第一章 嘘の雨と青い痣
街はいつも、きらめく雨に濡れていた。人々が「虚偽の雨」と呼ぶそれの正体は、空へと舞い上がった嘘の結晶だ。天上で冷やされ、記憶の泡となって地上に降り注ぐ。人々は傘を深く差し、俯き加減に歩く。泡に触れれば、誰かがついた嘘にまつわる過去の悲劇を、肌を焼くように追体験させられるからだ。誰もが口を噤み、真実だけが重く沈殿していく、そんな灰色をした世界だった。
リオンは路地裏の軒下で、その冷たい光景を眺めていた。彼の左胸には、生まれつき心臓の真上に青い痣がある。それはただの痣ではなかった。静かな鼓動に合わせ、まるで呼吸するように淡く明滅する。
その時、甲高い悲鳴が響いた。広場に駆け出した幼い少女が、きらきらと舞い落ちる記憶の泡に無邪気に手を伸ばしたのだ。パチン、と泡が弾けた瞬間、少女は凍りついたように動きを止め、その小さな瞳から大粒の涙をこぼした。見知らぬ誰かの絶望が、少女の心を蹂躙しているのだ。
リオンは、考えるよりも先に駆け出していた。少女を庇うように抱きしめた彼の腕に、別の泡が触れ、弾けた。覚悟した痛みは、しかし、訪れない。代わりに、全く異なる光景が脳裏に溢れ出した。
――軋むベッドの上。皺だらけの指が、不器用な手つきで木彫りの小鳥を握っている。息は浅く、視界は白んでいく。だが、心は満たされていた。枕元で眠る孫娘の寝顔を、最期の力で見つめる。ありがとう、と声にならない声が喉で震える。愛おしさだけを抱きしめて、意識は永遠の闇に溶けていった。
幻覚が消え、リオンは息を吐いた。腕の中では少女が泣きじゃくっている。彼が見たのは、誰かが死ぬ直前の、穏やかで温かい「最後の記憶」だった。胸の痣が、じんわりと熱を帯び、その形を僅かに変えたことに、まだ彼は気づいていなかった。
第二章 残響の探求者
「また、見たのか」
古びた書物のインクと埃の匂いが満ちる部屋で、エリアが静かに問うた。彼女は街で唯一の歴史家であり、この世界の歪な理を解き明かそうと生涯を捧げている変わり者だった。リオンは、己の特異な能力を打ち明けた唯一の人間である彼女の向かいに座り、こくりと頷いた。
「今度は、孫娘に玩具を残して死んだ老人だった。悲劇じゃない。ただ、愛だけがあった」
「やはり……君の体験するものは、他の人々が泡に触れて見る『罰』とは根本的に違う」
エリアはそう言うと、羽ペンをインク壺に浸した。彼女はリオンが体験した「最後の記憶」を、一つ残らず羊皮紙に記録していた。彼女の知的好奇心に満ちた瞳は、いつもリオンの胸の痣に向けられている。
「この痣だ。古文書にあった『調律者の印』に酷似している。世界の心音を聴き、その歪みを正す存在……ただの伝承だと思っていたが」
近頃、虚偽の雨は激しさを増していた。空は常にきらめく結晶に覆われ、人々の心は疑心暗鬼で凍てついている。小さな嘘が、より大きな嘘を呼び、世界全体が巨大な虚偽に飲み込まれようとしているかのようだった。
「僕に、何ができるっていうんだ」リオンは自嘲気味に呟いた。胸の痣が疼く。それは呪いの烙印だと、ずっと思ってきた。
「まだ分からない。でも、君の心臓だけが、この嘘に塗れた世界で、違うリズムを刻んでいる。それが全ての鍵よ、リオン」
エリアの力強い言葉が、リオンの閉ざされた心に小さな波紋を広げた。
第三章 歪んだ地図
リオンは決意した。エリアの仮説を確かめるため、自ら虚偽の雨の中へと足を踏み入れた。一つ、また一つと記憶の泡に触れる。そのたびに、彼の心臓は誰かの最期の鼓動と共鳴し、脳裏に鮮やかな幻覚を映し出した。
戦場で友を庇い、その腕の中で微笑んで息絶えた兵士。
叶わぬ恋の相手の幸福を願いながら、病に倒れた歌姫。
燃え盛る家から我が子を庇い、炎に焼かれながら安堵の息をついた母親。
それらは紛れもなく「死」の記憶だったが、そこに悲劇の色はなかった。絶望の淵で灯る、あまりにも純粋で、あまりにも気高い、人間の魂の真実の輝き。リオンは涙を流しながら、それらの記憶を受け止め続けた。
体験を重ねるたび、胸の青い痣は脈動し、その輪郭を複雑に変えていった。かつては不定形だった染みは、今や精緻な文様を描き始めている。エリアはその変化を丹念に写し取り、彼女が持つあらゆる古地図と照合する作業に没頭した。
「見つけた……!」
