共感覚のサイレンス

共感覚のサイレンス

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第一章 無臭の世界

僕、神木隼人(かみきはやと)の一家は、少しだけ特別だった。僕たちは、互いの感情を「香り」として感じ取ることができたのだ。それは生まれつきの共感覚のようなもので、言葉よりも雄弁に、そして正確に心を伝えてくれた。

母さんの愛情は、心を落ち着かせるラベンダーの香り。父さんの信頼は、どっしりと構えた檜の香り。五歳下の妹、美咲の喜びは、弾けるようなシトラスの香り。そして僕自身の感情も、若葉のような瑞々しい香りを放っていた。食卓はいつも、様々な感情の香りが混じり合うオーケストラだった。喧嘩をすれば焦げ付くような匂いが立ち込め、笑い合えば甘い花の蜜のような香りに満たされる。僕にとって、この香りのある世界が、家族そのものだった。

そのすべてが、ある朝、忽然と消えた。

二十歳の誕生日を翌週に控えた、梅雨の晴れ間のことだった。目を覚ました瞬間から、何かがおかしかった。いつもなら階下から漂ってくるはずの、母が淹れるコーヒーの香ばしさと、朝の穏やかなラベンダーの香りがしない。あるのはただ、湿った空気の匂いだけ。

「おはよう」

リビングに下りると、母さんが微笑んだ。その表情はいつも通り優しい。けれど、そこにラベンダーの香りはなかった。父さんが新聞から顔を上げ、僕に頷く。重厚な檜の香りも、しない。美咲が「おはよ、お兄ちゃん」とトーストを齧る。快活なシトラスの香りも、どこにもない。

世界から、色が失われたようだった。いや、音か。僕たち家族を繋いでいた、最も大切なコミュニケーションの手段が、僕の中からだけ、ごっそりと奪い去られてしまったのだ。

「どうしたの、隼人。顔色が悪いわよ」

母さんが心配そうに僕の額に手を当てる。その仕草からは、かつて感じたはずの温かい香りは立ち上ってこなかった。僕はただ、彼女の肌のぬくもりと、石鹸の微かな匂いを感じるだけだった。

「なんでもない。ちょっと、寝不足かな」

嘘をついた。喉がからからに乾いていた。食卓に並んだ料理は、見た目も味もいつもと同じはずなのに、まるで砂を噛んでいるようだった。家族の笑顔が、表情の裏にどんな感情を隠しているのか、僕にはもう分からなかった。彼らの言葉が、薄っぺらな記号にしか聞こえない。

僕の世界は、この日から無臭になった。そして、僕の家族は、僕にとって「他人」に近づき始めていた。静かで、恐ろしい孤独が、音もなく僕の心を侵食し始めていた。

第二章 見えない壁

香りなき世界での日々は、拷問に近かった。僕は必死に、失われた感覚を取り戻そうともがいた。昔、家族でよく訪れた海辺の公園へ一人で足を運んだ。潮の匂いと松林の香りに混じって、あの頃感じた家族の幸福な香りの残滓を探したが、見つかるのは虚しさだけだった。耳鼻科にも通ったが、嗅覚に異常はないと診断されるばかり。僕の喪失は、医学では説明できない領域のものだった。

家族との溝は、日を追うごとに深まっていった。彼らは僕の異変に気づいているはずだった。僕が不意に彼らの顔をじっと見つめたり、会話の途中で上の空になったりすることに。しかし、誰もその核心に触れようとはしなかった。ただ、痛々しいものを見るような、憐れむような視線を時折向けるだけ。その態度が、僕をさらに苛立たせた。

「なんで何も言ってくれないんだよ!」

ある晩、夕食の席で僕はついに爆発した。

「僕がおかしいって、みんなわかってるんだろ! なんで誰も、何も話してくれないんだ!」

僕の叫び声に、食卓が凍りついた。母さんは唇を固く結び、父さんは目を伏せる。美咲だけが、怯えたように僕を見ていた。

「隼人、落ち着きなさい」

父さんの声は低く、平坦だった。そこに、かつて僕を諭してくれた重みのある檜の香りは微塵も感じられない。

「落ち着けるかよ! まるで僕だけが仲間外れみたいじゃないか。もう、みんなの考えてることが少しもわからないんだ。怖いんだよ!」

涙が滲んだ。孤独と不安が、怒りとなって溢れ出す。母さんが何かを言いかけたが、父さんがそれを制するように、そっと母さんの肩に手を置いた。その無言のやり取りが、僕には見えない壁の向こう側で行われている出来事のように思えた。彼らは、僕の知らない共通言語で会話し、僕をその円の外に置いている。

「ごめん、もういい」

僕は椅子を蹴立てるようにして席を立ち、自室に閉じこもった。ドアの向こうから、家族のひそひそ話が聞こえてくる気がした。彼らは僕をどう思っているのだろう。壊れてしまった可哀想な息子? それとも、もう理解し合うことのできない厄介者?

