第一章 空白のテープ
雨の音がする。
それ以外の音は、僕の世界には存在しない。
防音壁に囲まれた六畳のスタジオ。そこが僕、一ノ瀬賢治のすべてだった。
機材の放熱が作る微かな羽音のようなノイズ。モニターから流れる波形だけが、この部屋で唯一動いているものだ。
「……また、ノイズだ」
ヘッドホンをずらし、ため息をつく。
依頼されたアイドルの歌唱データ。ピッチ補正は完璧だが、リップノイズが酷い。唾液が弾ける音が、僕の鼓膜を不快に撫でる。
僕は「音」が見えすぎる。
人の嘘、緊張、隠したい欲望。それらが周波数となって、僕の「絶対聴感」に突き刺さるのだ。
だから、僕は人を避けた。妻の由美が死んでからは、特に。
インターホンが鳴る。
モニターを見る。配達員だ。僕は出ない。ドアの前に置くように指示してある。
足音が遠ざかるのを待ち、ドアを僅かに開ける。
湿った廊下の匂いと共に、小さな小包が置かれていた。
差出人の名前はない。
部屋に戻り、カッターで封を切る。
中から出てきたのは、一本のカセットテープだった。
ラベルには、震える文字でこう書かれている。
『ユミ』
心臓が、肋骨を内側から叩いた。
由美。三年前に海岸沿いの事故で亡くなった妻。
彼女の遺品は全て整理したはずだ。
誰かの悪戯か?
だが、この筆跡。
最後に「喧嘩別れ」した時に残されたメモ書きと、同じ癖字。
僕は震える手で、埃を被っていたカセットデッキを引っ張り出した。
ケーブルを繋ぎ、再生ボタンを押す。
『サーーーーーーー……』
ホワイトノイズ。
ただの空白だ。
「なんだ……」
安堵と、激しい失望。
停止ボタンを押そうとした、その時だった。
『……じ……』
指が止まる。
ノイズの奥。遥か彼方の底から、泡が浮き上がるような微かな音。
僕はデッキの出力をPCに繋ぎ直した。
波形編集ソフトを立ち上げる。
スペクトログラムには、ただの砂嵐が映っている。
だが、僕には聞こえたのだ。
イコライザーを操作する。高周波のヒスノイズを削る。低域のハムノイズを潰す。
音の地層を、一枚ずつ剥がしていく作業。
それは、死者の骨を掘り起こす行為に似ていた。
三時間後。
研ぎ澄まされたノイズの海から、その「声」は浮かび上がった。
『……けん、じ……』
背筋が凍り、同時に熱くなった。
間違いようがない。
由美の声だ。
第二章 境界線の浸食
それから、僕は眠るのをやめた。
テープは片面四十五分。その全てがノイズで埋め尽くされている。
だが、処理を施せば施すほど、由美の声は鮮明になった。
『……寒い……』
『……ここは、暗いよ……』
『……ねえ、聞こえてる?……』
彼女は、どこにいる?
死後の世界?
そんな非科学的なこと、以前の僕なら鼻で笑っていただろう。
だが、波形は嘘をつかない。
特定の周波数帯域にだけ、異常なパルスが記録されている。
作業を続けるうち、部屋の空気が変わり始めた。
最初は、湿度だった。
除湿機はフル稼働しているのに、空気が重く、肌にまとわりつく。
次は、匂い。
潮の香り。腐った海藻と、錆びた鉄の匂い。
そして、視界。
モニターの隅に、黒い影が映り込むようになった。
振り返ると、誰もいない。
だが、視線を戻すと、波形の上に黒いシミが広がっている。
「由美、そこにいるのか?」
マイクに向かって問いかける。
スピーカーからの返答はない。しかし、テープを再生し直すと、僕の問いかけに対する答えが、新たに「録音」されているのだ。
『……いるよ……』
『……すぐ、そばに……』
ゾクリ、と首筋に冷たい指が触れた気がした。
恐怖はない。あるのは、狂おしいほどの愛着と執着。
彼女を取り戻せるなら、僕は狂ってもいい。
テープの再生時間が進むにつれ、ノイズの中に「別の音」が混じり始めた。
『ピー、ピー、ピー……』
規則的な電子音。
『ガガガガ……』
何かが崩れるような音。
『……下がれ! 危ない!』
知らない男の怒号。
由美は事故に巻き込まれたと言っていた。これは、その時の記録なのか?
