脈打つ柱、僕らの家

脈打つ柱、僕らの家

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第一章 軋む家と聞こえない声

僕、高槻翔太にとって、実家は呪いそのものだった。

木造二階建ての、ありふれた一軒家。だが、この家は生きている。もっと正確に言えば、僕たち家族の心を映す鏡として、その物理的な形を変え続けてきた。僕が「情動建築」と皮肉を込めて呼ぶこの家は、家族の不和が深刻化して以来、まるで末期癌患者のように日に日に朽ち果てていた。

大学の長期休暇で三年ぶりに帰省した僕を迎えたのは、玄関の重く軋む音と、壁紙の至る所に走る痛々しい亀裂だった。リビングの空気は澱み、窓から差し込む光さえも、埃っぽいフィルターを通したように色褪せて見える。

「おかえり、翔太」

母の美佐子が、やつれた笑顔で僕を見た。その背後で、高校生の妹、結衣がスマホから顔も上げずに「……ちわ」と呟く。その瞬間、僕の足元の床板がミシリ、と低く呻いた。家族間のわずかな感情のさざ波が、即座に家に反映されるのだ。

そして、元凶である父の健一は、ソファの指定席で新聞を広げたまま、僕を一瞥すらしなかった。父と最後にまともな会話をしたのはいつだったか、もう思い出せない。父の頑なな沈黙が、この家の崩壊を最も加速させている元凶だと、僕は信じて疑わなかった。

「部屋、使ってないから埃っぽいかも。ごめんね」

母の言葉には、僕への気遣いと、この家の惨状に対する謝罪が滲んでいた。僕がこの家を嫌って飛び出したことを、母は誰よりも痛感している。

「別にいいよ」

僕は荷物を持ち、二階の自室へ向かった。階段の一段一段が、僕の苛立ちに呼応するように悲鳴を上げる。自室のドアを開けると、かつて僕が描いた落書きが、壁の亀裂によって無残に引き裂かれていた。まるで、楽しかった過去ごと否定されているようで、胸の奥が冷たくなる。

この家にも、輝いていた時代があった。僕がまだ小学生だった頃、家族四人の笑い声が絶えなかった時代。その頃の家は、壁に淡い桜色の模様が自然に浮かび上がり、庭の木々も季節を問わず瑞々しい花を咲かせていた。父が僕を肩車し、母と妹がそれを見て笑う。そんな些細な幸福が、家全体を温かい光で満たしていた。

いつからだろう。この家が、僕たちが、こんなにも冷たく、脆くなってしまったのは。

その夜、ベッドに入っても寝付けずにいると、奇妙な音が聞こえてきた。

――キィ……ィィ……。

それは、赤ん坊のすすり泣きのようでもあり、古い木材がこすれる音のようでもあった。音の出どころは、天井裏。この家には屋根裏部屋などなかったはずだ。僕は息を殺し、耳を澄ませる。音は断続的に続き、まるで家そのものが苦痛に喘いでいるかのようだった。

気味の悪さに身を起こし、そっと部屋を出て階下を覗くと、信じられない光景が目に飛び込んできた。リビングの暗闇の中、家の中心を貫く太い大黒柱が、心臓のように、ごく微かに、しかし確かに脈打っていたのだ。その表面には血管のような木目が浮かび上がり、幽かな光を明滅させている。父が、その柱にそっと手を触れていた。その背中は、僕の知らない、深い哀しみを湛えていた。

第二章 色褪せた写真と父の秘密

翌日から、僕は家の調査を始めた。あの脈打つ大黒柱と、屋根裏からの奇妙な音。そして、全てを知っているかのような父の謎めいた行動。それらは分厚い霧のように僕の心を覆い、早くこの家から立ち去りたいという気持ちと、真実を知らなければならないという義務感がせめぎ合っていた。

