悲しみの継承者

悲しみの継承者

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第一章 空虚な胸と父の涙

古書店「時の栞」の主、水島湊の胸には、物心ついた時から奇妙な空洞が広がっていた。それは痛みというほど鋭くはなく、悲しみというほど具体的でもない。ただ、冷たい風が吹き抜けるような、埋めようのない喪失感。古書の黴とインクの匂いが充満する静寂の中で、湊はその空虚さと寄り添うように生きてきた。それが、彼にとっての日常だった。

その日常が、ある夜、静かに揺らいだ。

深夜、喉の渇きを覚えて階下へ降りた湊は、書斎から漏れる微かな光に気づいた。父・健司の書斎だ。普段は鍵が掛かっているはずのその扉が、僅かに開いている。息を殺して覗き込むと、湊は息を呑んだ。

月明かりが差し込む部屋の中央で、父が古い桐の木箱を膝に乗せ、一心に抱きしめていた。その肩は小刻みに震え、抑え殺した嗚咽が静寂を切り裂く。それは湊が今まで一度も見たことのない、父の弱々しい姿だった。まるで、失われた何かを必死で手繰り寄せようとする、悲痛な儀式のように見えた。

父は湊が幼い頃に母を亡くして以来、感情を表に出すことの極端に少ない男だった。無口で、不器用で、その背中はいつも岩のように硬質だった。そんな父が、毎月決まって満月の夜に、あの木箱を前にして涙を流していることを、湊はこの時初めて知った。

翌朝、食卓で向かい合った父は、いつもの無表情な父だった。昨夜の面影はどこにもない。

「父さん、昨日の夜……」

湊が切り出そうとした瞬間、健司の持つ箸がぴたりと止まった。その目に射るような光が宿る。

「何も見るな。何も聞くな。お前には関係ない」

突き放すような言葉だった。しかし、その声には、拒絶とは異なる、何かを守ろうとする必死さが滲んでいた。

湊はそれ以上、何も言えなかった。だが、直感が囁いていた。自分の胸に広がるこの空虚な喪失感と、父が抱きしめるあの木箱は、見えない糸で繋がっている。父は何を隠しているのか。水島家には、自分が知らない秘密があるのではないか。

その日から、湊の世界は少しずつ色合いを変え始めた。古書のページをめくる指先に、これまで感じたことのない焦燥感が混じるようになった。そんな彼の前に、一人の女性が現れた。

「あの、この本、探しているんです」

風鈴の音と共に店に入ってきた彼女は、太陽の匂いをまとっているようだった。陽菜と名乗るその女性は、屈託のない笑顔で湊に話しかけてきた。彼女が探していたのは、絶版になった古い詩集だった。

「ここになら、あるかもしれないって聞いて」

彼女と話している間、不思議と胸の風が凪ぐのを湊は感じていた。彼女の存在そのものが、湊の空洞に柔らかな光を投げかけているようだった。この出会いが、固く閉ざされた真実の扉を開く鍵になることを、この時の湊はまだ知らなかった。

第二章 重荷の正体

父との間に見えない壁ができてから、湊は家の過去を漁るようになった。屋根裏の埃をかぶった段ボール箱、祖父母のアルバム、そして書斎の片隅に置かれたままになっていた、祖父の日記。それらの中に、何かしらの手がかりがあるはずだった。

祖父の日記は、達筆だが色褪せたインクで綴られていた。日々の暮らしの記録に混じって、時折、謎めいた記述が顔を出す。

『満月。重荷を確かめる。我が息子の健司は、まだこの痛みの器たるには若すぎる。願わくば、この鎖が彼を縛り付けぬことを』

『妻の命日から十年。悲しみは薄れるどころか、箱の中で純度を増していくようだ。これは呪いか、それとも愛の証か』

「重荷」「痛み」「器」「箱」。キーワードが、湊の頭の中で点滅する。祖父が幼い湊に、昔話のように語ってくれた言葉が蘇った。「湊、いいか。俺たちの家はな、ただの血だけじゃない。もっと大事なものを、ずーっと受け継いできたんだ。それはな、時々、とっても重たい心の重荷なんだよ」。当時は意味も分からず聞き流していた言葉が、今になって鋭い棘のように胸に突き刺さった。

その日も、陽菜が店に顔を出した。彼女は目当ての詩集が見つからないにもかかわらず、週に一度は「時の栞」を訪れるようになっていた。

「湊さん、なんだか難しい顔してますね。何か悩み事ですか?」

カウンター越しに珈琲を飲みながら、陽菜が心配そうに覗き込んでくる。その真っ直ぐな瞳に、湊は初めて自分の内側を曝け出したいという衝動に駆られた。

「僕の家は、少し、変わっているのかもしれない」

湊は、父のこと、木箱のこと、そして自分自身の胸の空洞について、ぽつりぽつりと語り始めた。それは、誰にも打ち明けたことのなかった、彼の魂の告白だった。

陽菜は黙って、最後まで耳を傾けてくれた。そして、静かに言った。

「重荷、ですか。でも、それって、一人で背負わなきゃいけないものなのかな。家族って、そういう重荷を少しずつ分け合って持つためにいるんじゃないかな」

その言葉は、乾いた湊の心に染み渡る慈雨のようだった。分け合う。その発想が、湊にはなかった。水島家の男は、代々一人で何かを背負ってきた。父も、祖父も。だが、本当にそれでいいのだろうか。

陽菜の言葉に背中を押され、湊の決意は固まった。父が守ろうとしているものの正体を、自分の目で確かめなければならない。そして、それがどんな重荷であれ、父一人に背負わせてはおけない。

