虚ろな器と砂時計の残光
3 3232 文字 読了目安: 約6分
文字サイズ:
表示モード:

虚ろな器と砂時計の残光

第一章 褪せた色彩

空木零(うつぎ れい)の世界は、常に薄い霧に覆われているようだった。感情の起伏というものを、彼は生まれついて知らない。嬉しいも、悲しいも、その輪郭は曖昧で、指でなぞる前に掻き消えてしまう。彼が暮らす全寮制の学園では、週に一度、生徒の精神状態を反映した『感情の結晶』を提出する義務があった。零の結晶はいつも決まって、色も味もない、ただ脆いだけのガラス細工のような代物だった。

その日も零は、無価値な結晶を提出した後、中庭のベンチで古びた文庫本を広げていた。活字の森を彷徨っても、心は凪いだまま。そんな彼の前に、一人の少女が立った。スケッチブックを抱えた、七瀬陽菜(ななせ ひな)。彼女の周りには、零にしか見えない微細な光の粒が、陽光を浴びた埃のようにきらきらと舞っていた。それは彼女の情熱、夢、希望――零が「青春の輝き」と呼ぶものだった。

「いつもここにいるね、空木くん」

陽菜の声は、春の小川のように澄んでいた。彼女の描く絵は学園でも評判で、そのキャンバスはいつだって燃えるような色彩で満たされていると聞く。

「……本を読んでいただけだ」

「どんな本?」

「別に、面白くはない」

言葉を交わすたび、彼女の周りを舞う光の粒が、ふわりと零の体に吸い寄せられるのを彼は感じていた。それは抗いがたい引力であり、彼の内に巣食う虚無が引き起こす、無意識の捕食だった。陽菜は彼の空っぽの瞳をじっと見つめ、不思議そうに首を傾げた。その仕草だけで、またいくつかの光が零へと流れた。

第二章 盗人の影

陽菜は零に興味を持ったようだった。彼女は頻繁に彼の隣に座り、スケッチブックを広げた。最初は学園の風景を、やがて本を読む零の横顔を描くようになった。彼女の鉛筆が紙を擦る音は心地よく、零は生まれて初めて「安らぎ」に似た感情の欠片に触れた気がした。

だが、安らぎは罪悪感と背中合わせだった。

陽菜と過ごす時間が増えるにつれ、彼女の周りを舞う光の粒は目に見えて減っていった。以前は太陽のように輝いていた彼女の存在が、徐々に輪郭を失っていく。

「最近、なんだか調子が出ないんだ」

ある日、彼女は絵筆を置いて呟いた。彼女のパレットの上で、鮮やかだったはずの赤や青が、くすんだ灰色に混じり合っていた。

「描きたいものが、何なのか分からなくなる時があるの」

その言葉は、鈍い痛みとなって零の胸を突いた。

学園全体にも、奇妙な無気力が蔓延し始めていた。かつて夢を語り合っていた生徒たちの声は小さくなり、廊下を歩く足取りも重い。そして、提出される感情の結晶は、無色透明なものが著しく増加していた。原因は、零だった。彼というブラックホールが、この小さな世界の輝きを静かに吸い尽くしていたのだ。

第三章 夜の巡礼

夜になると、零の体は無数の光の粒を放ち始めた。日中、他者から吸い取った輝きが、彼の皮膚を通して蛍のように明滅するのだ。それは彼のものではない光。彼の内側で決して混じり合うことなく、ただ出口を求めて蠢いているだけだった。

意識は朦朧とし、体は意思とは無関係に動き出す。

毎晩、彼は夢遊病者のようにベッドを抜け出し、ひんやりとした石の廊下を歩いていた。光の粒が道標となり、彼を学園の最深部、誰も知らない地下聖堂へと導いていく。

そこには、巨大な砂時計が鎮座していた。『虚ろな砂時計』。ガラスの向こうで輝く砂は、決して落ち切ることがない。零がその台座に近づくと、彼の体から溢れ出た無数の光の粒が、まるで吸い込まれるように砂時計の中へと流れ込んでいった。光を失った体は鉛のように重くなり、虚無感だけが深く、冷たく残る。

これは何なのだ。

なぜ自分は、毎夜こんな場所へ来る?

