君が遺したプレリュード

君が遺したプレリュード

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第一章 月下のピアニスト

高校二年の春、水嶋湊(みずしま みなと)にとって、世界は色褪せたモノクロームのフィルムのようだった。教室の窓から見える、目に痛いほどの青い空も、賑やかなクラスメイトたちの笑い声も、すべてが薄い膜を隔てた向こう側の出来事。湊は自らその膜の内側に閉じこもり、誰とも深く関わることなく、ただ息を潜めるように日々をやり過ごしていた。

そんな湊の耳に、奇妙な噂が届いたのは、初夏の気配が漂い始めた頃だった。

「聞いた? 旧校舎の音楽室、夜になるとピアノの音がするんだって」

「幽霊の仕業じゃない? あそこ、もう何年も使われてないでしょ」

ありふれた学園の怪談。湊は興味のないふりをしてイヤホンを耳に押し込んだが、その噂は心の隅に小さな棘のように引っかかった。ピアノ、という単語が、蓋をしたはずの記憶の箱を微かに揺さぶったからだ。

その夜、湊は月の光に導かれるように、寮を抜け出していた。目指すのは、蔦の絡まる旧校舎。ぎしり、と軋む床を踏みしめ、埃っぽい廊下を進む。そして、一番奥にある音楽室の前に立った時、確かに聞こえてきたのだ。隙間から漏れ出る、あまりにも澄んだピアノの旋律を。

それは、悲しいほどに美しく、どこか切実な祈りのような音色だった。湊は吸い寄せられるように、そっとドアノブに手をかける。鍵はかかっていなかった。軋む音に息を殺しながら中を覗くと、月明かりが差し込む部屋の中央で、グランドピアノに向かう一人の少女の背中が見えた。セーラー服の白い襟が、闇の中で浮かび上がっている。

彼女の指が鍵盤の上を舞うたび、星屑のような音が空間に満ちていく。湊は呼吸も忘れ、その演奏に聴き入っていた。しかし、曲がふと途切れた瞬間、少女は弾かれたように振り返った。月光に照らされたその顔は、息を呑むほど整っていたが、それ以上に、驚きと怯えに彩られた瞳が湊を射抜いた。

「……誰?」

か細い声が響く。しかし、湊が何かを答える前に、彼女は椅子から立ち上がると、湊の脇をすり抜け、あっという間に廊下の闇に消えてしまった。

残されたのは、静寂と、ピアノの弦が残した微かな余韻、そして湊の心に灯った、消すことのできない強い好奇心の炎だけだった。あの日以来、湊の世界で、何かが確かに変わり始めていた。

第二章 言葉のない対話

翌日から、湊は無意識に彼女の姿を探していた。月光の下で見た儚い横顔。同級生だろうか。しかし、全校生徒の顔を思い浮かべても、あの少女は見当たらない。教室でそれとなく尋ねてみても、誰も心当たりがないという。まるで、最初から存在しない人間のように。まさか、本当に幽霊だったのだろうか。

その考えを振り払うように、湊は再び夜の音楽室へ向かった。ドアを開けると、彼女はいた。昨日と同じように、月明かりを浴びてピアノを弾いている。湊の存在に気づいているはずなのに、彼女は振り返らない。ただ、ひたすらに鍵盤と向き合っていた。

その日から、二人の奇妙な対話が始まった。湊は壁に寄りかかって彼女の演奏を聴き、彼女は湊がいることを知りながら、黙ってピアノを弾き続ける。言葉は一つも交わされない。交わされるのは、彼女が紡ぐ音と、それを受け止める湊の沈黙だけ。

彼女が奏でる曲は、いつも同じだった。胸を締め付けるような美しいメロディだが、決まって同じ箇所で途切れ、冒頭に戻る。まるで完成されていない、永遠に彷徨う旋律のようだった。

その音を聴くたび、湊の指先が疼いた。かつて、自分もあの鍵盤の上にすべてを懸けていた。コンクールの大きな舞台、刺すような照明、審査員の冷たい視線。頭が真っ白になり、指が動かなくなったあの日の絶望が、トラウマとして心の底にこびりついている。以来、湊はピアノに触れることを自ら禁じていた。

だが、彼女の音は、その固く閉ざした扉を内側から叩く。もっと聴きたい。もっと知りたい。そして、あの未完成の旋律の先を、この手で確かめてみたい。そんな衝動が、湊の中で日に日に大きくなっていった。彼女はいったい何者で、何を想ってあの曲を弾き続けているのだろう。湊は、その謎の答えを見つけずにはいられなくなっていた。

第三章 偽りのレクイエム

文化祭の準備が始まり、校内が浮き足立った空気に包まれる中、湊は一人、図書室の片隅で古い卒業アルバムをめくっていた。彼女の手がかりは、ここしかない。何かに憑かれたようにページをめくり続け、そして、ついに見つけたのだ。

『月島 響(つきしま ひびき)』

写真の中の少女は、間違いなく夜の音楽室で会った彼女だった。しかし、湊の心臓は喜びではなく、冷たい予感に凍りついた。そのアルバムは、今から三年前のものだったのだ。添えられた文集には、彼女が病気療養のため、二年の途中で休学したと記されていた。

震える手で学校の記録をさらに調べる。そして、湊は決定的な事実に行き着いた。月島響は、二年前の秋、その短い生涯を終えていた。

では、毎晩ピアノを弾いていた彼女は、一体誰なんだ?

