第一章 安息の染み
水野咲は、新しい部屋の真ん中で深呼吸をした。鼻腔を満たすのは、真新しい建材と、微かなペンキの匂い。六畳一間の小さなアパートだが、南向きの窓から差し込む陽光が、白い壁紙の上で踊っている。前の住処は、隣人の騒音と淀んだ空気に満ちていた。それに比べれば、ここは天国だ。ようやく手に入れた、誰にも邪魔されない、完璧な静寂と平穏。咲は心の底から安堵し、口元に自然と笑みが浮かんだ。
荷解きを終え、お気に入りのマグカップに温かいハーブティーを注ぐ。立ち上る湯気の向こうで、窓の外の景色が柔らかく滲む。カモミールの優しい香りが、強張っていた肩の力をゆっくりと溶かしていく。この瞬間のために、私は頑張ってきたんだ。そう思った時だった。
視界の隅に、違和感が引っかかった。
壁と天井が交わる、部屋の北西の角。そこに、拳ほどの大きさの、黒い染みのようなものが見える。結露によるカビだろうか。いや、入居前に隅々まで確認したはずだ。あんなものはなかった。
咲は眉をひそめ、立ち上がって近づいた。しかし、染みは壁紙の模様に溶け込むように曖昧で、手を伸ばしても何も触れられない。まるで、影そのものが壁に張り付いているかのようだ。気のせいかもしれない。疲れているのだろう。彼女はそう結論づけ、再びソファに戻った。
その夜、ベッドに入り、柔らかな布団の感触に身を委ねた。今日の幸せな一日を反芻し、満ち足りた気持ちで目を閉じる。とろとろと意識が眠りの海に沈みかけた、その瞬間。
――ぞわり。
背筋を冷たい何かが撫でた。目を開けると、部屋は常夜灯のオレンジ色に染まっている。そして、咲は息を呑んだ。
昼間見たあの染みが、明らかに大きくなっている。今は、バレーボールほどの大きさにまで膨らみ、不定形にゆらゆらと蠢いているように見える。それは物理的な染みではない。もっと濃密で、深く、まるで空間そのものがそこだけ抉り取られたかのような、絶対的な「黒」だった。
恐怖が咲の心臓を鷲掴みにする。なんだ、あれは。何かの冗談? それとも、幻覚?
咲は震える手でスマートフォンを掴み、わざとけたたましい音楽を流した。けたたましい電子音が静寂を切り裂く。彼女は不安を煽るように、ネットで陰惨な事件の記事を読み漁った。平穏な気持ちがさざ波のように乱れ、恐怖と不快感が心を支配していく。冷や汗が首筋を伝う。
しばらくして、恐る恐る部屋の隅に視線を戻した時、彼女は奇妙な事実に気づいた。
影が、小さくなっている。
昼間見た拳大の大きさに戻り、その輪郭も先ほどよりずっと曖昧になっている。まるで、咲の心の平穏を養分にして、その存在を維持しているかのように。
まさか。そんな馬鹿なことがあるはずがない。
しかし、その日から、咲の安息は静かに侵蝕され始めた。彼女が心からリラックスし、幸せを感じるたびに、あの影は濃度と大きさを増していく。逆に、仕事のストレスや将来への不安に苛まれている時は、影は薄れ、時には完全に消え失せるのだ。
平穏を求めて手に入れたこの場所は、彼女から平穏そのものを奪い取る、奇妙な檻と化してしまった。
第二章 幸福の対価
影との奇妙な共存が始まって一ヶ月が過ぎた。咲は、自分の感情を巧みにコントロールする術を身につけ始めていた。心を平穏から遠ざけること。それが、この家で生きるための唯一のルールだった。
朝はわざとニュースアプリの通知をオンにし、世界の悲惨な出来事を脳に焼き付けてから一日を始める。通勤電車では、好きな音楽ではなく、不協和音ばかりを集めたノイズミュージックを聴いた。会社では自ら厄介な仕事を引き受け、常にストレスと隣り合わせの状態を維持した。同僚からのランチの誘いも断り、一人で冷たいコンビニのサンドイッチを味気なく口に運ぶ。
友人からの連絡も無視し、週末は家に引きこもって、わざと気の滅入るようなドキュメンタリー映画を観続けた。楽しいこと、嬉しいこと、心温まること。そのすべてが、あの影を育てる「餌」になる。だから、徹底的に避けた。
