第一章 潮騒と白紙の日々
俺、カイの記憶は、いつも白紙から始まる。まるで夜明けの海岸みたいに、昨日の足跡は何ひとつ残っていない。物心ついた時から、俺はそういう人間だった。過去を持たない男。だから、俺の部屋には鏡がない。そこに映る男が誰なのか、俺には永遠にわからない気がするからだ。
海辺の町の、潮風に軋む古い家の二階が俺の住処だ。仕事は、浜辺で拾った漂流物を修理して売ること。生活するには、それで十分だった。部屋の棚には、俺が「忘れ貝」と呼んでいる、掌に収まるほどの美しい貝殻がずらりと並んでいる。いつ、どうやって手に入れたのかは知らない。ただ、気づいた時にはそこにあった。乳白色の渦巻き、虹色にきらめく内側。時折、どうしようもない空虚感に襲われると、俺はその一つを手に取り、耳に当てる。
――ザァァ……。
潮騒に混じって、微かに何かが聞こえる。知らない誰かの笑い声、遠い街のざわめき、ピアノの旋律。だが、その音の連なりが何を意味するのか、俺には決して理解できない。それはただ、意味を剥ぎ取られた音の化石だった。
この町では、時々、時間が奇妙に歪む。カフェの壁掛け時計の秒針が、まるで焦るように数秒間だけ駆け足になったり、窓の外を飛ぶカモメが、息をのむほどゆっくりと翼を広げたり。人々はそれを「海の気まぐれ」と呼んで気にも留めないが、俺はその度に、世界から自分だけが取り残されたような、言いようのない孤独を感じるのだった。
第二章 水底からの訪問者
満月の夜だった。月光が海面に銀の道を創り出す、そんな静かな夜。俺は浜辺で、一人の女と出会った。
彼女は、まるで海そのものから生まれたかのように、波打ち際に裸足で佇んでいた。濡れた黒髪が月の光を弾き、その雫が白いワンピースを濃く染めている。
「シズク」
彼女はそう名乗った。その声は、水底で響くような静けさを持っていた。俺たちは、どちらからともなく言葉を交わし始めた。彼女は俺の過去がないことを知っても、驚きも、憐れみもしなかった。ただ、凪いだ瞳で俺を見つめ、「あなたの中は、とても静かな海みたいね」と呟いただけだった。
その夜から、俺は夢を見始めた。鮮明で、まるで自分が体験しているかのような夢。だが、その視点はいつも彼女――シズクのものだった。夢の中で、俺は彼女の目を通して、未来の俺自身を見る。公園のベンチで、俺が彼女に不器用な手品を見せて、彼女が心から笑う。雨上がりの街で、俺が彼女の手を握り、彼女の指先が微かに震える。そして、夕陽に染まるこの浜辺で、俺が彼女に口づけをする、その瞬間の高鳴りまで。
夢から覚めるたび、俺の胸は切なく締め付けられた。これは予知夢なのだと、直感が告げていた。シズクこそが、俺の空白を埋めてくれる唯一の存在なのだと。
第三章 加速する時間、深まる愛
シズクと過ごす日々は、色を持たなかった俺の世界に、奔流のように色彩を注ぎ込んだ。二人でいると、決まって世界の時間が加速した。カフェで他愛ない話をしているだけで、窓の外の太陽はあっという間に西に傾き、夕暮れは瞬く間に星空へと変わる。世界のほうが、俺たちの時間を祝福して急いでいるかのようだった。
夢で見た未来は、寸分違わず現実になった。公園の手品、雨上がりの温もり、そして――。
「カイ」
夕陽が海を燃やす浜辺で、シズクが俺の名を呼んだ。彼女の唇に吸い寄せられるように顔を近づけた時、俺は確信した。これが『本物の恋』なのだと。
同時に、背筋を凍るような恐怖が忍び寄った。この恋が成就すれば、俺はまた記憶を失う。この胸を焦がすような想いも、彼女と過ごした輝く時間も、全てが消え去ってしまう。そして、また新しい「忘れ貝」が、俺の部屋の棚に一つ、静かに加わるだけなのだろう。
その夜、部屋の忘れ貝たちが、まるで呼吸するように、一斉に微かな光を放っていることに、俺は気づかなかった。