香りを失っただけではない。僕は、家族からの信頼をも失いかけていた。僕たちを繋いでいたはずの特別な絆は、今や僕を縛り、孤立させる呪いと化していた。

第三章 書斎の告白

眠れない夜が続いた。その夜も、僕はベッドの上で虚しく寝返りを打っていた。時計の針が午前二時を指した頃、階下から微かに話し声が聞こえてきた。両親の声だった。僕は息を殺し、そっと部屋のドアを開けて廊下に出た。

「……もう限界だ。あの子に、本当のことを話すべきじゃないか」

父さんの、苦悩に満ちた声だった。

「でも、あなた……。そうしたら、この子がこの家で安らぐことは二度となくなるかもしれないのよ」

母さんの声は、涙で震えていた。

「だが、このままでは隼人の心が壊れてしまう。あの子をあの運命の連鎖から解き放つためにやったことなんだ。それなのに、あの子を孤独に追い込んでいるだけじゃないか」

運命の連鎖? 解き放つ? 聞き慣れない言葉の断片が、僕の胸に突き刺さる。

僕は、吸い寄せられるように階段を下りた。両親がいるリビングではなく、その奥にある、普段は鍵がかけられている祖父の書斎へと足が向かった。なぜだかわからない。けれど、そこに答えがあるような気がしたのだ。ドアノブに手をかけると、驚いたことに鍵はかかっていなかった。

ひやりとした空気が肌を撫でる。革と古い紙の匂いが満ちた部屋の中央、重厚なマホガニーの机の上に、一冊の古びた日記が開かれていた。それは、若くして亡くなったと聞かされていた、祖父の日記だった。

僕は震える手でページをめくった。そこに綴られていたのは、僕たち神木家にまつわる、信じがたい秘密だった。

『我が一族に伝わるこの“共感覚”は、祝福であると同時に、呪いでもある。我々は深く愛し合うが故に、互いの生命力をも感じ取ってしまう。そして、神木家の男は代々、愛する家族に自らの生命力を分け与え、二十歳を過ぎた頃、その命を早々に閉じるという宿命を背負ってきた』

心臓が氷の塊になったようだった。父も、祖父も、その父も、皆、同じ運命を辿ってきたというのか。ページを繰る指が止まらない。

『ただ一つ、この呪われた連鎖を断ち切る方法がある。それは、宿命を背負う者が二十歳になる前に、家族全員で“香り”を断つ儀式を行うことだ。感情の繋がりを遮断し、生命力の過剰な流出を防ぐ。それは、愛する者を孤独にするという、あまりにも非情な愛の形である。だが、我が息子だけは、この宿命から解き放ちたい。たとえ、彼に憎まれようとも』

日記の最後は、父の筆跡に変わっていた。

『父さん、あなたの願いは果たせなかった。僕は、あなたの香りが消えた日、その意味を知らずにあなたを責めた。そして今、僕もまた、息子・隼人のために同じ決断を下す。隼人、許してくれ。お前には、生きてほしいんだ。俺たちのように、短い人生を駆け抜けるのではなく、愛する人を見つけ、家庭を築き、満ち足りた人生を、その最後まで。この沈黙は、お前への、俺たち家族からの、最大の愛なのだ』

僕はその場に崩れ落ちた。

僕を苦しめていた無臭の世界。僕を孤立させていた家族の沈黙。そのすべてが、僕を生かすための、悲痛な儀式だったのだ。僕が感じていた孤独は、僕に向けられた、家族全員の絶望的なまでの愛の姿だった。

第四章 愛の輪郭

僕は日記を抱きしめたまま、夜が明けるのを待った。朝日が書斎の窓から差し込み、部屋の埃をきらきらと照らし出す頃、僕はリビングへ向かった。そこには、一睡もしていない様子の両親と、心配そうに寄り添う美咲がいた。

僕が黙って日記をテーブルの上に置くと、母さんは小さく息を呑み、父さんはすべてを悟ったように深く目を閉じた。

「……読んだんだな」

父さんの声は、かすれていた。

僕はゆっくりと頷いた。「うん」とだけ答えるのが精一杯だった。

「ごめんね、隼人。あなたをずっと苦しめて……」

母さんの目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。美咲も、つられて泣き出した。

「私、お兄ちゃんのシトラスの香りが大好きだった。でも、お兄ちゃんに長生きしてほしかったから……我慢したの」

僕は、泣きじゃくる家族の姿をただ見つめていた。怒りも、悲しみもなかった。胸に満ちていたのは、途方もない感謝と、自分の愚かさへの悔恨、そして、このどうしようもなく不器用で、深い愛に満ちた家族への愛おしさだった。

「謝らないで」

僕の声は、自分でも驚くほど穏やかだった。

「僕のほうこそ、ごめん。何も知らずに、みんなを傷つけた」

僕は父さんの前に進み出て、深く頭を下げた。

「ありがとう、父さん、母さん、美咲。僕のために、こんな……辛い思いをしてくれて」

顔を上げると、父さんが僕の肩を強く掴んでいた。その手は震えていた。

「隼人……」

父さんの目にも、光るものがあった。

僕は、はっきりと宣言した。

「もう、香りは必要ないよ。僕にはわかるから」

家族が、息を呑むのがわかった。

「匂いがなくても、言葉がなくても、みんなの心がわかる。僕が感じていたのは、孤独なんかじゃなかった。みんなの愛だったんだって、今ならわかる。だからもう、大丈夫」

それは、強がりではなかった。真実だった。香りを失い、一度は家族を失いかけたからこそ、僕はその奥にある、もっと本質的な繋がりの形を見つけることができたのだ。行動の一つ一つ、視線の交わし方、沈黙の中にさえ、愛は確かに存在していた。僕たちは、感覚に頼らない、より成熟した絆で結ばれることができる。

僕がそう微笑んだ瞬間だった。

ふわり、と。

どこからか、懐かしいラベンダーの香りが鼻をかすめた。驚いて母さんを見ると、彼女は泣きながら、優しく微笑んでいるだけだ。それは現実か、それとも僕の心が作り出した幻か。

どちらでもよかった。

僕は、失われたと思っていた香りの代わりに、もっと確かで、温かいものを手に入れたのだから。

僕たちの家族の物語は、無音で無臭の世界で、それでも確かに愛を奏でながら、新しい章へと歩みを進めていく。運命がどうであれ、この愛の輪郭がある限り、僕たちはもう決して離れることはないだろう。

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