色喰らいのレクイエム

色喰らいのレクイエム

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第一章 褪せた空の下で

その朝、世界から「青」が消えていた。

橘美咲が最初に気づいたのは、カーテンの隙間から差し込む光の質だった。いつもなら空の反射を受けて微かに青みを帯びているはずの光が、まるで薄い墨を溶かした水のように、無機質な白さで部屋を満たしていた。寝ぼけ眼をこすり、窓の外を見る。そこにあるべき空は、どこにもなかった。いや、空はそこにある。しかし、その色は抜かれ、のっぺりとした灰白色の天井が無限に広がっているだけだった。

「嘘……」

思わず声が漏れる。ベランダに出てみても、見える風景は同じだった。隣のマンションの屋上に設置された、いつも鮮やかな青色をしていた貯水タンクは、くすんだ鼠色に変わり果てている。遠くに見えるはずの、海へと続く湾の水面も、鉛のように重たい灰色をしていた。まるで、世界から「青」という概念そのものが、根こそぎ抜き取られてしまったかのようだ。

心臓が嫌な音を立てて脈打つ。急いで部屋に戻り、テレビのスイッチを入れた。ニュースキャスターがいつもと変わらない口調で天気を伝えている。「全国的に穏やかな晴天となるでしょう」。画面に映し出されたCGの日本地図も、海の部分が奇妙な灰色に塗りつぶされている。しかし、キャスターも、コメンテーターも、誰一人としてその異常さに言及しない。

「ねえ、見て。空の色、おかしくない?」

出勤の準備をしていた同居人の由香里に声をかけると、彼女は訝しげな顔で窓の外を一瞥した。

「え? いつも通りじゃない。快晴よ」

「だって、青くないじゃない! 海も、全部灰色で……」

「ミサキ、大丈夫? 青って……何だっけ。空の色は、昔からこうでしょ?」

由香里は心底不思議そうに首を傾げた。その瞳には、かつて美咲が愛した深い瑠璃色はなく、ただの黒い虹彩が浮かんでいるだけだった。恐怖が背筋を駆け上がった。おかしいのは世界か、それとも自分自身か。

イラストレーターである美咲にとって、色彩は命そのものだった。特に、様々な表情を持つ「青」は、彼女の作品に深みと静謐さを与えるための重要な要素だった。アトリエに駆け込み、絵の具のチューブをひっくり返す。「セルリアンブルー」「コバルトブルー」「ウルトラマリン」。ラベルは確かに青を示している。だが、パレットに絞り出した途端、それらはすべて粘り気のある灰色の塊に変わった。何度試しても同じだった。指先が震える。自分の感覚だけが、この狂った世界で正常に機能している。その事実が、何よりも恐ろしかった。

街に出ても、違和感は増すばかりだった。青い看板は白黒になり、人々の着ている青い服は精彩を欠いた灰色に見える。誰もがその変化に気づかず、色のない世界を当たり前のように生きている。美咲だけが、失われた「青」の記憶を持つ、異邦人だった。人々が「空」という言葉を発するたびに、その言葉から色彩が抜け落ち、空虚な記号だけが響く。喪失感と孤独感が、じわじわと彼女の精神を蝕んでいく。この世界で、正気でいられる自信は、もうなかった。

第二章 灰色の森

青の喪失から一週間後、今度は「緑」が世界から姿を消した。

公園の木々は、まるで冬の枯れ木のように、葉の一枚一枚が色を失い、灰色の濃淡だけで構成された不気味なオブジェと化した。芝生は霜が降りたように白っぽく、かつて目に優しかった安らぎの色は、どこにも見当たらない。人々は、その変化に気づかない。それどころか、街全体が目に見えて苛立ち、殺伐としてきているように美咲には感じられた。信号の「緑」も今はただの白い光だ。人々はそれを見て渡るが、横断歩道ではクラクションが頻繁に鳴り響き、些細なことで口論が起きている。安らぎの色が消えたことで、人々の心からも余裕が奪われてしまったのだろうか。

美咲の仕事にも深刻な影響が出始めていた。クライアントから依頼された絵本の挿絵は、森の風景を描くものだった。しかし、彼女がどれだけ「緑」を思い描いても、キャンバスに乗る色は灰色にしかならない。葉の瑞々しさも、木漏れ日の暖かさも、表現しようがなかった。