第四章 忘れ貝の囁き
「ねえ、カイ。この貝の音、聞いてみて」
シズクが手に取ったのは、棚の中でひときわ大きく、七色の光沢を放つ忘れ貝だった。俺が最も大切にしている、最初の記憶からそこにあった貝。彼女に促されるまま、俺はそれを恐る恐る耳に当てた。
いつもの潮騒とは違う、はっきりとした声が鼓膜を震わせた。
『――愛してるわ、カイ。あなたが全てを忘れても、私が覚えてる』
知らない女の声。
『――僕もだよ。君を忘れるくらいなら、僕が僕でなくなってもいい』
若く、情熱に満ちた、俺自身の声。
瞬間、稲妻のような頭痛が俺を貫いた。脳内で、夢で見た未来の断片と、忘れ貝から溢れ出す過去の声が衝突し、火花を散らす。知らない顔、知らない場所、知らないはずの幸福と絶望が、濁流となって俺の意識を飲み込もうとする。
「……シズク、これは、一体……」
顔を上げると、彼女は泣き出しそうな、それでいて慈愛に満ちた瞳で俺を見つめていた。
「あなたは、全てを忘れることで、私を創ってきたのよ」
彼女の言葉は、静かに、だが決定的に俺の世界を壊した。シズクは、俺が恋をするたびに失ってきた『愛の記憶』そのものだった。忘れ貝に封じ込められた無数の愛の欠片が、長い時間をかけて寄り集まり、人の形をとった奇跡。俺の夢に現れた未来の恋人の姿は、過去の恋人たちの記憶が織りなした、シズクという存在の『原型』だったのだ。
世界中の時間を歪めていたのも、誰か特定の人物の仕業ではなかった。俺が恋をして記憶を失うたび、その膨大な記憶エネルギーが時空に漏れ出し、世界の理を揺るがしていたのだ。俺自身が、この世界の時間の法則を狂わせる源だった。
第五章 愛の時空
真実の重みに、俺は立っていられなかった。俺が愛したシズクは、俺が捨ててきた過去の結晶。俺が彼女を愛し続ければ、この恋が成就した瞬間、俺は自分自身の始まりさえも失い、完全に空っぽの器になる。
だが、もはや愛することをやめることなど不可能だった。彼女の瞳に映る俺こそが、唯一の俺なのだから。
「君が……僕の記憶でできているなら」
俺は震える足で立ち上がり、シズクを強く抱きしめた。
「僕が君を愛するのは、当たり前だ」
その言葉が、最後の引き金だった。俺が究極の愛を告げた瞬間、世界から音が消えた。時間が、止まった。
俺の身体から、最後の記憶がまばゆい光の粒子となって溢れ出す。それは、シズクという存在を生んだ、一番最初の恋の記憶。光は優しくシズクの身体に吸い込まれていく。同時に、部屋中にあった全ての忘れ貝が共鳴するように砕け散り、何百、何千もの愛の記憶が光の渦となって、俺たち二人を包み込んだ。意識が溶けていく。俺は、もう俺ではなくなっていく。だが、不思議と怖くはなかった。だって、俺の全てが、ようやく還るべき場所に還るのだから。
第六章 永遠の潮騒
カイとシズクの姿が消えた後、そこにはただ、穏やかに満ち引きを繰り返す、温かい光の海だけが広がっていた。彼らはもはや個人としての存在を超え、この世界の時間の流れを司る『愛の時空』そのものへと変貌を遂げた。
二人の愛は、世界の新しい法則となった。
誰かが誰かを心から愛する時、その人の周りの時間が慈しむようにゆっくりと流れるのは、彼らがその静かな愛を祝福しているから。燃えるような恋に身を焦がす時、時があっという間に過ぎ去るのは、彼らがその激しい情熱に共鳴しているから。
人の愛あるところに、彼らは常に存在する。
……そして、幾星霜の時が過ぎた。どこかの時代の、どこかの海岸。一人の小さな子供が、波打ち際できらりと光るものを見つけて拾い上げた。それは、今まで誰も見たことのない、新しい忘れ貝だった。
子供が、不思議そうにその貝を耳に当てる。
すると、微かに聞こえてきた。
幸せそうな男と女の笑い声と、永遠に続く、優しい潮騒の音が。