忘却のレクイエム
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忘却のレクイエム

第一章 不協和音の始まり

静寂は、図書館の古書修復室に満ちる埃のように、いつもそこに積もっていた。俺、カイの仕事場だ。革の匂い、乾いたインクの香り、そして何世紀も前の紙が放つ微かな甘さが、俺の世界のすべてだった。指先で脆くなったページをなぞり、失われた文字の痕跡を辿る。それは、忘れられた物語に再び命を吹き込む、神聖な儀式にも似ていた。

その日も、静寂は完璧なはずだった。

だが、それは唐突に始まった。耳の奥深く、脳の芯を直接引っ掻くような、不快な旋律。軋むヴァイオリンと、調律の狂ったピアノが奏でる、歪んだメロディ。俺は思わず顔をしかめ、修復用の細い刷毛を取り落とした。

「……くそ」

低い呻きが漏れる。周囲の誰も、この音には気づかない。当たり前だ。この音は、俺にしか聞こえないのだから。それは死の前触れ。誰かの命が、この世界から間もなく消え去ることを告げる、不吉な葬送曲。

音の源を探るように、俺はゆっくりと顔を上げた。ガラス窓の向こう、貸出カウンターの奥で、白髪の館長が穏やかに微笑んでいる。彼が淹れる珈琲の香りが、ここまで漂ってくるようだった。だが、彼の輪郭をなぞるように、不協和音は不気味に絡みついている。時間差でやってくる死の予告。そのメロディは、あと数時間で彼の存在がこの世界から完全に消滅することを、俺だけに告げていた。

俺は目を閉じた。人々は死者を悼むことができない。死の瞬間、その人の記憶も記録も、愛された証も、憎まれた証も、すべてが『無かったこと』になる。喪失という概念すら、この世界には存在しないのだ。

ただ一人、俺を除いては。

第二章 消えゆく面影

翌朝、図書館の空気はどこか軽かった。昨日までそこにあったはずの重厚な何かが、綺麗に抜け落ちていた。

館長の姿はどこにもない。

貸出カウンターに立つ若い司書に、俺は尋ねてみた。「館長は?」と。彼女はきょとんとした顔で首を傾げた。「館長? この図書館にそんな役職はありませんよ」。彼女の瞳には、嘘や誤魔化しの色は一切ない。ただ純粋な無知だけが浮かんでいた。

そうだ、これがこの世界の法則。館長が存在したという事実そのものが、昨夜のうちに世界から摘み取られてしまったのだ。彼の名前が記されていたプレートも、長年愛用していた万年筆も、すべてが跡形もなく消えている。

俺だけが、昨日まで確かにそこにいた温厚な老人の面影を、胸の奥に刺さった棘のような痛みと共に覚えている。人々が当たり前のように享受する『忘却』という恩寵を、俺は持たない。

誰もいなくなった館長室を、俺は訪れた。埃一つない机の上。そこには、ぽつんと一つだけ、見慣れないものが置かれていた。手のひらに収まるほどの、小さな黒曜石の鏡。表面は磨き上げられているのに、俺の顔も、部屋の景色も、何も映し出すことはない。ただ、深淵のような漆黒が広がっているだけ。

これが、消えゆく者がこの世に残す、唯一の『痕跡』だった。

第三章 鏡の中の残滓

俺は黒曜石の鏡を、そっと手に取った。ひんやりとした感触が、指先から神経を伝って心臓を冷やす。

鏡を覗き込む。

漆黒の表面が、一瞬だけ水面のように揺らめいた。そこに映ったのは、歪んだ像。穏やかに目を細め、満足げに微笑む老人の顔だった。それは館長の『最後の感情』の残滓。彼は、自身の人生に満足して消えていったのだろうか。像はすぐに陽炎のように消え、鏡はただの黒い石に戻った。

自室に戻り、机の引き出しの奥から木箱を取り出す。中には、これまで俺が集めてきた十数個の黒曜石の鏡が、静かに並んでいた。幼い頃に姿を消した隣家の少年。優しくしてくれた花屋の老婆。喧嘩別れしたまま会えなくなった友人。誰も覚えていない彼らの最後の感情が、この黒い石の中に眠っている。

俺はなぜ、彼らを覚えているのだろう。なぜ、この鏡にだけ彼らの痕跡を見ることができるのだろう。

その時だった。

「カイさん、何してるの?」

背後からの声に、俺は弾かれたように木箱の蓋を閉めた。振り返ると、リナが立っていた。図書館にいつも本を借りに来る、明るい髪をした少女。彼女の屈託のない笑顔は、俺の澱んだ世界に差し込む、唯一の光のようだった。

「いや、何でもない。ただのガラクタだ」

「ふぅん? でも、なんだかとても大事そうにしてた」

リナは不思議そうに小首を傾げる。その無邪気な視線が、俺の孤独な心をちくりと刺した。

第四章 リナのメロディ

リナと過ごす時間は、奇妙な安らぎを俺に与えた。彼女は、俺が抱える世界の歪みなど知る由もなく、ただ楽しそうに本の感想を語り、街で見つけた面白いものを報告してくれた。彼女の隣にいる時だけ、俺は自分が呪われた存在であることを忘れられた。