「橘さん、今回の絵、なんだか元気がありませんね。もっとこう……生命力あふれる感じになりませんか?」

編集者からの電話に、美咲は言葉を詰まらせた。「緑が、描けないんです」。そう叫びだしたい衝動を、必死で喉の奥に押しとどめる。

絶望の中で、彼女の脳裏に焼き付いて離れない記憶があった。五年前に事故で亡くした弟、拓海と見た最後の風景。雨上がりの丘の上で、二人で見上げた巨大な七色の虹。あの時、拓海は「姉ちゃんの絵みたいだ」と無邪気に笑った。あの虹の記憶だけが、美咲の中で唯一、色褪せることのない鮮やかな色彩の原風景だった。弟の笑顔、風の匂い、そして空を渡る光の帯。青も、緑も、黄も、赤も、すべてが完璧な形でそこには存在していた。

「拓海……」

弟の名前を呟くと、胸の奥がぎゅっと痛んだ。彼を失ってから、美咲の世界は一度色を失った。時間をかけて、少しずつ色を取り戻してきたはずだったのに、今、再び世界はモノクロームへと回帰しようとしている。これは、あの時の悲しみの再来なのだろうか。それとも、何か別の、もっと恐ろしいものの前触れなのだろうか。

ある晩、悪夢にうなされた。色のない森を、美咲は一人で彷徨っていた。弟を探している。拓海、拓海、と叫んでも、声は灰色の木々に吸い込まれていくだけだ。不意に、背後で枝の折れる音がした。振り返ると、そこにいたのは「何か」だった。それは具体的な形を持たず、ただ、あらゆる色を貪欲に吸い込んでいく、不定形の闇。それがゆっくりとこちらに近づいてくる。逃げなければ。そう思うのに、足が動かない。闇がすぐそこまで迫った時、美咲は金切り声をあげて目を覚ました。全身が冷たい汗で濡れていた。失われていくのは、世界の色だけではない。弟との大切な思い出までもが、あの闇に喰われてしまうのではないか。そんな恐怖が、彼女の心を真っ黒に塗りつぶしていった。

第三章 赤だけが残る

黄色が消え、橙が消え、紫が消えた。世界はついに、白と黒、そして「赤」だけの三色で構成される、悪夢のような光景に成り果てた。

夕焼けは空が燃えているように不気味に赤く、街のネオンは警告のように明滅する。人々の唇や、看板の文字、そして時折アスファルトに落ちている染み。そのすべてが、どす黒い赤色を主張していた。それは生命の色であり、情熱の色であり、そして、血の色だった。他のすべての色彩と感情が漂白された世界で、赤だけが持つ暴力的なまでの鮮烈さが、美咲の神経を極限まですり減らしていた。

その夜、美咲はアトリエでキャンバスを睨みつけていた。もう何も描けなかった。筆を握る力さえ湧いてこない。床に散らばった絵の具のチューブは、すべてが灰色か、さもなければ血のような赤色を吐き出すだけだった。彼女の世界は、終わってしまったのだ。

「姉ちゃん」

不意に、背後から懐かしい声がした。はっとして振り返る。そこには、五年前、事故で死んだはずの弟、拓海が立っていた。しかし、その姿は生前の彼とは違っていた。彼の身体は半透明で、その輪郭はゆらゆらと揺らめいている。そして、彼の存在そのものが、失われたはずの青や緑、黄といった淡い光を放っていた。まるで、彼が世界から消えたすべての色を、その身に宿しているかのようだった。

「拓海……? どうして……」

「ごめんね、姉ちゃん。僕が、色を預かってたんだ」

拓海の表情は、悲しそうに歪んでいた。

「あの日、僕は姉ちゃんを守れなかった。僕のせいで、姉ちゃんの世界は灰色になっちゃった。だから、思ったんだ。姉ちゃんが悲しい思いをする原因になるなら、僕が全部もらってしまえばいいって」

