零度の心臓
第一章 氷の吐息
俺の指先は、いつも死人のように冷たい。
それは比喩ではない。俺、レイの体温は、周囲の温かい感情を糧にしている。幸福、愛情、歓喜――そういった陽だまりのような感情は、俺の皮膚に触れた瞬間、その熱を奪われ、俺自身の生命維持に使われる。そして、吸い尽くされた感情の抜け殻は、硝子細工のように美しい結晶となって、俺の体から静かにこぼれ落ちるのだ。
カラン、と乾いた音が床で響いた。見れば、足元に乳白色に輝く小さな結晶が転がっている。さっきすれ違った母子の、弾むような笑い声の残滓だろう。拾い上げた結晶は、氷のように冷たい。これが俺の呪いであり、孤独の証明だった。だから俺は、分厚いコートと手袋で常に自身を覆い、人との接触を病的なまでに避けて生きている。誰かの幸福を奪わなければ、俺は生きられない。その事実が、鉛のように心にのしかかっていた。
街の古い配水管が軋むような、不快な音が遠くで聞こえる。人々が囁き合う。「澱み(よどみ)」の発生だ。この世界では、人々の憎悪や絶望が凝り固まり、空間を歪ませて黒い靄のような実体となって現れる。あれに触れた者は、心を蝕まれ、負の感情を増幅させられるという。俺はコートの襟を立て、澱みから顔を背けるようにして、早足にその場を離れた。俺には関係のないことだ。俺が奪うのは、温かい感情だけなのだから。
第二章 歪んだ共鳴
異変に気づいたのは、数日後のことだった。俺の部屋に保管していた結晶の一つが、淡い光を放ち始めたのだ。それは、かつて病気の友を見舞った際に零れ落ちた、「友情」の結晶だった。光は明滅を繰り返し、まるで何かを指し示しているかのように、窓の外の一点を指している。
その光が指す先は、街外れの丘に立つ、廃墟と化した古い教会だった。かつては人々の祈りと希望が集まる場所だったが、今では澱みの巣窟として誰も近寄らない。胸騒ぎがした。恐怖よりも強い何かが、俺をその場所へと駆り立てていた。
夜陰に紛れて教会に足を踏み入れると、ひやりとした空気が肌を撫でた。ステンドグラスの割れ目から差し込む月光が、祭壇の前に揺らめく、一際濃い澱みを照らし出している。他の澱みのような、攻撃的な気配はない。それはただ、静かにそこに在るだけだった。
俺がポケットから光る結晶を取り出すと、澱みはゆらりとその形を変えた。まるで、結晶の光に惹きつけられるように。そして、俺が結晶を祭壇に置くと、澱みはさらに濃密になり、その中心に微かな人型のような輪郭が浮かび上がった。共鳴している。俺の結晶と、この澱みは、間違いなく引き合っていた。
第三章 形見の結晶
それから毎晩のように、俺は教会へ通った。澱みは俺を害そうとはせず、ただ俺が持参する結晶を待ちわびているようだった。俺は一つ、また一つと、様々な感情の結晶を祭壇に捧げた。家族の団欒、恋人たちの愛の囁き、子供の無邪気な喜び。結晶を吸収するたびに、澱みは少しずつその輪郭を鮮明にしていく。やがてそれは、おぼろげな少女の姿を形作った。
その姿に、俺は忘れていたはずの記憶の扉をこじ開けられた。
幼い頃、俺にはユキという名の妹がいた。生まれつき病弱で、ベッドから出られない彼女の幸福を、俺は誰よりも願っていた。毎日彼女の手を握り、面白い話をし、笑わせようと必死だった。
「お兄ちゃんの手、ひんやりしてて気持ちいい」
そう言って笑っていたユキは、いつからか笑わなくなった。感情の起伏が消え、人形のようにただ虚空を見つめるようになった。そしてある冬の朝、俺の手の中で冷たくなっていくユキの小さな手から、ぽろり、と一つだけ、陽光を閉じ込めたような温かい色の結晶がこぼれ落ちた。俺があの日までユキから吸い尽くしてきた、最後の「幸福」の欠片だった。
俺はコートの内ポケットに縫い付けた小さな袋から、その結晶を取り出した。他のどの結晶よりも温かく、優しい光を放っている。これを、あの澱みに見せたらどうなるのだろうか。
第四章 澱みの囁き
俺がユキの最後の結晶を祭壇に捧げた瞬間、教会を満たしていた空気が凍りついた。少女の形をしていた澱みが、激しく脈動し始める。それはもはや、ただの澱みではなかった。憎悪と悲しみ、そして何より、奪われた幸福を取り戻そうとする強烈な渇望が渦巻いていた。