この時間が、永遠に続けばいい。

そう、願ってしまったのが間違いだったのかもしれない。

ある晴れた午後、中庭のベンチでリナと並んで座っていた。彼女が笑うたびに、陽光を浴びた髪がきらきらと揺れる。その時だ。

聞こえてきた。

今まで聞いたどのメロディよりも、澄んでいて、悲しい音色。それはまるで、砕け散る寸前のガラス細工が奏でるような、繊細で儚い旋律だった。

全身の血が凍りつく。音は、間違いなく隣にいるリナから発せられていた。彼女の笑顔の輪郭を、その美しいメロディが、死の宣告として縁取っている。

「どうしたの、カイさん? 顔が真っ青だよ」

リナが心配そうに俺の顔を覗き込む。俺は何も答えられない。ただ、彼女の命の終わりを告げるレクイエムが、俺の頭の中で鳴り響いていた。絶望が、冷たい水のように足元から這い上がってくる。

第五章 世界の法則に抗って

嫌だ。

リナを死なせたくない。

彼女の存在を、この世界から消させはしない。

俺は衝動的にリナの手を掴んだ。

「行くぞ!」

「え、どこへ?」

戸惑う彼女を無理やり立たせ、俺は走り出した。理由など説明できない。ただ、このメロディから、彼女の運命から、一秒でも遠くへ逃げたかった。

街を抜け、丘を越え、人気のない森の奥へと俺たちは逃げ続けた。息が切れ、足がもつれても、俺はリナの手を離さなかった。メロディは、背後から追いかけてくる亡霊のように、少しずつ音量を増していく。

「カイさん、待って! 何から逃げてるの?」

リナが叫ぶ。俺は足を止め、荒い息をつきながら振り返った。

「……死からだ」

「死?」

彼女は意味が分からないという顔をしている。当然だ。この世界で、死は忘却と同義なのだから。

その時、リナがふと、何かを思い出したように呟いた。

「ねえ、カイさん。なんだか、ずっと昔から、あなたのことを知っている気がするの」

その言葉は、雷のように俺の脳天を撃ち抜いた。彼女が、俺を知っている? この、誰からも忘れ去られる世界の法則の中で?

第六章 最後の記憶の器

リナの言葉が、固く閉ざされていた俺の記憶の扉をこじ開けた。その瞬間、足元が崩れ、世界がぐらりと傾いだ。

違う。リナは俺を知っているのではない。

俺が、これまで消えていった全ての人々を覚えているように。

リナは俺を見つめ、悲しげに微笑んだ。

「もう、いっぱいなんだね。あなたの器」

彼女の言葉と共に、俺の脳裏に奔流のように記憶が流れ込んできた。館長の淹れた珈琲の味。隣家の少年と交わした約束。花屋の老婆がくれた一輪の菫。友人とのくだらない口論。そして、これまで俺が一度も会ったことのない、無数の人々の顔、声、喜び、悲しみ――。

俺は、世界の『最後の記憶の器』だった。

この世界は、死によって失われる存在を、完全に『無』にするために、定期的にリセットを繰り返している。だが、完全な『無』にするためには、一度すべての記憶を一つの場所に集め、飽和させ、そして器ごと消滅させる必要があった。俺こそが、そのための存在。

そしてリナは。彼女は、この世界が俺の器の容量を測るために生み出した、最も鮮烈で、最も美しい『記憶』そのものだったのだ。彼女との出会い、彼女への想い、その全てが、俺という器を満たす最後の一滴だった。

リナの身体が、足元から光の粒子となって、ゆっくりと崩れ始めていた。耳元のメロディが、クライマックスを迎え、そしてふっと静寂に変わる。

「ありがとう、カイ」

消えゆく彼女は、涙を浮かべながら微笑んだ。

「覚えていてくれて」

彼女が完全に消えた後、足元には一つ、黒曜石の鏡が残されていた。

第七章 無音のレクイエム

俺は震える手で、リナの鏡を拾い上げた。

漆黒の鏡面に映ったのは、感謝に満ちた、しかしどうしようもなく悲しげな少女の歪んだ笑顔だった。俺の胸が張り裂けそうになる。この感情を、俺は誰とも分かち合えない。

その時、俺自身の指先が、透けていることに気づいた。俺の身体もまた、限界に達したのだ。抱えきれなくなった膨大な記憶が、器から溢れ出し、世界の輪郭を溶かしていく。視界が急速に白く染まっていく。図書館も、森も、空も、すべてが記憶の奔流に飲み込まれ、『無』へと還っていく。

これが、俺の運命。これが、この世界の仕組み。

それでも。

(それでも、確かに君はここにいたんだ、リナ)

意識が薄れゆく中、俺は最後にリナの笑顔を思い浮かべた。忘れ去られるためだけの存在だったとしても、俺が覚えている限り、その存在は無意味ではなかったと信じたかった。

やがて、俺の意識も、抱えた全ての記憶と共に、完全な『無』へと消滅した。

……。

………。

果てしない白だけの世界。時間も空間も存在しない、真の『無』。

その静寂の中で。

どこかの街角で、一人の少女が、ふと空を見上げて耳を澄ませた。

「……なんだろう、この音……」

彼女の耳の奥で、微かに、歪んだメロディが鳴り響き始めていた。

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