第一章 無色のノイズ
私立彩光学園の朝は、いつだって色彩の洪水から始まる。生徒たちの体からは、その時々の感情が「色光(しきこう)」としてオーラのように立ち上り、廊下や教室を万華鏡のように染め上げていた。快活な「黄」が笑い声と共に弾け、思索にふける「青」が窓辺で静かに揺らめき、恋のときめきを宿した「桃色」が甘い溜息となって漏れる。この学園において、色光の鮮やかさと強さは、そのまま個人の魅力とステータスに直結していた。
そんな光の氾濫の中で、僕、水無瀬 晶(みなせ あきら)は異物だった。僕から放たれる光は、いつだって「無色」だったからだ。それは色がないというだけでなく、まるで古いテレビの砂嵐のように、輪郭のぼやけたノイズじみた光。喜びも、悲しみも、怒りさえも、このフィルターを通すとすべてが色を失い、ただ不確かに揺らめくだけ。感情が希薄なわけではない。むしろ、内側には人並み以上の感受性が渦巻いている自覚があった。だが、それが外に出る瞬間、なぜかすべての色が抜け落ちてしまうのだ。
「見て、また水無瀬くんだ」「かわいそうに、今日も色がついてない」「何を考えてるか分からなくて、ちょっと不気味よね」
背後から聞こえてくる囁き声は、もはや日常のBGMと化していた。僕はフードを目深に被り、彼らの好奇と憐憫が混じった視線から逃れるように足早に教室へ向かう。色彩豊かな世界で、僕だけがモノクロームの染みだった。この息苦しい疎外感が、僕の心をさらに固く閉ざしていく。
自分の席に着き、カバンから教科書を取り出す。そのありふれた動作ですら、周囲の生徒たちの輝きの中では、まるで無音映画のワンシーンのように浮いて見えた。どうして僕だけが。何度自問したか分からない問いが、また胸の奥で重く沈む。
その時だった。
「水無瀬くん、おはよう」
声と共に、視界がぱっと明るくなった。振り返ると、そこに立っていたのは日向 陽菜(ひなた ひな)だった。クラスの中心人物で、その身からは常に太陽のような暖かな「橙色」の光が溢れている。彼女の周りだけ、陽だまりができているかのような錯覚を覚えるほど、その光は力強く、そして優しい。
「あ…おはよう、日向さん」
どもりながら返事をする僕に、陽菜は屈託なく微笑んだ。彼女の橙色の光が、僕の無色のノイズに触れ、わずかに混じり合う。それはまるで、夕暮れの光が静かな水面に差し込む瞬間のようだった。
「水無瀬くんの光、ちゃんと見たの初めてかも」と彼女は言った。「みんなはいろいろ言うけど、私、綺麗だと思うな。静かで、どこまでも透明で……なんだか雪の結晶みたい」
予想外の言葉に、僕は心臓を掴まれたように息を呑んだ。不気味、空っぽ、無感情。そう言われ続けてきた僕の光を、「綺麗だ」と言った人間は彼女が初めてだった。陽菜の橙色の瞳が、真っ直ぐに僕の目を見つめている。その眼差しに、憐憫や好奇の色は一切なかった。
「……ありがとう」
かろうじて絞り出した声は、自分でも驚くほど震えていた。その瞬間、僕の無色の光がほんの少しだけ、強く揺らめいたのを自分でも感じた。陽菜はそれに気づいたように、ふわりと笑みを深める。
彼女の存在は、僕にとって眩しすぎた。焦がれるほどの憧れと、自分の不甲斐なさに対する深い劣等感。二つの相反する感情が、僕の中で渦を巻き始める。この出会いが、僕のモノクロームの世界に、まだ名もなき変化の兆しを落とした瞬間だった。
第二章 借り物のサンセット
季節は移ろい、学園は文化祭の熱気に包まれ始めていた。僕たちのクラスの出し物は、この彩光学園の伝統ともいえる「光の劇」に決まった。舞台上で、役者の感情が放つ色光そのものを照明効果として利用する、幻想的で美しい演劇だ。当然、主役には最も鮮やかで表現力豊かな光を持つ者が選ばれる。そして、今年の主役に、日向陽菜が満場一致で推薦されたのは必然だった。
僕は例年通り、誰にも注目されない舞台裏の照明係にでもなろうと考えていた。だが、僕のささやかな平穏は、陽菜の一言によって打ち砕かれた。
「主役の相手役は、水無瀬くんにお願いしたいな」
教室中がどよめき、すべての視線が僕に突き刺さる。冗談だろう、と誰もが思ったはずだ。僕自身が、一番そう思っていた。「感情のない」と揶揄される無色の僕が、主役の相手役など務まるはずがない。
「無理だよ。僕には色がない。舞台に立っても、何も表現できない」
放課後の教室で、僕は陽菜に詰め寄った。しかし、彼女は穏やかな表情を崩さない。
「できるよ。晶くんの光は、誰にも真似できない特別な光だもの」