僕はフィルターを強化した。
邪魔だ。男の声も、電子音も、すべてが邪魔だ。
僕は由美の声だけが聴きたい。
「ノイズを除去する……僕たちの邪魔をするものは、すべて消す」
目の焦点が合わなくなってきた。
キーボードを叩く指先が、紫色に変色していることに気づかない。
部屋の隅から、水が滴る音が聞こえる。
ポチャン、ポチャン。
床を見ると、海水が染み出していた。
それでも僕は、ヘッドホンを外さない。
第三章 反転する世界
テープの残りが、あと数分になった。
由美の声は、もう耳元で囁かれているかのように鮮明だった。
『……こっちに来て……』
『……賢治、お願い……』
「ああ、行くよ。今、そっちへ行く」
僕は泣いていた。
画面上の波形が、赤く脈打っている。
だが、どうしても消えないノイズがあった。
背後で鳴り響く、あの規則的な電子音。
『ピッ、ピッ、ピッ、ピッ』
テンポが速くなっている。
そして、男の声。
『……心拍低下! 除細動、準備!』
え?
手が止まる。
ヘッドホンの中で、男の声が叫ぶ。
『下がってください! チャージ完了!』
『ドン!』
衝撃音が響く。
同時に、僕の身体が大きく跳ねた。
「うぐっ……!?」
胸に激痛が走る。
なんだ? 何が起きている?
僕は慌ててイコライザーを操作した。
この男の声を消さなければ。
由美の声がかき消されてしまう。
『……戻って! 賢治さん!』
男の声が、僕の名前を呼んでいる?
なぜだ。
このテープは、由美からのメッセージじゃないのか?
冷や汗がキーボードに落ちる。
僕は震える手で、逆に「由美の声」をカットし、「背景のノイズ」をブーストしてみた。
逆位相変換。
隠されていた「真実の音」が、スピーカーから溢れ出した。
『ピーーーーーーーーーーーー!』
けたたましい警告音。
『ご家族の方、聞こえますか!』
『奥様は即死でした……でも、旦那さんはまだ息がある!』
『しっかりしてください!』
『賢治!』
『賢治!』
視界が明滅する。
スタジオの壁が剥がれ落ちていく。
防音材の下から現れたのは、白い壁。
機材のLEDが、無機質な医療機器のモニターに変わる。
「……あ……」
理解、してしまった。
ここはスタジオじゃない。
あの事故の日。
僕も一緒に、車に乗っていたんだ。
由美は死んだ。
そして僕は、生死の境を彷徨いながら、この「夢」を見ていた。
三年じゃない。
事故から、まだ数時間しか経っていない。
僕が必死に「除去」しようとしていたノイズ。
それは、現世からの「救命の声」だった。
そして、僕が追い求めていた由美の声。
それは、死への誘い。
最終章 静寂の選択
『……賢治、気づいたの?』
ヘッドホンからではない。
脳内に直接、由美の声が響いた。
振り返ると、スタジオの扉だった場所に、彼女が立っていた。
ずぶ濡れのワンピース。
蒼白な肌。
けれど、出会った頃のように優しく微笑んでいる。
『そっちに行けば、助かるよ』
彼女が指差す先。
そこには、必死に僕の心臓をマッサージする救急隊員の姿が、霞んで見えた。
『そのノイズを受け入れれば、あなたは目覚める。生きられる』
『でも、私は行けない』
彼女の姿が、揺らぐ。
『さよなら、賢治。生きて』
彼女の姿がノイズに埋もれていく。
生きる。
それは、彼女のいない世界で、目覚めること。
彼女の声を「ノイズ」として処理し、永遠に忘れること。
「……嫌だ」
僕は呟いた。
機材に手を伸ばす。
マスターフェーダーを掴む。
「君のいない世界なんて、ただの静寂だ」
僕は、現世からの呼びかけ――あの救急隊員の声、警告音、心臓の鼓動――その全てのトラックを「ミュート」した。
そして、由美の声のボリュームを、最大まで上げた。
『……馬鹿ね……』
彼女が泣き笑いのような顔をする。
『……本当に、馬鹿なんだから……』
スタジオの景色が完全に崩壊し、暗い海へと変わる。
冷たい水が足元を満たす。
でも、寒くはない。
彼女が抱きしめてくれたから。
『ピーーーーーーーーーーーーー……』
遠くで、心電図がフラットになる音が聞こえた。
それは僕にとって、この世で最も完成された、美しい波形だった。
もう、ノイズはない。
二人だけの、静かな永遠が始まった。