気がついた。

第五章 最後の一筆

世界の拒絶は、静かに、しかし着実に進行していた。自宅に戻ると、棚に飾った家族写真の中から、私の笑顔が陽炎のように揺らいでいた。私の名前が記された書類のインクは、水に滲んだように薄くなっていた。私は世界にとっての「ノイズ」となり、消去の対象となったのだ。

恐怖がなかったと言えば、嘘になる。だが、それ以上に、蓮の意志を、消された全ての人々の想いを、このまま無に帰してはいけないという強い感情が、私を支配していた。

私は決意した。

この偽りの調和を、終わらせる。

夜の闇に紛れ、再びアトリエへと向かう。透き通っていく指先で、月島蓮の絵筆を、最後の力を込めて握りしめた。もう、時間はない。

空白のキャンバスの前に立ち、深く息を吸い込む。

私が今まで嗅いできた、全ての香りを思い出す。公園のベンチの錆びた鉄の香り。郵便ポストの乾いたインクの香り。蓮が書き留めた、アスファルトや焼き菓子の香り。そして、蓮自身の、焦げ付いた絵の具と諦念の香り。

それらはもはや、他人の記憶ではない。私の記憶の一部だった。

私は絵を描こうとは思わなかった。ただ、この絵筆を通して、私の記憶に刻まれた全ての「香り」を、このキャンバスに解き放つことだけを考えた。

最後の一筆。

私は、自分の「未練」を筆に乗せる。それは、「真実を伝えたい」という、切なくも力強い願い。雨上がりの土と、芽吹いたばかりの若葉が混じり合った、生命の香りだ。

絵筆をキャンバスに走らせた瞬間、貯えられていた全ての香りが、光の奔流となってアトリエに満ち溢れた。それは、忘却の底に沈んでいた魂たちの、一斉の叫びだった。

第六章 残香のリフレイン

香りの洪水は、アトリエの窓を突き破り、眠りについた街へと流れ出していく。それは夜霧のように広がり、家々の隙間を抜け、人々の夢の中へと忍び込んでいった。

その香りを吸い込んだ人々は、一様に眉をひそめ、浅い眠りの中で身じろぎした。頭の奥がズキリと痛み、忘れていたはずの「何か」が、心の扉を叩く。

「…あきら…?」

ある女性は、夢の中で、幼い頃に死んだと聞かされていた兄の名前を呟いた。本当は、消されたのだ。

「ごめん…ごめんなさい…」

ある老人は、涙を流しながら、誰にともなく謝罪の言葉を繰り返した。彼が犯した過ちの記憶が、錆びた鉄の香りとともに蘇っていた。

失くしたと思っていた家族の写真。名前を忘れた親友の笑顔。理由のわからなかった胸の疼き。香りは、忘却のベールを剥がし、人々が失った記憶の断片を呼び覚ましていく。

世界の調律システムが、最後の抵抗とばかりに、私という存在を完全に消去しようとしていた。身体はほとんど光の粒子となり、足元から崩れていく。だが、私の心は不思議なほど穏やかだった。

消えゆく視界の中で、私は微笑む。

空白だったはずのキャンバスには、無数の色彩が渦を巻き、まるで夜明けの空のような、希望とも悲しみともつかない美しい抽象画が浮かび上がっていた。蓮が始め、私が完成させた、記憶の壁画だ。

私の意識が完全に消え去る。

しかし、私が解き放った香りは、決して消えることはなかった。

翌朝、人々はアトリエに集まっていた。彼らは壁画を見上げ、理由もわからず涙を流していた。なぜ涙が出るのかはわからない。でも、胸を満たすどこか懐かしい香りが、忘却の彼方にあったはずの、愛や後悔や、温かい感情の記憶を呼び覚ましていた。

世界から、一ノ瀬奏という調香師の存在は完全に消えた。

だが、彼女が残した「真実の香り」は、人々の心の中で、永遠に響き渡り続ける。まるで、終わらないリフレインのように。

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