沈黙の鏡、囁きの咎
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沈黙の鏡、囁きの咎

第一章 錆びた囁き

鏡夜(きょうや)は、息を殺して手鏡を覗き込んだ。ひんやりとした銀の縁が、汗ばんだ指先に食い込む。鏡面に映るのは彼自身の顔。だが、その白い頬には、彼のものではない痣が浮かんでいた。紫色の、まるで古い打撲痕のような不吉な染み。それは、路地の向かいで客引きをする娼婦の、間近に迫った死の兆候だった。

この世界では、言葉が質量を持つ。吐き出された瞬間に形を得て、空間に残留するのだ。愛の告白は微かな光の粒子となって漂い、感謝の言葉は温かい靄となって人を包む。だが、それ以上に多いのは、悪意の言葉だった。呪詛、嫉妬、憎悪。それらは腐敗したヘドロのように街の底に沈殿し、錆びた鉄のような臭気を放ちながら、不気味な『囁き』となって絶えず空気を震わせている。

鏡夜の持つこの古い手鏡だけが、他者の視界に潜む『死の兆候』を、鏡の中の自分を通して映し出した。娼婦が客の腕を取り、嬌声を上げた。その言葉の残滓が、黒い粘液のように彼女の口元から滴り落ちるのが鏡夜には見えた。彼はそっと目を伏せ、鏡を懐にしまう。途端に、鏡に映っていた痣が、疼くような微かな痛みと共に、彼自身の頬にも刻まれた。他人の死を覗くたび、その代償として彼の肉体は蝕まれていく。これが、彼に与えられた呪いだった。

街は常にざわめいている。物理的な喧騒ではない。蓄積された悪意が放つ、意味を失った音の澱。人々はその中で生まれ、慣れ、何も感じずに死んでいく。鏡夜だけが、その囁きの意味と、それが誰の死を誘っているのかを知っていた。彼はコートの襟を立て、腐臭の漂う路地を抜ける。背後で、囁きが一際大きく膨れ上がった。

第二章 言葉のない少女

言葉の残滓が最も濃密に渦巻くのは、廃棄された工場地区だった。そこは見捨てられた者たちの掃き溜めで、呪詛と怨嗟がコールタールのように地面にこびりついている。鏡夜がそこに足を運ぶのは、自らの呪われた能力の限界を試すためであり、同時に、このどうしようもない世界への自虐的な反抗でもあった。

その日、彼は異質な存在に出会った。腐敗した言葉の霧が立ち込める広場の中心に、一人の少女が座っていたのだ。年は十歳ほどだろうか。着古したワンピースを纏い、ただ虚空を見つめている。彼女の周囲だけ、まるで聖域のように空気が澄んでいた。囁きが彼女を避けるように途切れ、腐臭が和らいでいる。

鏡夜は、知らず懐の手鏡を握りしめていた。好奇心と、わずかな恐怖。彼はゆっくりと少女に近づき、鏡を構えた。彼女の死の兆候を見ようとしたのだ。

しかし、鏡面に映る自分の顔には、何の変調も現れなかった。傷ひとつない、ただ青ざめた青年がいるだけ。こんなことは初めてだった。

少女が、ふと顔を上げた。大きな瞳が、鏡夜と、彼が持つ手鏡を捉える。彼女は何も話さない。その唇からは、感謝も憎悪も、何の言葉も紡がれない。だからこそ、彼女の周りは清浄なのだ。鏡夜は息を呑んだ。この少女は、言葉を棄てたのか。それとも、最初から持たなかったのか。少女は立ち上がると、おずおずと鏡夜に近づき、その冷たい手鏡にそっと指で触れた。

第三章 集積する死

栞と名乗る(身振りでそう示した)その少女と過ごすようになってから、鏡夜の世界は少しだけ変わった。彼女は言葉を発しない。だが、その表情や仕草は、どんな雄弁な言葉よりも多くのことを伝えてきた。彼女の隣にいる時だけ、鏡夜の耳を苛む囁きは遠のき、微かな安らぎが訪れた。

だが、世界そのものは、確実に悪化の一途をたどっていた。

鏡夜が見る死の兆候に、奇妙な共通性が現れ始めたのだ。心臓発作で死ぬ老人。事故に遭う若者。病に倒れる子供。彼らの死の兆候は、どれも黒い槍のような形をしており、それがすべて同じ方角から飛来して体を貫いているように見えた。まるで、世界のどこか一点に、巨大な悪意の射出機でも据え付けられているかのようだ。

鏡夜は手鏡を覗く。鏡面には、世界に漂う言葉の残滓が、歪んだ文字となって無数に浮かび上がっては消えていく。その文字の流れが、最近になって明らかに一つの方向へと引き寄せられていることに気づいた。渦を巻いて、吸い込まれていく。

