空白のアルゴリズム
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空白のアルゴリズム

第一章 ノイズの教室

僕、高槻ユキの世界は、絶え間ないノイズで満たされている。

眼前で繰り広げられる数学教師の講義は、僕の網膜の上で意味不明な記号の洪水と化す。黒板に描かれる流麗な数式は歪み、ねじ切れ、蠢く黒い蟲の群れのようにしか見えない。クラスメイトたちの思考の断片が、受信に失敗したラジオのように頭の中でさざめき、静電気のような耳鳴りを伴って意識を蝕んでいく。これが僕の能力――他人が習得した『知識』が、理解不能な『文字化け』として知覚される呪いだった。

この特別先進学園都市では、『知識』こそが全てだ。生徒たちは習得した学問をエネルギーに変換し、物理現象を自在に操る。歴史学の知識は過去の情景をホログラムとして再現し、化学式は虚空から物質を精製する。具現化される知識の精度と規模が個人の評価を決定し、未来を左右する。

「――以上より、この空間座標に純粋エーテル結晶を生成する。各自、演算を開始せよ」

教師の声が、僕の脳内で反響するノイズの合間を縫って届く。周囲の生徒たちが一斉に目を閉じ、集中を高める。やがて、彼らの机上にかすかな光が生まれ、徐々に複雑な幾何学模様を形成していく。それは彼らの脳内にある数学の知識が、この世界の法則と共鳴している証だった。光は次第に輝きを増し、寸分の狂いもない美しい結晶体へと姿を変えていく。

だが、僕の目にはその『完璧』が異質に映った。どの結晶にも、中心部に奇妙な『歪み』があった。それはまるで、完璧な球体からごっそりと一部が抉り取られたような、不自然な空洞だった。

特に、生徒会長である東堂アキラの結晶は圧巻だった。彼の作り出す光は他の誰よりも強く、清らかで、その輝きは教室の空気を震わせるほどだった。しかし、その完璧さゆえに、僕にだけ見える『空白』は、他の誰のものよりも大きく、暗く、まるで全てを吸い込む虚無のように口を開けていた。

僕には、知識を具現化する力がない。他人の知識が理解できないのだから当然だ。結果、僕は学園の最底辺。『ノイズ』と揶揄され、誰からも相手にされなかった。自分の思考だけが、この狂った世界で唯一、文字化けせずに存在する、僕だけの聖域だった。

第二章 欠けたる完璧

放課後の廊下で、僕は東堂アキラを呼び止めた。周囲の生徒たちが、最底辺がトップに声をかけるという異常事態に息を呑むのが分かった。冷たい金属のような空気が肌を刺す。

「東堂先輩」

振り向いたアキラの瞳は、絶対零度の湖面のように静かだった。彼の言葉は、常に正確な知識に裏打ちされている。だからこそ、僕の脳内では最も激しい文字化けの嵐を引き起こす。

「縺薙s縺ォ縺。縺ッ」――用件は、何かな。無能君。

彼の思考が、ガラスの破片のように僕の意識に突き刺さる。

「先輩の具現化する知識……あれは、完璧じゃない」

アキラの眉が微かに動いた。ほんの少しの感情の揺らぎが、僕の脳内のノイズをさらに加速させる。

「何を言っている? 私の演算精度は学園トップだと、システムが証明している」

「でも、見えませんか。あなたの作り出す光の中心にある、あの大きな『空白』が」

アキラは僕を憐れむような目で見つめた。彼の背後から、彼を崇拝する生徒たちの囁き声が聞こえる。僕にはそれらが全て、意味をなさない音の羅列にしか聞こえない。

「それは君の脳が見せる幻覚だ、高槻君。不完全な思考回路が生み出すバグに過ぎない。完璧な知識こそが、我々を迷いから解放し、絶対的な幸福へと導く唯一の道だ。そこに欠落など、存在するはずがない」

彼の声は揺るぎない信念に満ちていた。しかし、その完璧な論理の響きは、僕にはどこか空虚に聞こえた。まるで、最も重要な部品が欠けたまま動き続けている、美しい機械のようだった。僕は確信していた。あの『空白』には、この世界の根幹を揺るがす秘密が隠されている、と。

第三章 忘れられた言葉の墓場

『空白』の謎を追う僕がたどり着いたのは、学園の地下深くに存在する古文書館だった。最新のデジタル知識体系から外れた、非効率で曖昧とされた紙の書物が眠る場所。生徒からは『忘れられた言葉の墓場』と呼ばれ、誰も寄り付かない。

ひんやりとした空気が頬を撫で、古紙とインクの匂いが鼻をつく。僕の能力は、他人が「習得した」知識に反応する。ここに眠る、誰からも忘れられた知識は、僕にとって唯一安らげる場所だった。文字は文字として、僕の目に映った。

僕は、学園の創設に関する記録を漁った。何日も、何夜も。そして、ある埃を被ったファイルの中に、一枚の古い設計図を見つけた。それは、この学園都市の知識具現化システムの初期構想図だった。そこに、震えるような文字で、走り書きが残されていた。

『人類の過ちを繰り返さぬために。我々は知識から「毒」を抜かねばならない。不確定要素――自由意志、矛盾、偶発性。これらは世界を混沌に陥れるバグだ。我々は完璧な知の庭園を築き、人類を永遠の安定に導く』

背筋が凍った。この学園は、巨大な濾過装置だったのだ。人間から、人間らしさとも言える『不確定な知識』を排除するための。設計図の片隅に、小さな文字で記された単語が目に飛び込んできた。

