沈黙のソノリティ

沈黙のソノリティ

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第一章 空白の五線譜

僕が通う私立奏ヶ峰(かながみね)学園には、一つの絶対的な校則が存在する。卒業までに、全生徒が『自分だけの音』を見つけ、それを提出すること。それは楽器の音色でも、自然界の音でも、あるいは概念的な響きでも構わない。しかし、それを見つけられない者は"無響(むきょう)"と呼ばれ、卒業資格を剥奪される。この学園において、音とは存在証明そのものだった。

僕、水瀬響(みなせひびき)は、その"無響"になる寸前の高校三年生だった。皮肉な名前に生まれついた僕は、誰よりも音に執着し、誰よりも音から見放されていた。音楽室のピアノ、美術室の喧騒、図書館のページをめくる乾いた音、雨が窓を叩くリズム。ありとあらゆる音に耳を澄ませてきたが、どれも僕の心を震わせる『自分だけの音』にはならなかった。周囲の友人たちが「風が木々を揺らすハミングを見つけた」「恋人の寝息こそが僕の音だ」と誇らしげに語るたび、僕の心臓は冷たい石のように沈んでいった。

焦燥が僕を支配していた。まるで自分だけが色のない世界を歩いているような感覚。そんな僕にとって、唯一の光であり、最も深い絶望の源泉でもある存在がいた。

三年生の先輩、月読凪(つくよみ なぎ)。

彼の『音』は、学園の伝説だった。『静寂のプレリュード』と名付けられたその音は、聞く者すべての心を洗い、至上の安らぎを与えると言われていた。誰もが彼の音を崇拝し、神格化していた。しかし、僕にはそれが理解できなかった。何度か彼の「演奏」を聴く機会があったが、僕の耳には何も届かなかったのだ。ただ、張り詰めたような静寂がそこにあるだけ。他の生徒たちが恍惚とした表情で涙を流す中、僕だけが取り残される。僕には、あの完璧な音を享受する資格すらないのだ。そう思うと、胸が張り裂けそうだった。

卒業を間近に控えたある日の放課後、僕は屋上のフェンスに寄りかかり、夕暮れの街を見下ろしていた。街は無数の音で満ちている。車のクラクション、雑踏、遠くのサイレン。だが、そのどれもが僕の中を通り過ぎていくだけだ。

「ここが、僕の終着駅なのだろうか」

ぽつりと呟いた言葉は、風にかき消された。空白の五線譜のような僕の人生に、最初の音符が記されることは、もうないのかもしれない。

第二章 探求と静寂

自分の音を見つけるため、僕はさらに必死になった。古いレコード店で埃をかぶったジャズを聴き、夜の森に分け入って梟の鳴き声に耳を澄ませ、始発の電車に揺られてレールの継ぎ目が刻むリズムを数えた。しかし、心に響くものは何一つなかった。探せば探すほど、求める音は遠ざかっていくようだった。まるで、僕という存在が音を拒絶しているかのように。

そんな日々の中、僕は無意識に月読凪の姿を探すようになっていた。彼の秘密を、彼の音の本質を知ることができれば、僕もこの泥沼から抜け出せるかもしれない。淡い期待を抱いて。

凪先輩は、いつも一人だった。中庭のベンチで、西日が差し込む図書室の隅で、彼はいつも静かに本を読んでいた。彼の周りだけ、時間の流れが緩やかであるかのように、不可侵の空気が漂っている。その姿は孤高で、あまりに美しかった。生徒たちは遠巻きに彼を眺め、彼の『静寂のプレリュード』について囁き合うだけで、誰も軽々しく彼に話しかけようとはしなかった。

ある雨の日、僕は図書室で彼を見つけた。窓の外では、雨がガラスを叩き、一つの巨大なノイズとなって世界を包んでいる。しかし、凪先輩の周りだけは、その音さえも届かない聖域のように静まり返っていた。僕は、何かに突き動かされるように彼の隣の席に座った。心臓が早鐘を打つ。

