第一章 共鳴の不協和音
我が一族、水鏡家にとって、年に一度の「共鳴の儀」は血そのものより重い。
屋敷で最も神聖とされる『月の間』。その中央に鎮座する純白の祭壇には、赤子の頭ほどもある完璧な球体の結晶が安置されている。名を『永劫』。我々一族が千年以上にわたって受け継いできた、家族の記憶の集合体だ。乳白色の表面の下には、銀河のように微細な光の粒子が絶え間なく明滅し、触れてもいないのに、ひんやりとした清浄な空気が肌を撫でる。
父、母、そして厳格な祖父に倣い、私もまた純白の礼装に身を包み、祭壇の前に跪く。当主である祖父がおもむろに立ち上がり、皺深い両手で『永劫』を恭しく捧げ持つ。その瞳には、揺るぎない誇りと信仰が宿っていた。
「水鏡の血を引く者たちよ。今宵もまた、我らの源泉たる大いなる記憶と一つになる。祖先たちの偉業、その栄光、その悲しみ、その全てを魂に刻み、我らが何者であるかを再確認するのだ」
祖父の朗々とした声が、しんと静まり返った『月の間』に響き渡る。私たちは一人ずつ進み出て、『永劫』にそっと両手を触れる。最後に残った私の番が来た。心臓が早鐘を打つ。私はこの儀式が、昔から少し苦手だった。
深呼吸をして、冷たく滑らかな結晶の表面に指を置いた。目を閉じる。本来ならば、ここから奔流のように先祖たちの記憶が流れ込んでくるはずだった。初代当主が荒れ地を開拓した時の土の匂い。五代目が都で成し遂げた偉業に対する民衆の喝采。戦乱の世を生き抜いた女たちの、絹を裂くような祈りの声。それらが一つの壮大な交響曲となって、私の意識を満たすはずだった。
しかし、今年もまた、違った。
指先から流れ込んできたのは、澄み切った記憶の奔流ではなかった。それは、壊れた音叉が発するような、不快な高周波のノイズだった。美しいはずの情景は砂嵐のように乱れ、英雄たちの声は耳障りな金属音に掻き消される。頭の芯が痺れるような感覚に、思わず眉をひそめた。
――なぜだ。なぜ、私だけが。
必死にノイズの向こう側にあるはずの「本当の記憶」を探ろうとすればするほど、めまいがひどくなる。家族の顔を見ると、誰もが恍惚とした表情で記憶に浸っているように見えた。私だけが、この神聖な共鳴から弾き出されている。
儀式が終わり、ふらつく足で祭壇から離れると、祖父の鋭い視線が私の背中に突き刺さった。その目は、まるで出来損ないの工芸品を見るかのように冷ややかで、こう問うているようだった。「お前は、本当に我々の一員なのか?」と。この家に生まれながら、家族の最も重要な絆である『永劫』と正しく繋がれない。その事実は、私の存在そのものを根底から揺るがす、重く冷たい楔だった。
第二章 禁じられた頁と路傍の光
『永劫』との不協和音は、年を追うごとに私の心を蝕んでいった。祖父に相談しても、「お前の精神が未熟なだけだ。雑念を捨て、水鏡家の誇りだけを心に満たせ」と一蹴されるだけ。父も母も、祖父の言葉を疑うことすらない。まるで、私一人が狂っているかのように扱われた。
この孤独な疑念から逃れるには、自ら答えを探すしかなかった。ある嵐の夜、私は屋敷の奥深く、誰も近寄らない禁じられた書庫へと足を忍ばせた。埃と古紙の匂いが鼻をつく。蝋燭の頼りない光を頼りに、書棚の隅に隠されていた『結晶考』と題された古文書を見つけ出した。
ページをめくる指が震える。そこには、私が知る『永劫』の伝説とは異なる記述が散見された。
『真の記憶結晶は、持ち主の魂と共鳴し、その生涯をかけて形を変える。喜びは輝きを増し、悲しみは深い陰影を刻む。故に、完璧な球体を保つ結晶など、あり得ない』
『偽りの記憶、あるいは持ち主のいない記憶は、結晶を内側から蝕む。それは魂にとって毒であり、不協和音を生む』