いつの間にか、彼女は僕を「晶くん」と呼ぶようになっていた。その親密な響きが、僕の心を落ち着かない気分にさせる。
結局、僕は彼女の強い推薦と、担任の鶴の一声で、その大役を引き受けざるを得なくなった。練習が始まってからの日々は、まさに苦行だった。台詞に感情を込めようとすればするほど、僕の光はかえって弱々しくなり、まるで自信のなさを露呈するかのように揺らめくだけ。周囲の「やっぱり無理だったんだ」という視線が、無色の光越しにでも肌に突き刺さるようだった。
そんな僕を見かねて、陽菜は毎日、居残り練習に付き合ってくれた。誰もいない講堂で、二人きり。彼女は僕の拙い演技を根気強く見てくれた。
「色はね、誰かに見せるためにあるんじゃないと思うんだ。自分の心が震えた時に、自然と生まれるものだよ。だから、上手く見せようとしなくていい。ただ、その役の気持ちを、晶くんの心で感じてみて」
彼女の言葉は、いつも不思議な力を持っていた。彼女の橙色の光に照らされていると、僕の頑なな心が少しずつ解けていくような気がした。夕日が差し込む講堂で、彼女と台詞を交わす時間。それは僕にとって、生まれて初めて経験する、穏やかで満たされた時間だった。僕の心に、陽菜に対する確かな想いが芽生え始めていた。だが、どれだけ彼女を想っても、僕の光は無色のままだった。
練習が休みのある日の午後、僕はふと、学園の旧図書館に足を踏み入れていた。何か、この無色の光の謎を解く手がかりはないだろうか。そんな淡い期待を抱いて、埃っぽい書架の間を彷徨う。そして、一番奥の棚で、一冊の古びた日誌を見つけた。それは、彩光学園の創設者によるものらしかった。
ページをめくっていくと、色光に関する研究の記述の中に、僕の目を釘付けにする一文があった。
『稀に、何色にも染まらぬ「無色」の光を持つ者が生まれる。それは欠陥ではない。むしろ逆だ。無色の光は、全ての色彩を内包する原初の光。だが、その真の輝きを解き放つには、最も純粋で、最も強い、ただ一つの『想い』が必要となる』
原初の光? 純粋な想い? 言葉の意味は分からない。だが、僕の存在が「欠陥」ではないのかもしれないという可能性に、胸が大きく高鳴った。日誌を抱きしめ、僕は自分の無色の光を見つめた。それは相変わらず不確かなノイズのようだったが、その奥に、まだ見ぬ可能性が眠っているような気がしてならなかった。
第三章 プリズムの独白
文化祭本番を三日後に控えた日、事件は起きた。朝からどこか顔色の優れなかった陽菜が、練習の途中で突然、糸が切れた人形のように崩れ落ちたのだ。
「日向さん!」
僕の叫び声に、周囲の生徒たちが駆け寄る。彼女の体からは、いつもあれほど力強く輝いていた太陽のような橙色の光が、まるで燃え尽きる寸前の蝋燭のように、急速に色と勢いを失っていく。その光景は、僕の血の気を引かせるには十分すぎた。
陽菜はすぐに医務室に運ばれた。知らせを聞いた彼女の両親と、学園の理事長が駆けつけ、医務室の周りは緊迫した空気に包まれた。僕はただ、扉の前で立ち尽くすことしかできなかった。
数時間後、少し落ち着いたからと、陽菜が僕を呼んでいると伝えられた。恐る恐る中に入ると、ベッドに横たわる彼女がいた。顔は青白く、あの眩しかった橙色の光は完全に消え失せ、代わりに、僕と同じ、頼りない「無色」の光が、彼女の体からかすかに漏れ出ていた。
「晶くん…ごめんね、びっくりさせちゃって」
力なく笑う彼女の声は、か細く震えている。
「どうして…日向さんの光が…」
言葉を失う僕に、彼女は諦めたように、そしてどこか安堵したように、衝撃の真実を語り始めた。
「私ね、生まれつき、自分の色光を生み出せないの」
その告白は、僕の頭を鈍器で殴られたかのような衝撃を与えた。
「私のこの体は、他人の感情光を無意識に吸収して、それを自分の色として見せてしまう特異体質でね…。みんなが私に期待してくれる『明るくて元気な日向陽菜』でいるために、私はずっと、みんなの『喜び』や『期待』の光を吸収し続けてきた。私のあの橙色は、みんなから借りた、偽物の光だったの」
彼女の言葉が、僕の胸に深く突き刺さる。僕が焦がれたあの太陽の輝きは、借り物の光だった。常に笑顔で、誰からも慕われる人気者でいなければならないという重圧。そのプレッシャーが、彼女に他人の光を吸収させ続け、結果として、彼女自身の心を空っぽになるまで消耗させてしまったのだ。