その先にあるのは、街外れの古い教会跡地。そこからは、もはや囁きと呼べないほどの、巨大な怨嗟の唸りが地鳴りのように響いてきていた。

世界の死と悪意が、一点に集おうとしている。

鏡夜は唇を噛んだ。栞が心配そうに彼の袖を引く。彼はその小さな手を握りしめ、決意を固めた。行かなければならない。この世界の歪みの中心へ。

第四章 囁きの震源地

教会跡地は、想像を絶する光景だった。腐敗した言葉の残滓が物理的な障壁となって渦巻き、呼吸するだけで肺が焼けるように痛む。空は憎悪の色に染まり、地面からは怨嗟の言葉が黒い茨のように突き出している。

その中心に、『それ』はあった。

無数の呪いの言葉が凝縮し、結晶化した巨大な黒い塊。脈動するかのように不気味な光を放ち、世界中の悪意を吸い寄せ続けている。あれが完成した時、世界は終わるのだろう。

鏡夜は震える手で鏡を構え、結晶体へと向けた。

鏡面に映った彼自身の顔に、これまでで最も強烈な死の兆候が浮かび上がった。心臓を、黒く輝く巨大な杭が貫いている。それは、一個人の死ではない。この世界そのものに訪れる、絶対的な終焉のビジョンだった。

全身を凄まじい痛みが襲い、鏡夜は膝から崩れ落ちた。

だが、その苦痛の中で、彼はある違和感に気づいた。

死の兆候が示す方角。悪意の言葉が吸い込まれる先。それは、目の前の結晶体ではない。もっと精密に、もっと正確に、たった一つの点を指している。

それは、あまりにも身近な場所だった。

「まさか……」

彼は喘ぎながら、手にした鏡を裏返した。

第五章 鏡の裏側

手鏡の裏面には、世界地図を模した微細な彫刻が施されていた。大陸が描かれ、海が波打つ、精巧な細工。そして、その地図の中心。全ての悪意の言葉が流れ着くべき一点に、小さな亀裂が走っていた。

その亀裂の形を、鏡夜は知っていた。

それは、彼が幼い日に初めて他者の死をこの鏡で見て、自身の体に最初の傷が刻まれた時と、全く同じ形をしていた。

理解が、稲妻のように脳を貫いた。

囁きの震源地は、あの黒い結晶体ではない。この手鏡そのものだ。

彼の能力が、世界の法則を歪めていたのだ。彼が他者の死を『観測』し、鏡がそれを映し出すたびに、世界は法則を『模倣』した。死と悪意を具現化させ、増幅させ、この鏡の裏側にある世界の縮図へと集積させていた。目の前の結晶体は、鏡から溢れ出した悪意が現実世界に染み出してできた、副産物に過ぎなかった。

世界を覆う腐敗と死の連鎖は、鏡夜、ただ一人の存在から始まっていた。

彼は世界の病巣そのものだったのだ。絶望が、彼の心を黒く塗りつぶしていく。

第六章 沈黙の選択

黒い結晶体が最後の脈動を始める。世界の終焉が、もうすぐそこに迫っていた。

鏡夜は、砕け散りそうな心で立ち尽くす。この連鎖を断ち切る方法は一つしかない。この鏡を破壊すること。それは、鏡と一体化した彼自身の存在が消滅することを意味していた。

その時だった。

栞が、ずっと沈黙を守っていた唇を震わせ、声にならない叫びを上げた。

「あ……」

それは音にすらならなかったが、確かに彼女が発した最初の『言葉』だった。彼女は鏡夜の腕に縋りつき、必死に首を横に振る。その瞳から大粒の涙が溢れ、彼の手に落ちた。

行かないで。

その言葉だけは、質量を持たず、ただ温かい雫となって鏡夜の心に染み渡った。

彼は、自分でも驚くほど穏やかな気持ちになっていた。この呪われた生の中で、たった一つ、意味のあるものを見つけられた。それで充分だった。

鏡夜は栞に向かって、生まれて初めて心からの微笑みを浮かべた。

「ありがとう」

その言葉は、もう世界を汚すことはない。

彼は栞の手をそっと離すと、震源地である手鏡を高く、高く掲げた。そして、教会の硬い石畳めがけて、力一杯に振り下ろした。

第七章 無音の世界で

鏡が砕け散る音は、しなかった。

ただ、世界から一切の音が消えた。

耳を塞いでいた囁きが止み、腐臭が消え、言葉の残滓が光の粒子となって霧散していく。鏡夜の身体もまた、足元からゆっくりと透き通り、光の塵となって風に溶けていった。彼が最後に発した「ありがとう」という言葉は、もはや質量を持つことなく、ただ優しい響きとして栞の記憶にだけ刻まれた。

世界を覆っていた悪意は浄化された。言葉は物理的な力を失い、かつてのように、ただの意思を伝えるための記号へと戻った。世界は救われ、そして、完全な沈黙に包まれた。

栞は、砕けた鏡の破片を一つ、そっと拾い上げた。もうそこには、何も映らない。ただ、彼の温もりが残っているかのような、ひんやりとした感触だけがあった。

彼女は空を見上げる。言葉の重さから解放された、どこまでも青い空。

この静かすぎる世界で、これからどんな言葉を紡いでいけばいいのだろう。

あるいは、もう言葉などなくとも、大切なものは伝えられるのかもしれない。

栞は、鏡の破片を胸に抱きしめ、静かに涙を流した。その涙に、音はなかった。

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