美咲は言葉を失った。拓海が語る真実が、雷のように彼女の脳天を撃ち抜いた。

「色を見ると、いろんなことを思い出すでしょ。青い空を見て、僕と遊んだ夏を思い出したり。緑の公園を見て、一緒に転げ回った日を思い出したり。それが、姉ちゃんを苦しめてると思ったんだ。だから、姉ちゃんの世界から、思い出のきっかけになる『色』を一つずつ、僕が預かることにした。そうすれば、もう悲しまなくて済むって……」

この世界の変貌は、外部からの侵食などではなかった。それは、弟を失った美咲自身の深い絶望が生み出した、巨大な心象風景。そして、弟の魂は、姉を悲しみから救いたいという一途な愛ゆえに、その歪んだ世界に手を貸してしまったのだ。人々が異変に気づかなかったのではない。この色のない世界は、初めから美咲一人のために存在していたのだ。

「赤だけは、最後まで残しておいたんだ」

拓海は、自分の胸にそっと手を当てた。

「だって、これは姉ちゃんが僕を想ってくれる色だから。それに、僕が最後に見た、姉ちゃんを守りたくて流した血の色だから。これだけは、消せなかった」

恐怖の根源は、悪意などではなかった。それは、あまりにも純粋で、痛々しいほどの、弟の愛情だった。その事実に、美咲は打ちのめされた。自分は悲しみから逃げるあまり、弟の愛さえも拒絶し、世界を歪めてしまっていたのだ。涙が、頬を伝った。それは、このモノクロームの世界で、唯一鮮やかな赤色をしていた。

第四章 七色の涙

「馬鹿……。馬鹿よ、拓海」

美咲の震える声が、静まり返ったアトリエに響いた。

「姉ちゃんが悲しかったのは、あんたがいなくなったからよ。色があったからじゃない。あんたとの思い出が、私を苦しめてたんじゃない。それが、私の支えだったのに……!」

涙が次から次へと溢れ出す。それは後悔の涙であり、自分を責める涙であり、そして何よりも、弟の深い愛情に対する感謝の涙だった。弟を失った悲しみに目を閉ざし、思い出と共に生きることから逃げていたのは自分自身だ。弟は、そんな姉の心を救おうと、たった一人で世界中の色を背負ってくれていたのだ。

「もういいんだよ、拓海。返して。あんたがくれた、たくさんの色を。悲しい記憶も、楽しい記憶も、全部。私はもう、逃げないから」

美咲は、光を放つ弟の姿に、ゆっくりと手を伸ばした。その手はもう震えていなかった。

「ちゃんと、見るから。あんたが愛した、この世界を」

拓海は、泣きながら微笑んだように見えた。彼の輪郭がふわりと輝きを増す。そして、彼が預かっていた色が、世界へと解き放たれていった。

最初に還ってきたのは、拓海の想いが宿る「赤」だった。それはもう、不気味な血の色ではない。アトリエに置かれた林檎が艶やかな深紅を取り戻し、美咲の着ていたセーターが温かいワインレッドに染まる。次に、太陽のような「黄」と「橙」が溢れ出し、部屋の隅々まで柔らかな光で満たした。続いて、安らぎの「緑」が窓の外の木々に戻り、葉擦れの音が優しく聞こえてくる。

そして最後に、美咲が最初に失った「青」が還ってきた。アトリエの窓から見上げた空は、どこまでも澄み渡る、息を呑むような瑠璃色をしていた。まるで、生まれたての空のようだった。

世界は、元の色彩を取り戻した。いや、以前とは比べ物にならないほど、鮮やかで、尊く、愛おしいものに感じられた。失われたことで初めて知る、その価値。一つ一つの色が、弟との思い出と結びつき、美咲の胸を温かく満たしていく。弟の姿は、もうどこにもなかった。彼はすべての色を世界に還し、光の中へ溶けていったのだろう。

数日後、美咲は新しいキャンバスに向かっていた。迷いのない筆使いで、彼女は一枚の絵を描き始める。それは、雨上がりの丘の上に立つ、幼い自分と弟の姿。そして、二人が見上げる空には、世界中のすべての希望を集めたような、大きく鮮やかな七色の虹が架かっていた。

描き終えた絵を見つめる美咲の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。それはもう、赤くも黒くもない。光を受けてきらきらと輝く、透明な滴だった。世界の色は、誰かを愛し、その記憶を抱きしめて生きていく限り、決して失われることはない。美咲は、その涙と共に、静かに微笑んだ。

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