「あの……月読先輩」

震える声で呼びかけると、彼はゆっくりと顔を上げた。色素の薄い瞳が、僕を真っ直ぐに見つめる。吸い込まれそうな、深い、深い瞳だった。

「どうすれば、先輩のような……完璧な音を見つけられますか」

我ながら、あまりに愚かで、直接的な質問だった。しかし、凪先輩は眉一つ動かさなかった。彼は小さく微笑むと、持っていた文庫本を閉じ、その表紙を指でそっとなぞった。

「水瀬くん、だったかな」

彼の声は、囁くように穏やかだった。

「君は、探しすぎているのかもしれないね」

それだけ言うと、彼は再び視線を本に戻した。突き放されたわけではない。だが、その言葉はあまりに抽象的で、僕の混乱を深めるだけだった。探しすぎている? 探さなければ、見つかるはずがないじゃないか。

その日から、僕は彼の言葉の意味を考え続けた。だが、答えは見つからない。そして、学園最後のイベントであり、卒業生たちが己の音を披露する最大の舞台、『調律祭』の日がやってきた。僕には披露すべき音など、何一つないままに。

第三章 静寂のプレリュード

調律祭の夜。講堂は熱気に満ちていた。卒業生たちが次々と壇上に上がり、誇らしげに自分の音を披露していく。ある者はバイオリンで切ないメロディを奏で、ある者は自ら録音したという嵐の海の轟音を響かせた。聴衆はそれに拍手を送り、賞賛の声を上げる。僕は客席の隅で、膝の上で固く拳を握りしめていた。疎外感と自己嫌悪で、吐き気がした。

そして、ついにプログラムの最後、月読凪の番が来た。司会者が彼の名前を告げると、会場は水を打ったように静まり返った。誰もが伝説の『静寂のプレリュード』を聴こうと、息を殺して壇上を見つめている。

僕は、衝動的に席を立った。このまま客席で無力感に苛まれるのは耐えられなかった。彼の音の正体を、この目で見届けてやる。僕は関係者用の通路を駆け抜け、舞台の袖へと忍び込んだ。

ステージの中央には、一台のグランドピアノと、複雑な音響機材が設置されている。そこに、月読凪が静かな足取りで現れた。彼は深く一礼すると、ピアノの前に座る。しかし、鍵盤には触れない。ただ目を閉じ、じっと動かない。

機材から音が出ているわけでもない。ピアノが鳴っているわけでもない。それなのに、客席からは嗚咽や、感嘆のため息が漏れ聞こえてくる。どうなっているんだ。僕の頭は混乱の極みにあった。

その時、舞台袖の暗がりに、もう一人、凪先輩を見守る人物がいることに気づいた。学園の音楽教師、高城先生だ。彼は僕の存在に気づくと、驚いた顔をしたが、すぐに「静かに」と人差し指を口に当てた。

パフォーマンスが終わると、嵐のような拍手が会場を包んだ。凪先輩は再び深く礼をし、静かに舞台袖へと戻ってきた。その表情は、達成感とも安堵ともつかない、不思議なほど穏やかなものだった。

「……先生、一体どういうことなんですか。何も、音なんて」

僕が掠れた声で問いかけると、高城先生は悲しげに微笑んだ。

「君にも、聞こえなかったか。そうだろうな。君は、純粋すぎる」

そして、僕の目の前で、信じがたい光景が繰り広げられた。高城先生が、戻ってきた凪先輩に向かって、流暢な手話で語りかけ始めたのだ。『今日も素晴らしかったよ、凪』。

凪先輩もまた、慣れた手つきで手話を返した。『ありがとうございます。皆さんの心が、僕には見えました』。

僕の思考は完全に停止した。手話……? なぜ。まさか。

凪先輩が、僕の方を向いた。そして、僕が彼の言葉を読めないとわかると、懐からメモ帳を取り出し、ペンを走らせた。

『驚かせてごめん。僕は、生まれた時から、音が聞こえないんだ』

全身の血が逆流するような衝撃。月読凪は、音が聞こえない。学園一の音の使い手と崇められていた彼が、完全な沈黙の世界に生きていた。

『静寂のプレリュード』。その正体は、文字通りの『静寂』だったのだ。彼の周りに満ちていたのは、彼の内なる沈黙そのもの。人々は、彼の完璧なまでの静寂という真っ白なキャンバスに、自分たちが最も聞きたいと願う理想の音、救いの響きを勝手に投影し、それに感動していたのだ。