息を呑んだ。我が家の『永劫』は、寸分の歪みもない完璧な球体だ。何百年もの間、その形を変えていないことが、むしろ一族の誇りとされてきた。だが、この古文書が真実ならば、あの完璧さこそが、異常の証ではないのか。
翌日、私は重い気持ちを抱えたまま、あてもなく町を彷徨っていた。市場の喧騒も、子供たちのはしゃぐ声も、どこか遠くに聞こえる。その時、ふと、路地裏でしゃがみ込んでいる一人の少女が目に入った。少女は、掌の中にある何かを、愛おしそうに見つめている。
気になって声をかけると、彼女は驚いたように顔を上げ、掌を差し出した。そこに乗っていたのは、私の親指の先ほどの、いびつな形をした水晶のかけらだった。それは『永劫』のような荘厳な輝きこそないが、夕陽のような温かいオレンジ色の光を、内側から穏やかに放っていた。
「これ、おばあちゃんの形見なの」と少女ははにかんだ。「おばあちゃんが亡くなる前に、一番楽しかった日の気持ちを込めて、私にくれたの。市場で一緒に食べた、甘いお団子の記憶だって」
少女がそう言うと、いびつな結晶は、まるで応えるかのように、ふわりと一層温かい光を放った。その光に触れた瞬間、私の心に流れ込んできたのは、不快なノイズではなかった。香ばしい団子の香り、優しい老婆の笑い声、少女の小さな手の温もり。それは壮大な英雄譚ではない。けれど、紛れもなく「生きた」記憶の温もりだった。
私は愕然とした。私がこれまで『永劫』から感じてきた、冷たく、どこか無機質な栄光の記憶とは、全く異質のものだったからだ。あの巨大な球体よりも、この路傍の小さなかけらの方が、よほど豊かで、真実の光を宿しているように思えた。
第三章 砕かれた虚像
少女の持つ小さな結晶の温もりが、私の中で最後の引き金を引いた。屋敷に戻った私は、嵐で湿った服もそのままに、祖父の書斎の扉を叩いた。返事を待たず扉を開けると、祖父は文机に向かい、静かに筆を走らせていた。
「お話があります、お祖父様」
私の声には、自分でも驚くほどの覚悟が滲んでいた。祖父はゆっくりと顔を上げる。その表情は、能面のように静かだった。
「『永劫』は、偽物なのではありませんか」
単刀直入な言葉に、部屋の空気が凍りついた。祖父の瞳が、初めて激しく揺らぐのを私は見た。彼は何も言わず、ただ私を睨みつける。その沈黙が、何より雄弁な肯定だった。
「禁じられた書庫で読みました。真の結晶は、完璧な球体ではあり得ないと。そして、町で見ました。個人の想いが込められた、温かい光を放つ本物の結晶を。我々が崇めているあれは、一体何なのですか!」
感情の昂ぶりに、声が上ずる。祖父は重いため息をつくと、筆を置いた。そして、数分にも感じられる長い沈黙の後、絞り出すように語り始めた。
「…五百年ほど前、我らの一族は、大きな戦に敗れた」
それは、私が『永劫』の記憶で一度も見たことのない、一族の歴史の汚点だった。
「当時の当主は、家宝であった本物の記憶結晶を守ろうとしたが、敵の手に渡る寸前で、自らの手で砕いてしまったのだ。一族の魂を、汚されるくらいならばと…」
祖父の声は、か細く、乾いていた。
「だが、記憶の源泉を失った水鏡家は、急速に力を失っていった。誇りを失い、絆を失い、ただの血族に成り下がっていく恐怖…。それに耐えかねた先祖たちは、決断したのだ。失われた栄光を、我々の手で『創り出す』ことを」
そこで言葉が途切れた。私の頭の中で、全てのピースがはまった。あの完璧な球体『永劫』は、失われた本物の結晶の代わりに作られた、空っぽの器。中身は、後世の者たちが「こうであってほしい」と願った、都合の良い英雄譚や美談を詰め込んだ、壮大な偽りの記憶の集合体だったのだ。