混乱する湊の脳裏に、卒業アルバムのもう一つの写真が浮かび上がった。響の隣で、太陽のように笑う少女。その顔には見覚えがあった。湊のクラスメイトで、いつも輪の中心にいる明るく快活な女子、相沢楓(あいざわ かえで)だった。

放課後、湊は誰もいない教室で楓を待ち伏せた。

「相沢さん。君が、月島響さんの親友だったんだね」

その名前を聞いた瞬間、楓の顔からいつもの笑顔が消えた。観念したように、彼女は静かに頷いた。

「旧校舎のピアノ…弾いてるの、君なんだろ」

楓の瞳から、大粒の涙が零れ落ちた。そして、堰を切ったようにすべてを語り始めた。

響と楓は、幼い頃からの親友だった。響は天才的なピアノの才能を持ち、いつも自作の曲を楓に聴かせてくれたという。そして、高校二年の文化祭で、二人で連弾を披露する約束をしていた。響が作りかけの、あの未完成の曲で。

しかし、響の病状は悪化し、文化祭を待たずにこの世を去った。

「誰も…誰も、響のことを覚えてない。時間が経って、先生も生徒も入れ替わって、あの子がここにいたことさえ、忘れられていくのが怖かった」

楓は声を詰まらせた。

「だから、私だけでも響のことを覚えていたくて。あの子の夢だった文化祭のステージに、あの子の曲を届けたくて…! 私が響になれば、あの子はずっとここにいられると思ったの」

響の制服を着て、彼女になりきり、彼女が遺した未完成の曲を弾き続ける。それは、親友を失った少女が捧げる、痛々しくも美しい、偽りの鎮魂歌(レクイエム)だったのだ。

真実の重みに、湊は打ちのめされた。自分が抱えていたピアノへの挫折感など、楓の深い喪失と愛情に比べれば、あまりにも些細で自己満足な感傷に思えた。他者を拒絶し、自分の殻に閉じこもっていた自分が、ひどく恥ずかしかった。湊のモノクロームの世界が、楓の涙によって、鮮烈な色を持って揺らぎ始めていた。

第四章 君と奏でるプレリュード

数日後、湊は再び夜の音楽室のドアを開けた。そこにいたのは、響の制服を着た楓だった。

「一人で響になるなよ」

湊は静かに言った。楓が驚いて顔を上げる。

「俺にも、手伝わせてくれないか。二人で、月島さんの曲を完成させよう」

それは、湊が自分の殻を破り、初めて他者に手を差し伸べた瞬間だった。

楓は戸惑いながらも、湊の真剣な瞳を見て小さく頷いた。

その日から、二人のためのレッスンが始まった。湊は数年ぶりにグランドピアノの前に座る。指は震え、過去の失敗が蘇る。だが、隣で楓が奏でる響のメロディが、湊を優しく導いてくれた。

楓が弾く主旋律に、湊が和音を重ねていく。時にぶつかり、時に寄り添いながら、二人は響が遺した音の欠片を丁寧に紡いでいった。それはまるで、響という存在を介して、楓の悲しみと湊の孤独が溶け合っていくような時間だった。そして文化祭の前夜、月明かりの下で、曲はついに一つの完成された楽曲へと昇華した。

文化祭当日。体育館のステージに、スポットライトを浴びて立つ湊と楓の姿があった。楓はマイクを手に取り、震える声で語り始めた。

「今日は、私の、私たちの、たった一人の親友のために弾きます。彼女の名前は、月島響。彼女が遺してくれた、未来への序曲(プレリュード)です」

楓がピアノの前に座り、最初のフレーズを奏でる。そこに、湊の力強くも優しいハーモニーが重なった。

二人の連弾は、体育館の隅々まで響き渡った。それは、亡き親友への追悼であり、遺された者の決意であり、そして、これから始まる新しい友情の始まりを告げる音色だった。演奏が終わった瞬間、割れんばかりの拍手が二人を包み込んだ。湊は、隣で涙を流しながら微笑む楓を見て、心からの安堵と、今まで感じたことのない高揚感に満たされていた。

文化祭が終わり、日常が戻ると、旧校舎の音楽室からピアノの音が聞こえることはなくなった。響の魂は、きっと安らかに旅立ったのだろう。

湊の心には、確かな音楽が戻ってきていた。楓との間には、言葉にしなくても伝わる、温かい絆が生まれていた。

ある晴れた放課後、湊は屋上から空を見上げた。

「月島さん。君の曲、ちゃんとみんなに届いたよ」

風が湊の頬を撫で、どこか遠くで、優しいピアノの音が聞こえたような気がした。色褪せていた世界は、今、無限の可能性を秘めた五線譜のように、湊の目の前に広がっていた。

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