凪先輩は、もう一枚メモを書いた。

『僕の音は、何もないこと。でも、何もないからこそ、誰かの心を映す鏡になれる。君が探し求めていた完璧な音なんて、本当はどこにもないんだよ。あるのは、それぞれの心の中だけだ』

価値観が、世界が、足元から崩れ落ちていく。僕が焦がれ、嫉妬し、追い求めてきた完璧な『音』は、壮大な幻想だった。僕たちは皆、空っぽの器に、自分勝手な祈りを注ぎ込んでいただけだったのだ。

第四章 未完成のレゾナンス

調律祭の夜を境に、僕の世界から焦りが消えた。まるで長年まとわりついていた熱が、すっと引いていくように。月読凪が示した真実は、僕を根底から揺さぶったが、同時に解放してもくれた。完璧な音などない。その事実は、不完全な僕にとって、何よりの救いだった。

僕は、自分の音を探すのをやめた。代わりに、ただ耳を澄ませるようになった。自分の内側にある音に。それは、規則正しくも不規則に脈打つ心臓の鼓動。浅くなったり深くなったりする呼吸の音。不安な時に指先が微かに震える、衣擦れの音。それらは決して美しくも、完璧でもない。むしろ、不協和音だらけの、生々しい雑音の集合体だ。でも、紛れもなく、それは僕だけの音だった。

そして、卒業式の日が来た。

結局、僕は『自分だけの音』を、一つの作品として提出することはできなかった。卒業資格を失うことも覚悟していた。だが、卒業生代表の挨拶に立った僕は、マイクの前で目を閉じた。

ざわめく体育館。友人たちの囁き声、教師たちの咳払い、窓の外を吹き抜ける風の音。そのすべてが僕の耳に届く。僕は、何も語らず、何も演奏しなかった。ただ、そこに立ち、自分の中に響く不完全な音たちを、ありのままに感じていた。

それは凪先輩の『静寂のプレリュード』とは違う。完成された沈黙ではなく、生きている故の混沌。未完成な存在が奏でる、頼りないレゾナンス(共鳴)。

数分が永遠のように感じられた。やがて、客席から戸惑いの声が上がり始めた、その時だった。一筋の涙が、僕の頬を伝った。それは、完璧になれない自分を、ようやく許すことができた涙だった。

その瞬間、体育館の空気が変わった。僕の沈黙と、その中に含まれた微かな生命の響きに、何人かが気づき始めたのだ。彼らは、僕の中に完璧な音を投影するのではなく、僕の不完全さそのものに、何かを感じ取ってくれたようだった。拍手はまばらだった。しかし、その一つ一つが、僕の心に温かく染み渡った。

卒業後、僕は音響の専門学校に進んだ。完璧な音を創り出すためではない。世界に溢れる無数の不完全な音を、一つ一つ丁寧に拾い上げ、そのありのままの響きを誰かに届けるために。

今、僕は都会の交差点の真ん中に立っている。目を閉じれば、様々な音が洪水のように押し寄せる。車のエンジン音、人々の話し声、遠くの工事の騒音、自分の呼吸音。どれ一つとして完璧なものはない。だが、この混沌とした不協和音こそが、僕たちが生きている世界の、紛れもないサウンドトラックなのだ。

もう、完璧な一つの音を探す必要はない。世界は、無数の未完成な音で、こんなにも豊かに響いているのだから。僕はゆっくりと目を開け、その響きの中へと、新たな一歩を踏み出した。

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