断片的な記憶が脳裏をよぎる。白衣の大人たち。冷たい機械音。そして、「お前は世界の調停者だ」という誰かの声。思い出そうとすると、激しい頭痛が彼を襲い、意識は再び闇へと沈んでいった。

第四章 結晶の真実

「もう、何色を使えばいいのか分からないの」

アトリエで、陽菜は真っ白なキャンバスの前で泣いていた。彼女の瞳は色を失い、かつて光の粒が舞っていた彼女の周りには、もう何も見えなかった。彼女の情熱は、完全に枯渇してしまったのだ。零が、それを奪い尽くした。

耐えきれなくなった零は、学園長の執務室の扉を叩いた。そこにいたのは、氷のように冷たい表情を浮かべた男、氷室だった。

「ようやく、気づいたかね。空木くん」

氷室は全てを知っていた。彼は静かに語り始めた。この学園が、人類の未来を賭けて「究極の才能」を人工的に生み出すための巨大な実験施設であることを。生徒たちの感情、その輝きこそが、才能を開花させるためのエネルギー源であることを。

「そして君は、そのための安全装置だ」

学園の地下には、生徒たちの感情を増幅させる巨大なエネルギー炉がある。だが、若く、制御不能な情熱は時に暴走し、システム全体を破壊しかねない。

「君は、その過剰なエネルギー、余剰な輝きを回収し、システムを安定させるために造られた『廃棄物処理装置』だよ。君が夜な夜な捧げている光が、この学園を維持しているのだ」

零は、装置。ただの器。彼の虚無は、輝きを溜め込むために意図的に設計されたものだった。陽菜から奪った光も、他の生徒たちから盗んだ夢も、全てはこの偽りの楽園を維持するための燃料に過ぎなかった。

第五章 虚ろな器の選択

絶望が、初めて明確な輪郭を持った感情として零の心を抉った。自分は、愛する人の夢を食い物にして動く、空っぽの機械だったのか。

脳裏に、陽菜の褪せた笑顔が浮かんだ。あの笑顔を、あの色彩を取り戻したい。たとえ、それが世界の終わりを意味するとしても。

零は走り出した。目指すは地下聖堂、『虚ろな砂時計』。

彼の前に、氷室が立ちはだかった。

「やめたまえ。君がシステムを破壊すれば、この学園は消滅する。人類の希望、才能の芽も、全てが失われるのだぞ!」

氷室の叫びが聖堂に響く。だが、零の足は止まらなかった。

「偽物の希望なら、必要ない」

零はゆっくりと砂時計に手を伸ばす。

「俺は、ただの器じゃない。空木零だ」

彼は決意していた。これまで自分の中に溜め込み、しかし感じることのできなかった全ての輝きを、この瞬間に解放することを。それは、彼の最初で最後の、魂の叫びだった。

第六章 夜明けの残光

零の指先が砂時計に触れた瞬間、彼の体が内側からまばゆい光を放った。溜め込まれていた数多の夢、希望、情熱が奔流となって溢れ出し、砂時計のエネルギーの流れを逆流させる。ガラスに亀裂が走り、甲高い音を立てて砕け散った。

解放された輝きは、光の津波となって学園中に広がっていく。眠っていた生徒たちの元へ、失われたはずの感情が還っていく。ある者は夢から覚めて歓喜の涙を流し、ある者は忘れていた情熱を思い出して拳を握りしめた。

学園の壁が崩れ落ち、天井がひび割れ、偽りの空が剥がれていく。その向こうから、本物の、どこまでも広がる夜明けの空が姿を現した。生徒たちは、混乱の中で、しかし確かに、自分たちの足で大地を踏みしめている感覚を取り戻していた。

零の体は、その役目を終えたように足元から光の粒子となって消えていった。薄れゆく意識の中で、彼は陽菜のことだけを想っていた。

その瞬間、アトリエで目を覚ました陽菜の脳裏に、一つの完成された絵のイメージが鮮やかに浮かび上がった。それは、夜明けの光の中で、無数の色彩に祝福されながら微笑む、一人の少年の肖像画だった。

偽りの楽園は消滅した。残されたのは、不確かで、困難かもしれない、しかし真の可能性に満ちた世界。空木零という少年が、その身を賭して取り戻した、本当の未来だった。


TOPへ戻る