次の満月が近づいていた。父が数日間の出張で家を空ける夜、湊は固く閉ざされた書斎の扉の前に立った。ポケットの中で、以前こっそりと作っておいた合鍵が、冷たく重い光を放っていた。

第三章 愛という名の儀式

重い扉を開けると、月明かりが書斎を青白く照らし出していた。部屋の中央に鎮座する、あの桐の木箱。湊はごくりと唾を飲み込み、震える手でその蓋に触れた。ゆっくりと、蓋を持ち上げる。

しかし、中にあったものは湊の想像を遥かに裏切るものだった。そこにあったのは、一枚の古びた楽譜と、数枚の色褪せた家族写真、そして――空っぽの、小さなガラスの小瓶だけだった。財宝でも、呪いの品でもない。あまりに質素なその中身に、湊は呆然と立ち尽くした。これが、父が涙を流し、祖父が「重荷」と記したものの正体なのか。

「……何をしている」

背後から聞こえた声に、湊の心臓は凍りついた。振り返ると、そこには出張に行ったはずの父、健司が立っていた。その顔は怒りよりも深い悲しみに彩られていた。

「お前にだけは、見せたくなかった」

健司は力なく呟き、ゆっくりと息子に歩み寄った。そして、観念したように、水島家に代々伝わる秘密を語り始めた。

「これは、呪いじゃない。儀式だ。……愛の、儀式なんだ」

健司の言葉は、衝撃的な事実を明らかにした。水島家の長男は代々、「大切な人を失った悲しみ」そのものを、このガラスの小瓶に封じ込め、受け継いできたのだという。それは、残された者が悲しみの奔流に飲み込まれ、人生を諦めてしまわないようにと、先祖が生み出した知恵であり、祈りだった。悲しみは消せない。ならば、それと共存するために、形を与え、器に収め、次の世代へと託す。失った者への愛を忘れないために。

健司が毎月涙を流していたのは、亡き妻――湊の母――への悲しみが風化してしまわないよう、木箱の中にある先祖たちの悲しみと共鳴させ、その純度を保つための行為だった。彼は、その悲しみを湊に継がせることを、ずっと躊躇していた。愛する息子に、この冷たく重い感情の結晶を背負わせることに耐えられなかったのだ。

「お前が感じていた胸の空虚感は、本来お前が受け継ぐはずだった、母さんの悲しみの『残響』だ。俺が必死で堰き止めてきたから、不完全にしかお前に届かなかった。すまない……お前をずっと、苦しめてきた」

父の告白に、湊は言葉を失った。あの無愛想な背中が、岩のような沈黙が、すべて自分を守るための鎧だったのだ。父はたった一人で、母を失った悲しみと、先祖代々の悲しみの両方を抱え、自分という防波堤となって湊を守り続けてくれていたのだ。

湊の目から、熱いものが溢れ出した。胸の空洞が、父の深い愛情でじわりと満たされていくのが分かった。それは、生まれて初めて感じる、温かい痛みだった。

第四章 悲しみの継承者

「父さん」

涙で滲む視界の中、湊ははっきりとした声で言った。

「その悲しみ、僕にも半分、持たせてほしい。父さん一人で抱えるものじゃない。それが、家族だろう?」

陽菜の言葉が、湊の口をついて出ていた。健司は驚いたように息子を見つめ、やがてその目にも涙が浮かんだ。彼は何度も頷き、そして初めて、父親らしい優しい手で湊の頭を撫でた。

その夜、書斎で儀式が執り行われた。父と息子は向かい合い、木箱を開ける。健司はガラスの小瓶を手に取り、静かに祈りを捧げた。そして、その小瓶を湊の手に渡す。

湊が小瓶を受け取った瞬間、冷たい奔流が彼の全身を駆け巡った。それは、ただの悲しみではなかった。会ったこともない曽祖父の、妻を亡くした絶望。若くして子を失った高祖母の慟哭。そして、最愛の妻を喪った父の、深く静かな哀しみ。数百年分の「喪失」が、膨大な愛の記憶と共に、湊の魂に流れ込んできた。

冷たくて、重い。だが、不思議と怖くはなかった。胸の空洞が、先祖たちの愛と悲しみで満たされていく。それは空っぽであることよりも、ずっと温かかった。湊は、自分が決して一人ではないことを、初めて本当の意味で理解した。

数日後、湊は店のカウンターで、陽菜に全てを話した。もちろん、「感情を瓶に封じ込める」などという非現実的な話はせず、比喩的な言葉を選んで。

「僕の家は、喜びだけじゃなく、悲しみも、大切なものとして受け継いでいくんだ。父さんはずっと、僕の代わりにその重荷を背負ってくれていた」

陽菜は、彼の言葉の奥にある真実を感じ取ったように、優しく微笑んだ。

「素敵なご家族ですね。湊さんが大切にしているものなら、私も大切にしたいな」

その言葉が、湊の未来を明るく照らした。

「時の栞」の窓から、柔らかな午後の光が差し込んでいる。湊の胸には、確かに「悲しみ」があった。しかし、それはもはや冷たい風が吹き抜ける空洞ではない。愛した人々の記憶と共に在る、温かな重みだった。喜びも、悲しみも、すべて抱きしめて生きていく。それが、水島家に生まれた自分の役目なのだ。

湊は書斎へ向かうと、父が大切にしていた桐の木箱の横に、新しい、自分自身の小さなガラス瓶をそっと置いた。それは空っぽだった。まだ何も入っていない、未来のための器。

これから出会うであろう喜びを、そして、いつか必ず訪れるであろう悲しみを、愛する人々と分かち合い、受け入れていく。その決意の証として、その小瓶は静かに光を放っていた。家族とは、血を分けることだけではない。魂の重荷を、愛と共に分け合う者たちの、永遠の物語なのかもしれない。

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