「本当はね、ずっと怖かった。いつか、この嘘がバレてしまうんじゃないかって。みんなの期待に応えられなくなったら、私は空っぽになってしまうんじゃないかって…。でも、もう限界みたい」
陽菜の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。その涙は、何の色も持たなかった。
「ごめんね、晶くん。私が憧れた、君の正直な光の前で、嘘をついてて。君の変わらない無色の光が、本当はずっと羨ましかったんだよ。私、本当は…空っぽなんだ」
僕が憧れていた太陽は、誰よりも深い孤独の夜を抱えていた。僕が劣等感を抱いていた僕自身の無色の光を、彼女は羨望の眼差しで見ていた。僕たちの世界が、ガラガラと音を立てて崩れ落ち、そして、全く新しい形で再構築されていく。
僕が抱いていた陽菜への想いは、憧れだけではなかった。彼女の痛み、孤独、それでも誰かのために輝こうとした優しさ。その全てを知った今、僕の中で何かが変わろうとしていた。それは、日誌にあった『純粋な想い』の、ほんの始まりなのかもしれなかった。
第四章 夜明けのデュエット
陽菜の代役を立てるという話も出たが、僕は断固として首を横に振った。
「僕が、やります。彼女の分まで」
僕の言葉に、クラスメイトたちは驚きの表情を浮かべた。しかし、僕の瞳に宿る光が、以前とは違う確固たる意志を帯びていることに気づいたのか、誰も反対はしなかった。
文化祭当日。舞台の袖で、僕は目を閉じていた。客席のざわめきが遠くに聞こえる。緊張で心臓が早鐘を打っていたが、不思議と恐怖はなかった。僕の心にあったのは、ただ一つの想いだけ。
医務室のベッドで、この舞台を見ることすら叶わない陽菜のこと。彼女の孤独、彼女の痛み、彼女の優しさ。僕が演じるのは、もはや台本上の役柄ではなかった。僕自身の、日向陽菜という一人の人間に向けた、ありのままの想いを表現するのだ。
幕が上がる。スポットライトが僕を照らす。僕はゆっくりと目を開けた。
そして、最初の台詞を口にした瞬間、奇跡が起こった。
僕の体から放たれていた無色のノイズが、突如として内側から弾けるように、眩い輝きを放ち始めたのだ。
それは、特定の色ではなかった。赤、青、黄、緑…まるでプリズムを通した光のように、数え切れないほどの色彩が混じり合い、それでいてどこまでも透明な、誰も見たことのない神々しいまでの光だった。旧日誌にあった言葉が、脳裏をよぎる。『無色の光は、全ての色彩を内包する原初の光』。
僕の光は、観客席の生徒たちを、教師たちを、そこにいる全ての人々を呑み込んでいった。それは、僕が陽菜を想う気持ちそのものだった。彼女の痛みを思う時には深い藍色に、彼女の優しさを思う時には暖かい金色に、そして、彼女への愛おしさを思う時には、虹色の光となって、光は自在にその表情を変えた。それは僕一人の感情でありながら、見る者すべての心の琴線に触れる、普遍的な輝きを持っていた。
僕の独白は、やがて劇を超え、僕自身の魂の叫びとなっていた。僕の光は、講堂の壁を突き抜け、医務室で静かに目を閉じていた陽菜のもとにも届いた。彼女の頬を、そのプリズムの光が優しく撫でた。
劇が終わり、万雷の拍手が鳴り響く中、僕は静かに自分の両手を見つめていた。僕の体からは、今もなお、穏やかで清らかな、虹色の光が溢れていた。もう、自分の色がないことに劣等感を抱く僕はいない。僕の「無色」は、何色にも染まらないのではなく、すべての色を内包する、誰よりも豊かな色だったのだ。
数日後、すっかり回復した陽菜が、僕の前に現れた。彼女の体から放たれる光は、もうあの燃えるような橙色ではなかった。かわりに、淡く、しかし芯のある穏やかな乳白色の光が、彼女を優しく包んでいた。
「これが、私の本当の色みたい。誰かの色を借りなくても、ちゃんと、ここに在ったんだね」
彼女はそう言って、はにかむように笑った。その笑顔は、今まで見たどんな彼女よりも、自然で、美しかった。
僕たちは並んで、夕暮れの廊下を歩き始めた。僕のプリズムの光と、彼女の乳白色の光。二つの全く違う光は、しかし、反発することなく互いを照らし合い、廊下の床に美しい光跡を描いていく。
世界から色が消えることはない。これからも、僕たちは様々な色の光に囲まれて生きていくだろう。けれど、もう迷うことはない。他人の輝きに目を眩ませるのではなく、自分自身の内なる光を信じること。僕たちは、色彩を持たないモノクロームの世界で出会い、そして、二人だけのユニゾンを奏で始めたのだ。そのハーモニーは、きっとどこまでも続いていく。