父の書斎に忍び込むと、埃をかぶった段ボール箱を見つけた。中には古いアルバムが何冊も入っている。ページをめくると、色褪せた写真たちが、僕の忘れていた記憶を呼び覚ました。満面の笑みで僕を抱き上げる若い父。母の手を握り、少し得意げな顔をした幼い僕。そして、生まれたばかりの妹、結衣を、慈しむように見つめる家族。写真の中の家は、陽光に満ち、壁は滑らかで、写っている誰もが幸せそうだった。

最後のアルバムの最終ページに、一枚だけ、他の写真とは雰囲気の違うものが挟まっていた。それは家の設計図のコピーのようだった。そして、その隅に、父の震えるような文字でこう記されていた。

『この家は、家族の愛を糧に、家族を守る。だが、愛が枯渇した時、代償を求めるだろう。初代当主、高槻誠一郎との契約』

――契約? 代償?

意味が分からなかった。だが、背筋を冷たい汗が伝う。これは単なる比喩ではない。この家には、僕たちの知らない、古くからのルールが存在するのだ。

その日の夕食は、これまでで最も気まずいものだった。僕が父の書斎に入ったことに気づいたのか、父の纏う空気は一層冷たく、それに呼応してテーブルの上の小皿がカタカタと震えだした。

「あんた、また翔太に何か言ったの?」

母が咎めるように父を睨む。

「うるさいな! どいつもこいつも、俺のせいか!」

父が珍しく声を荒らげた瞬間、バリン!というけたたましい音と共に、リビングの窓ガラスに大きなひびが入った。結衣が悲鳴を上げ、母は顔を青ざめさせる。

「もういや……こんな家!」

結衣は泣きながら自室に駆け込んでしまった。

家の崩壊は、もう誰の目にも明らかだった。天井からはパラパラと壁の破片が落ち続け、床は危険なほどに傾いでいる。僕たちの心の荒廃が、住処を物理的に破壊していく。このままでは、家族も、家も、全てが駄目になる。

僕は父に詰め寄った。

「父さん、あの設計図のメモは何なんだ! この家は一体何なんだよ!」

父は何も答えず、ただ唇を固く結ぶだけだった。その沈黙が、僕の怒りを沸点にまで押し上げた。

「なんで何も言わないんだ! あんたがそんなだから、母さんも、結衣も、俺も、みんなバラバラなんだ! あんたがこの家を壊してるんだぞ!」

僕がそう叫んだ時、父は初めて、僕の目をまっすぐに見つめた。その瞳の奥に宿っていたのは、怒りではなく、絶望に近いほどの深い疲労と、そして、僕には理解できない愛情の色だった。彼は一言だけ、絞り出すように呟いた。

「……お前には、まだ分からん」

その夜、僕は再び父が大黒柱に語りかけている姿を見た。それは祈りのようにも、別れの挨拶のようにも見えた。

第三章 嵐の夜の契約

運命の夜は、嵐と共にやって来た。

窓を叩きつける風雨の音は、まるで世界の終わりのようだった。家はこれまで経験したことのないほど激しく揺れ、もはや悲鳴と呼ぶべき軋みを上げ続けていた。僕たち家族は、リビングの中央で、ただ身を寄せ合うことしかできなかった。

「翔太、怖い……」

結衣が僕の腕にしがみつく。母は、ただただ神に祈るように両手を組んでいた。父だけが、覚悟を決めたように、じっと大黒柱を見つめていた。

その時だった。

メリメリ、と天井が裂ける不吉な音が響き渡った。見上げると、僕たちの頭上の太い梁が、ゆっくりと、しかし確実にこちらへ向かって傾いてきていた。

「危ない!」

僕は結衣を突き飛ばそうとしたが、間に合わない。恐怖に凍り付く妹の、絶望に歪んだ顔がスローモーションで見える。

――もう、終わりだ。

そう思った瞬間、僕の目の前を一つの影が疾風のように駆け抜けた。父だった。

父は、僕が今まで見たこともないような俊敏な動きで結衣の上に覆いかぶさった。そして、次の瞬間、轟音と共に梁が落下し、父の背中を直撃した。

「父さん!」

僕と母の絶叫が、嵐の音にかき消される。

しかし、僕が想像していたような血腥い惨状は、そこにはなかった。

梁の下敷きになったはずの父の体は、おびただしい数の光の粒子となって、淡く発光していた。金色の光は、まるで意思を持っているかのように、ゆっくりと宙を舞い、そして、あの脈打つ大黒柱へと吸い込まれていったのだ。