結果、影はほとんど姿を見せなくなった。部屋の隅はただの白い壁紙に戻り、咲は物理的な安全を手に入れた。しかし、その代償は大きかった。彼女の心は日に日にささくれ立ち、乾いていった。鏡に映る自分の顔は生気を失い、目の下には濃い隈が刻まれている。眠りは浅く、常に何かに追われているような焦燥感に苛まれた。これは本当に「生きている」と言えるのだろうか。影の恐怖から逃れるため、自ら心を殺し続ける日々。その矛盾に、咲は静かに精神を削られていた。
そんなある日、咲が大きなプロジェクトを成功させた。
上司からは絶賛され、チームの同僚たちからは盛大な拍手で迎えられた。咲が最も苦手とする、注目と賞賛の渦。彼女は平静を装ったが、心の奥底で、無視できない小さな喜びの芽が生まれてしまったのを自覚していた。
「水野さん、すごいじゃないか! 今夜はみんなで祝いに行こう!」
リーダーのその一言で、祝賀会が開かれることが決まった。断れる雰囲気ではない。咲は引きつった笑みを浮かべながら、その誘いに頷くしかなかった。
居酒屋は熱気に満ちていた。同僚たちの称賛の言葉、注がれるビール、冗談を言い合って爆笑する声。咲はアルコールの力を借りて、どうにかその場を取り繕っていた。しかし、長らく抑圧してきた達成感と高揚感が、心のダムを静かに決壊させていく。楽しい。嬉しい。頑張って、よかった。そんな、人間としてあまりに自然な感情が、止めどなく溢れ出してくる。
まずい。早く帰らなければ。
咲は適当な理由をつけて会を抜け出し、足早にアパートへの道を急いだ。冷たい夜風が火照った頬に心地よい。高鳴る鼓動が、自分の物とは思えなかった。アパートが見えてきた時、彼女は自分の部屋の窓を見上げた。そして、凍りついた。
窓に、黒い人影が立っていた。
これまで見たどんな時よりも濃く、はっきりとした、人間の輪郭。それは染みや靄などではない。確かな実体を持った「何か」が、部屋の中から、じっとこちらを見下ろしている。
咲は悲鳴を飲み込み、震える足で階段を駆け上がった。鍵を開け、勢いよくドアを開ける。
部屋は、静まり返っていた。
窓際に影はない。しかし、空気が違う。ねっとりとした、何者かの気配が部屋中に満ちている。そして、咲の耳に、か細い声が届いた。
―――さきちゃんだけ、ずるいよ。
それは、囁き声とも、風の音ともつかない、不気味な響き。だが、その声は、咲が人生から消し去ろうと必死に足掻いてきた、忌まわしい過去の記憶の扉を、容赦なくこじ開けた。
第三章 歪んだ半身
「さきちゃんだけ、ずるいよ」
その声は、悪夢の残響のように咲の頭蓋内で反響した。忘れたくても忘れられない、二十年前に失われた声。あの日、ぐしゃぐしゃになった車の中で最後に聞いた、双子の妹・美咲の声だった。
咲と美咲は、瓜二つの双子だった。いつも一緒で、何をするにも二人だった。あの日、家族旅行の帰り道、居眠り運転のトラックが自分たちの車に突っ込んでくるまでは。後部座席で隣に座っていた咲は奇跡的に軽傷で助かり、美咲と両親は帰らぬ人となった。親戚に引き取られた咲は、周囲の同情と憐憫の中で、「生き残ってしまった」という罪悪感を心の奥底に封じ込めて生きてきた。
幸せになってはいけない。私だけが楽しんではいけない。
その自己否定の呪いが、いつしか咲の生き方そのものになった。感情を殺し、波風の立たない平穏だけを求める。それは、死んだ家族への贖罪のつもりだった。
影の正体は、美咲の怨霊なのだろうか。私だけが生き残り、幸せになろうとしていることを、恨んでいるのだろうか。恐怖と罪悪感で、咲の呼吸は浅くなる。この影を消す方法は分かっている。心を不安と恐怖で満たし、幸福感を徹底的に排除すればいい。そうすれば、妹の霊も静まるはずだ。
咲はふらつく足でキッチンに向かい、包丁を手に取った。自分の腕に刃先を近づける。痛みと恐怖で心を満たせば、影は消える。そうすれば、またあの空っぽな平穏が戻ってくる。それでいい。それが、私の生きるべき道なのだから。
刃が皮膚に触れ、冷たい感触が走った、その時。
―――ほんとうに、それでいいの?