ある晩、エリアが興奮した声で叫んだ。彼女が広げた羊皮紙の上で、リオンの痣の文様が、一枚の地図と寸分違わず重なっていた。それは、世界の中心にそびえ立つ「沈黙の尖塔」へと至る道を示していた。人々が虚偽の結晶の発生源と恐れ、誰も近づこうとしない禁忌の場所だった。
第四章 沈黙の心臓
沈黙の尖塔は、天を突く巨大な結晶体そのものだった。周囲の大気は嘘の匂いで満ち、肌を刺すように冷たい。リオンとエリアが塔の入り口に立った時、リオンの心臓がこれまでになく激しく鳴り響いた。胸の痣が、まるで道を示すかのように青白い光を放ち始めた。
塔の内部は、幻想的でありながら、身の毛がよだつほど静かだった。壁も床も天井も、全てが無数の虚偽の結晶で構成されている。その中心には、巨大な一つの結晶体が鎮座していた。ドクン、ドクンと、まるで巨大な心臓のように、それは不気味な光を放ちながら脈動している。
「これが……世界の嘘の源……」
エリアが息を呑む。リオンは、何かに引き寄せられるように、その巨大な結晶体へと歩みを進めた。彼の心臓の鼓動が、結晶体の脈動とゆっくりと同期していく。胸の痣が焼きごてを当てられたように熱い。
震える指先が、結晶体の冷たい表面に触れた。
その瞬間、世界が反転した。これまで体験した全ての「最後の記憶」が奔流となって精神を打ちのめす。老人の愛、兵士の友愛、歌姫の純愛、母親の慈愛。無数の真実の想いが渦を巻き、リオンの意識を飲み込んでいく。そして、その渦の中心から、全く新しい、誰のものでもない、原初の記憶が浮かび上がってきた。
第五章 創造主の最初の嘘
それは、世界の始まりの記憶だった。
――そこには光も闇もなく、ただ終わりなき憎悪と闘争だけがあった。互いを傷つけ、奪い合い、絶望だけが平等に降り注ぐ、混沌の世界。創造主は、自らが創り出したその光景をただ嘆いていた。この世界に救いはないのか。
創造主は、最後の決断を下す。己の力の全てを使い、世界にたった一つの「大いなる嘘」を植え付けたのだ。
『人は、互いを愛し合う存在である』
その嘘は、世界の理を根底から書き換えた。憎悪は愛に、闘争は協調に姿を変え、世界には初めて平和が訪れた。しかし、あまりに巨大な嘘は、世界の構造に歪みを生んだ。その歪みこそが「虚偽の結晶」として世界に漏れ出し始めたのだ。人々がつく小さな嘘は、この大いなる嘘の綻びを繕い、世界を維持するための楔だった。そして、記憶の泡がもたらす悲劇の追体験は、人々が嘘をつかぬよう戒め、秩序を保つための「罰」のシステムだったのだ。
リオンは全てを理解した。なぜ自分だけが違う記憶を見るのか。彼の心臓は、創造主の「大いなる嘘」から唯一取り残された、混沌の時代の「真実の心」だったのだ。闘争と憎悪の記憶を宿した、原初の心臓。だからこそ、「罰」のシステムは彼に効かず、嘘に汚されていない死の直前の「真実の想い」だけを再生し続けてきたのだ。胸の痣は、この世界の真実を示す、最後の道標だった。
第六章 新世界の心音
真実を知ったリオンの心臓が、そのリズムを変えた。これまで静かに刻んできた鼓動が、大地を揺るがすような、力強く、そしてどこまでも悲しいリズムを奏で始める。それは、創造主の嘘を打ち破り、世界を根源から覆す、真実の心音だった。
胸の青い痣がまばゆい光を放ち、完成された地図――世界の新たな設計図――となって空間に浮かび上がった。
リオンの心音に共鳴し、尖塔の中心にあった巨大な結晶体が甲高い音を立てて砕け散る。それを合図に、世界中の空を覆っていた無数の虚偽の結晶が、一斉に光の雨となって地上へと降り注ぎ始めた。
広場で空を見上げていた人々は、その光景に息を呑んだ。光の雨は、もはや「罰」ではなかった。肌に触れた結晶は、悲劇ではなく、創造主のたった一つの「願い」の記憶を伝える。――どうか、愛し合って生きてほしい。人々は、その温かい光に触れ、理由も分からぬまま涙を流した。
世界は、虚偽の結晶の洪水によって洗い流され、新たな理のもとに再構築されていく。それは「罰」ではなく、「願い」を基盤とした、不完全で、それでも美しい、新しい嘘の世界だった。
光の中心で、リオンの身体はゆっくりと透き通っていく。彼は世界の新たな心臓となり、この星の中心で、永遠に愛の鼓動を刻み続ける存在へと昇華していくのだ。
エリアは、その光景をただ一人、見届けていた。彼女の頬を伝う涙は、悲しみか、あるいは歓喜か。彼女は羊皮紙を取り出し、震える手で、新たな世界の最初の1ページを記し始めた。
空から降り注ぐ光の雨は、まるで祝福のようだった。