光が完全に吸収されると、柱は力強い鼓動と共に一度だけ眩い光を放ち、それまで家を揺るがしていた振動が、嘘のようにピタリと止んだ。

嵐はまだ続いている。なのに、家の中だけが、墓地のような静寂に包まれていた。

父がいた場所には、一冊の古いノートが落ちていた。父の日記だった。震える手でそれを開くと、最後のページに、全ての答えが記されていた。

『この家は、高槻家の愛で生きる。しかし、愛が尽きれば、家長の生命を代償として、その絆を繋ぎとめる。それが、初代当主が家と交わした契約。俺の代で、この家を終わらせるわけにはいかない。翔太、美佐子、結衣。俺の心は、お前たちから離れたことなど一度もなかった。ただ、それを伝える術を、俺は忘れてしまっただけなんだ。不器用な父親で、すまなかった。俺がこの家の新しい核となり、お前たちを永遠に守ろう。それが、俺にできる、最後の愛情表現だ』

涙が溢れて、文字が滲んだ。父の沈黙は、無関心ではなかった。それは、家族への愛を失い、家の崩壊を止められない自分の無力さに対する、絶え間ない苦しみそのものだったのだ。屋根裏からのあの音は、生命力の尽きかけた家が上げる、最後の悲鳴だった。父は、家族が互いを傷つけ合う声を聞くたびに、家が軋む音を聞くたびに、一人でその痛みに耐えていたのだ。僕が父を罵倒したあの時でさえも。

第四章 ただいま、父さん

父が消え、家が沈黙を取り戻してから、数日が過ぎた。

嵐は去り、まるで何事もなかったかのように、穏やかな陽光が窓から差し込んでいる。窓ガラスのひびは消え、壁の亀裂もいつの間にか塞がっていた。家は、父の命を吸収し、再生したのだ。

しかし、家の中には、埋めようのない大きな空洞ができていた。父の指定席だったソファ。誰も読まなくなった新聞。残された母と妹と僕の間には、言葉にならない感情が漂っていた。僕たちは、父の大きすぎる犠牲の上で、生き永らえてしまったのだ。

あの日以来、母は泣き言を言わなくなった。結衣はスマホをいじらず、黙って食事の準備を手伝うようになった。僕たちは、失って初めて、父が守ろうとした「家族」というものの輪郭を、おぼろげながら理解し始めていた。

僕は、家を出るという考えを捨てた。この家は、もはや単なる建物ではない。父そのものなのだ。

僕はそっとリビングの大黒柱に手を触れた。すると、確かな温もりが手のひらに伝わってきた。それは、幼い頃に感じた、父の無骨で、けれど優しい手の温もりと全く同じだった。耳を当てると、トクン、トクン、と穏やかで力強い鼓動が聞こえる。それは、僕たちを見守る、父の心臓の音だった。

父は死んだ。物理的には、もうこの世界にはいない。けれど、父は生きている。この家の温もりとして、僕たちを包む空気として、僕たちの心臓のすぐ側で、永遠に生き続ける。不在でありながら、誰よりも確かな存在として、ここに在る。

それが、僕たち家族が受け入れた、切なくも温かい真実だった。

僕は玄関に向かい、一度外に出て、もう一度ドアを開けた。そして、誰もいないはずのリビングに向かって、少し照れくさく、けれどはっきりと、こう言った。

「ただいま、父さん」

応えるように、大黒柱が、一瞬だけ、柔らかな光を放った気がした。僕の頬を、涙ではない、温かい何かが静かに伝っていった。

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