『知識の保管庫。原初の混沌を封印せし場所。ゼロの石碑と共に』

ゼロの石碑。その言葉を聞いた瞬間、僕の脳裏を激しいノイズが駆け巡った。それは、僕をこの場所へと導いた、運命の響きのように聞こえた。

第四章 ゼロの囁き

『知識の保管庫』は、学園の中枢、立ち入りが厳しく禁じられた聖域だった。純粋な知識エネルギーで構築されたセキュリティシステムが、侵入者を阻む。完璧な論理で組まれた光の壁。通常なら、誰も突破できない。

だが、僕は違う。

僕は光の壁の前に立ち、目を閉じた。僕の能力は、完璧な知識をノイズとして認識する。ならば、その逆も可能なはずだ。僕自身の思考――この世界で唯一文字化けしない純粋な思考――を使い、完璧なシステムの中に、意図的に『ノイズ』を発生させる。

「もし、この壁が存在しなかったら?」

僕がそう思考した瞬間、脳内に閃光が走った。完璧な論理体系に、あり得ない『仮定』という名のウイルスが打ち込まれる。光の壁が激しく明滅し、悲鳴のような高周波を上げた。システムが僕という『バグ』を認識できずに混乱している。その一瞬の隙間を、僕は駆け抜けた。

保管庫の最深部。空気さえも凍てついたような静寂の中に、それはあった。

巨大な、黒曜石のような一枚岩。『ゼロの石碑』。

表面には無数の傷が刻まれているだけで、他の生徒には何も読み取れないだろう。しかし、僕の目には、その全ての傷が、灼けつくような光を放つ『文字化け』として映った。

石碑にそっと指を触れる。

その瞬間、宇宙の始まりから終わりまでの全てが、僕の脳内になだれ込んできた。

戦争。憎悪。愛。絶望。歓喜。矛盾。裏切り。そして、無限の可能性を秘めた『自由』。それは学園が排除した、人間そのものの混沌とした知識の奔流だった。僕の能力は、この原初の知識の残滓を認識するための、いわば受信機だったのだ。

「そこまでだ、バグ」

冷たい声が響いた。振り返ると、そこに東堂アキラと教師たちが立っていた。彼らの目は、システムの異常をきたした機械を見るように、何の感情も映していなかった。

第五章 空白の真実

「お前は、世界の安定を乱す異物だ。ここで排除する」

アキラが右手を掲げると、周囲の空間が彼の知識によって再構築され始めた。寸分の狂いもない、完璧な秩序の結晶格子が僕を閉じ込めていく。逃げ場はない。だが、僕はもう以前の僕ではなかった。

石碑から流れ込んだ混沌の知識が、僕の中で渦巻いていた。

「違う!」と僕は叫んだ。「あんたたちこそが不完全だ! その完璧さには、『問い』がない! 『迷い』がない! だから、あんたたちの知識には『空白』が生まれるんだ!」

僕は石碑から得た『ノイズ』――不確定な知識を、アキラの完璧な空間に向けて放った。それは、問いかける力。「なぜ?」「もしも?」という、この世界が失った根源的な疑問の力。

僕の放ったノイズは、アキラの作り上げた結晶格子に触れた瞬間、激しい火花を散らした。完璧な秩序が、たった一つの『問い』によって軋みを上げる。アキラの具現化物に刻まれた巨大な『空白』が、内側からこじ開けられるように脈動し始めた。

「やめろ……!」

アキラの顔から初めて血の気が引いた。彼の完璧な知識が、僕の混沌によって汚染されていく。『空白』から溢れ出したのは、排除されたはずの感情の奔流だった。もし父の期待に応えられなかったら? もし違う道を選んでいたら? 無数の『もしも』がアキラを苛み、彼の精神を根底から揺さぶった。

結晶格子が砕け散る。アキラは膝から崩れ落ち、初めて知る『混乱』という感情に喘いだ。

その時、学園全体がけたたましい警報音を響かせた。システムが、僕という存在を世界そのものに対する脅威と判断し、最終排除シークエンスを開始したのだ。

第六章 未完成のシンフォニア

僕の前に、二つの道が示された。

石碑の力で、この管理された知識社会を完全に破壊し、世界を原初の混沌に戻すか。

あるいは、僕自身がシステムに排除され、偽りの安定を守るか。

僕は、どちらも選ばなかった。

僕は天を仰ぎ、両手を広げた。右の手には石碑から受け継いだ、熱く脈打つ混沌の知識を。左の手には、この学園で唯一僕が持っていた、文字化けしない僕自身の静かな思考を。

そして、二つを胸の前で合わせた。

破壊でもなく、服従でもない。創造だ。

完璧な秩序と、無限の混沌を融合させる。それは矛盾を抱え、時に間違い、決して完璧ではない、新しい世界のアルゴリズム。

僕の身体から、虹色の光が溢れ出した。文字化けした激しい光と、整然とした静かな光が螺旋を描きながら絡み合い、一つの巨大なシンフォニアとなって学園都市全体を包み込んでいく。警報音が止み、張り詰めていた空気が、ふっと和らぐ。

生徒たちが具現化していた完璧な結晶に、微かな『揺らぎ』が生まれた。ある結晶は暖かなオレンジ色を帯び、ある結晶は悲しげな青色に染まった。それは、彼らが取り戻した感情の色、個性の色だった。

膝をついたままのアキラが、呆然と自分の手のひらを見つめていた。そこには、不格好で、少し歪んだ、しかし確かな温もりを持つ小さな光が、心臓のように優しく明滅していた。彼の頬を、一筋の涙が伝った。

世界はもう、完璧ではない。これから人々は迷い、悩み、間違うだろう。安定と引き換えに、僕たちは計り知れない不安を手に入れたのかもしれない。

だけど。

僕は、ノイズに満ちた空を見上げた。そこには、無限の『もしも』が星のように煌めいていた。不完全で、どこまでも人間らしい世界の、始まりの空だった。

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