「……かえして」
空間に、直接脳に響くような、か細い声が響いた。澱みはユキの姿を完璧に写し取り、その黒い瞳で俺を捉えていた。それは、感情を失った妹が最後に俺に向けた、あの空虚な眼差しと全く同じだった。
澱みは教会から溢れ出し、黒い触手を街へと伸ばし始めた。その瘴気に触れた人々は、次々と表情を失い、道端にうずくまっていく。街全体が、巨大な悲しみに飲み込まれていくようだった。俺がユキから奪った温かい感情が、彼女の死後に残された負の感情の残滓と結びつき、この巨大な澱みを生み出したのだ。ユキの澱みは俺を憎んでいるのではない。ただ、自分が失った温かい感情のすべてを、取り戻そうとしているだけなのだ。
俺のせいだ。俺が、この絶望を生み出した。
第五章 零度の抱擁
決断に、時間はかからなかった。
俺はこれまでに集めた全ての結晶を、大きな革袋に詰めて教会へと戻った。街を覆う澱みの中心、祭壇の前で俺を待つユキの残滓へと、まっすぐに歩み寄る。
「ユキ。ごめんな」
俺は袋を逆さにし、何百、何千という凍った感情の結晶を床にぶちまけた。色とりどりの光が乱反射し、教会は万華鏡のような空間に変わる。澱みは貪るようにその光を吸収していくが、その渇きが満たされる気配はない。
足りないのだ。抜け殻だけでは、本当の意味で心は満たされない。
ならば、俺自身がその器になるしかない。
俺はコートを脱ぎ捨て、手袋を外した。初めて、素肌を冷たい空気に晒す。そして、ゆっくりと両腕を広げ、ユキの形をした澱みへと歩み寄った。
「お兄ちゃんが、全部あげるよ」
澱みを、その冷たい中心を、力強く抱きしめた。俺の体は、これまでとは逆に、自らの内に溜め込んだ微かな熱と、結晶から吸収した膨大な感情のエネルギーを、澱みへと注ぎ込み始めた。俺の体温が、急速に失われていく。指先から感覚がなくなり、血液が凍りつくような痛みが全身を駆け巡った。
第六章 氷結の聖域
意識が遠のく中、腕の中の澱みが温かい光を放ち始めるのが見えた。憎悪に歪んでいたユキの顔が、ふっと和らぎ、幼い頃の穏やかな微笑みに変わる。
「……ありがとう、お兄ちゃん」
その声を聞いたのを最後に、俺の意識は完全に途絶えた。
世界から音が消え、色が消え、すべての感覚が零へと収束していく。
どれほどの時が経っただろうか。街を覆っていた黒い靄は、いつの間にか跡形もなく消え去っていた。人々はゆっくりと顔を上げ、何が起こったのか分からずに空を見上げている。
廃墟と化した教会には、静寂だけが戻っていた。祭壇の前、かつて澱みがあった場所には、一体の氷の彫像が立っていた。それは、両腕を広げ、何かを優しく抱きしめるような姿をしたレイその人だった。その表情は安らかで、まるで深い祈りを捧げているかのようだ。しかし、その瞳には何の光も宿っておらず、ただ永遠の静寂を映しているだけだった。
やがて、その氷像の指先から、一つ、また一つと、小さな光の粒が生まれ始めた。それは、これまでレイが生み出してきたどの結晶よりも美しく、純粋な輝きを放つ「凍った感情の結晶」だった。結晶は雪のようにひらひらと舞い、教会の床を埋め尽くしていく。澱みを鎮めた代償に、レイは、感情を失ったまま、無限に幸福の結晶を生み出し続ける存在へと変貌したのだ。
第七章 偽りの雪景色
あの忌まわしい澱みが消えた街には、時折、教会の方から美しい光の雪が舞い降りるようになった。人々はそれを「聖なる雪」と呼び、幸運のお守りとして手のひらで受け止める。その結晶に触れた者は、えもいわれぬ幸福感に包まれ、悩みや苦しみを一時的に忘れることができた。
だが、誰も気づいていない。
その「偽りの幸福」に触れ続けるうちに、人々は次第に、強く誰かを愛したり、心の底から悲しんだりすることができなくなっていることに。街は穏やかになった。争いごとは減り、誰もが薄氷の上を歩くような、静かで空虚な微笑みを浮かべている。
今日も、教会の氷像は静かに佇んでいる。
彼は、世界を救った英雄なのだろうか。それとも、より巧妙な呪いを世界に振りまく、新たな澱みとなったのだろうか。
答えを知る者は誰もいない。ただ、感情を失った世界に、美しくも冷たい雪が、静かに、静かに降り積もっていくだけだ。