「私だけが感じていたノイズは…」
「お前の魂が、その偽りを拒絶していたからだろう」と祖父は続けた。「我々は皆、いつしかこの虚構を真実だと信じ、自分自身を騙し続けてきた。偽りの歴史にすがることでしか、家族としての繋がりを保てなかったのだ。お前のように、真実の温もりを知る魂には、耐えられぬ代物だったのかもしれんな」
目の前の祖父が、急に小さく、脆い存在に見えた。一族の誇りを守る厳格な当主ではなく、ただ、崩れゆく家を必死に支えようとしてきた、一人の孤独な老人。私を縛りつけていたと思っていた巨大な鎖は、実は空虚な虚像だった。そして、その虚像に最も強く縛られていたのは、他ならぬ祖父自身だったのかもしれない。足元から、世界が崩れていくような感覚に襲われた。
第四章 石ころたちの祭壇
真実を知った夜、私は一睡もできなかった。絶望と、しかし奇妙なほどの解放感が、胸の中で渦巻いていた。私を苦しめていたのは、水鏡家の血ではなかった。誰もが必死に信じようとしていた、壮大な嘘だったのだ。
夜が明ける頃、私は一つの決意を固めていた。
私は再び『月の間』へと向かった。祭壇の上では、『永劫』が相も変わらず冷たい光を放っている。その後ろから、私の気配を察した祖父が現れた。彼の顔には深い疲労が刻まれていた。
「全てを、壊すつもりか」
「いいえ」と私は静かに首を振った。「始めるのです。ここから」
私は祭壇に近づき、『永劫』に手を伸ばした。しかし、触れることはせず、その隣に、ポケットから取り出した一つの小さな石ころをそっと置いた。それは、昨日、少女と別れた道端で、何気なく拾ったただの河原の石だ。何の輝きもない、変哲もない石ころ。
「これは、僕が初めて真実と向き合った記憶のしるしです」
祖父は驚いたように、石ころと私の顔を交互に見た。
「僕たちは、失われた過去の栄光にすがる必要はない。偽りの光で目を眩ませる必要もない。これから僕たちが作る、たった今生まれたこの記憶から、新しい家族を始めればいい。たとえそれが、こんな小さな石ころからだとしても」
私の言葉に、祖父の硬い表情が、ほんの少しだけ和らいだように見えた。彼はゆっくりと私の隣に歩み寄ると、懐から古びて乾燥した木の実を取り出し、私の石の隣に置いた。
「…これは、亡くなったお前の祖母と、初めて言葉を交わした日に拾ったものだ。誰にも見せたことはなかった」
小さな告白。それは、何百年分の偽りの英雄譚よりも、ずっと重く、温かかった。
その時、背後で息を殺していた父と母が、静かに祭壇へと歩み寄ってきた。父は、自分が子供の頃に使っていた、傷だらけの小さな木彫りの駒を。母は、私が生まれた日に庭で咲いていたという、押し花にした菫を。二人はそれを、石と木の実の隣に、そっと置いた。
祭壇の上にはもはや、完璧な球体の輝きはない。そこにあるのは、いびつで、不揃いで、何の価値もないように見える、ただのガラクタの集まり。
だが、私の目には、その一つ一つが、どんな宝石よりも尊い光を放っているように見えた。それは、虚構ではない、私たちの手で掴み取った、真実の記憶の始まりの光だった。巨大な『永劫』の冷たい光は、その傍らで、どこか寂しげに揺らめいている。
本当の家族の歴史は、壮大な物語の中にあるのではない。共に分かち合う、路傍の石ころのような、ささやかで、しかし確かな温もりの中にこそ宿るのだ。私たちの祭壇はまだ空っぽに近い。けれど、これから先、この祭壇を喜びや悲しみの記憶で満たしていく未来を想うと、私の胸には、これまで感じたことのない、静かで力強い希望が満ちてくるのだった。