再び、声が聞こえた。だが、今度の声は美咲のものではなかった。それは、他ならぬ自分自身の声だった。
咲ははっと顔を上げた。部屋の隅に、再びあの人影が立っている。それはぼんやりとだが、幼い頃の美咲の姿をしていた。しかし、その顔には何の感情もない。ただ、虚ろな目で咲を見つめている。
違う。これは美咲じゃない。
咲は直感的に悟った。読者の予想を裏切る真実が、雷に打たれたように彼女の全身を貫いた。
この影は、怨霊などではない。これは、咲自身が生み出したものだ。彼女が「幸せになってはいけない」と、自らに課した呪いそのもの。彼女が長年にわたって抑圧し、切り捨ててきた「幸福を感じる権利」「安らぎを得る資格」といった感情が、行き場を失い、歪み、具現化した存在。自分自身の、歪んだ半身なのだ。
咲が幸せを感じると、影は力を増す。それは、影が咲を妬んでいるからではない。「お前もこちら側に来い」と、切り捨てられた感情たちが、本来の持ち主である咲に還ろうとしているだけなのだ。「さきちゃんだけずるいよ」という声も、妹の言葉を借りた、自分自身の心の叫びだったのだ。「私(幸福を感じる心)を置き去りにして、あなた(罪悪感を抱く心)だけ先に進むなんて、ずるいよ」と。
恐怖から逃げるために、心を殺し続ける道。それは、自分自身の半身を永遠に切り捨て続けることと同じだった。影を消すことは、解決にはならない。
咲の手から、包丁が滑り落ち、床に甲高い音を立てた。彼女は、初めて、恐怖の対象であるはずの影と、真正面から向き合う覚悟を決めた。
第四章 夜明けの輪郭
静寂が部屋を支配する。咲は、自分の半身である影に向かって、一歩、また一歩と踏み出した。恐怖で足が鉛のように重い。心臓が肋骨を突き破らんばかりに激しく鼓動している。影は、咲が近づくにつれて、その輪郭を揺らめかせた。まるで、怯えているかのようだ。
影は、幼い美咲の姿をしている。泣き出しそうな、迷子のような顔。咲は、その数メートル手前で立ち止まった。
これまでなら、ここで恐怖に叫び、心を乱し、影を消し去ろうとしただろう。しかし、今の咲は違った。彼女は震える唇を開き、静かに語りかけた。
「ごめんね」
その言葉は、妹に対してではなかった。目の前の影――自分が切り捨ててきた感情たち――に向けた、心からの謝罪だった。
「ずっと、見て見ぬふりをして、ごめん。あなたをいないことにして、私だけ前に進もうとしてた。それが、あなたをこんなに苦しめていたんだね」
影の輪郭が、さらに大きく揺らぐ。その虚ろだった瞳から、黒い雫のようなものが、ぽたりと落ちた。
「美咲の分まで幸せにならなきゃなんて、そんなおこがましいこと、思わない。両親のことも、一日だって忘れたことはない。でも…」
咲は一度言葉を切り、大きく息を吸った。
「でも、私が私として、幸せを感じることを、もう自分に許したい。嬉しい時は笑って、楽しい時ははしゃいで、温かいお茶を飲んで、ほっと一息つく。そんな当たり前のことを、もう、自分から奪いたくない」
彼女は、恐怖を手放した。そして、その代わりに、心の奥底にずっと仕舞い込んできた罪悪感と悲しみを、そっと両手で掬い上げた。それは冷たくて重かったが、不思議と嫌な感じはしなかった。
「あなたも、一緒に来て。もう、一人にはしないから」
咲がそう言って、そっと腕を広げた瞬間だった。
影は、もはや恐怖の対象ではなかった。幼い妹の姿をしていた影は、ふわりと形を崩し、温かい光を帯びた黒い霧のようになって、咲の身体に吸い込まれていった。それは消滅ではない。融合だった。失われた半身が、あるべき場所へと還っていく、荘厳で、どこか切ない儀式。
全身を駆け巡る、これまで感じたことのない感覚。悲しみと、安らぎ。罪悪感と、幸福感。相反するはずの感情が、境界なく溶け合い、一つの大きな流れとなって咲の心を満たしていく。彼女の頬を、熱い涙が伝った。
気がつくと、部屋には夜明けの光が差し込んでいた。
部屋の隅に、もう影はない。しかし、咲は自分の心の中に、確かにその存在を感じていた。それはもう、得体の知れない恐怖の怪異ではない。悲しみや罪悪感という、名前のついた、愛おしくさえある自分の一部だった。
窓を開けると、ひんやりとした朝の空気が流れ込んでくる。世界は何も変わっていない。けれど、咲にはすべてが昨日までと違って見えた。
恐怖を乗り越えるとは、それを消し去ることではない。正体を知り、受け入れ、共に生きていくこと。咲は、二十年という長い時間をかけて、ようやくその答えに辿り着いた。
彼女は涙に濡れた顔のまま、久しぶりに、心の底からの穏やかな笑みを浮かべた。本当の意味での「平穏な日常」が、今、静かに始まろうとしていた。