第一章 映らない記憶
僕の家族が住む家は、少し変わっている。リビングの白い漆喰の壁、二階へ続く階段の側面、磨き上げられた廊下の床。家のあらゆる平面は、僕たちの記憶を映し出すスクリーンだった。
それは、まるで水の底から見上げる水面のように、常に揺らめきながら過去の断片を再生し続けている。父さんが僕を肩車して笑った日の、高い視点からの庭の景色。母さんの焼いたアップルパイの湯気が立ち上る、甘い香りが漂ってきそうな映像。家族旅行で訪れた海の、肌を刺すような陽光と、耳の奥で繰り返される波の音。それらは僕たち家族の歴史そのものであり、この家は幸福な記憶で満たされた、巨大なアルバムだった。
僕、蒼太(そうた)は、壁に映る過去を眺めるのが好きだった。コーヒーを片手に、ソファに深く身を沈め、万華鏡のように移り変わる思い出に浸る。それは、自分が確かに愛されて育ったという事実を、揺るぎない証拠として見せてくれる、至福の時間だった。
しかし、その完璧なアルバムには、たった一つだけ、意図的に破り取られたかのような空白のページが存在した。
妹の陽菜(ひな)が亡くなった、八年前の、あの夏。
陽菜は、僕の三つ下の、花のように笑う女の子だった。病弱ではあったが、その笑顔は家の記憶の中でもひときわ鮮やかに輝いている。彼女が庭でシャボン玉を追いかける姿。僕の背中に隠れて、はにかむ仕草。だが、彼女が亡くなる前後の記憶だけは、まるでノイズの走る古いフィルムのように、著しく不鮮明だった。
壁には、白い病室のベッドで静かに眠る陽菜の姿が、時折、霧がかるように映し出される。しかし、その顔はぼやけて判然とせず、僕たちが彼女を見舞う光景も、誰かの泣き声も、すべてがくぐもった音のように遠い。そして、彼女が息を引き取ったとされる決定的な瞬間は、何度意識を集中させても、ただの白い光の明滅にしか見えなかった。
「父さん、どうして陽菜が死んだときの記憶だけ、はっきり映らないんだろう?」
ある日の夕食後、僕はリビングの壁に映る、陽菜との幼い日の思い出を見ながら、切り出した。父の和真(かずま)は、読んでいた新聞から目を上げることなく、短く答えた。
「……辛い記憶だからな。家も、気を遣っているんだろう」
「気を遣う?家が?」
「そういうものだ」
それきり、父は口を閉ざしてしまった。隣で食器を片付けていた母の美咲(みさき)が、僕の肩を優しく叩いた。
「蒼太。あまり、昔のことばかり考えないの。陽菜も、あなたが前を向いてくれることを望んでいるわ」
母の瞳は優しかったが、その奥に、何か硬くて冷たい、触れてはいけないものがあるような気がした。両親は、この話題を巧みに避けている。それは、単なる悲しみからくるものだけではない、もっと別の種類の何かだ。
八年前の空白。それは僕の心にも、ぽっかりと穴を開けていた。陽菜の死の周辺だけ、僕自身の記憶も曖昧なのだ。あまりのショックで、脳が記憶に蓋をしているのだろうと、これまで自分に言い聞かせてきた。だが、本当にそうだろうか。
壁に映る、編集されたかのように美しい思い出の数々。そして、そこから意図的に排除された、一つの真実。僕は、この家に隠された謎を、自分の手で解き明かさなければならないと、強く感じていた。それは、失われた妹のためであり、そして何より、偽りの平穏に浸る自分自身のためでもあった。
第二章 ひび割れた万華鏡
空白の記憶を追い求める日々が始まった。僕はまず、家の物理的な探索から着手した。記憶を映し出すのは壁や床だけではない。この家そのものが、巨大な記憶装置なのだ。ならば、その中枢、あるいは綻びがどこかにあるはずだった。
書斎の本棚の裏、床下の収納庫、普段は開けることのない客間。家中のあらゆる場所を調べたが、手がかりは見つからない。両親は僕の奇妙な行動に気づいているようだったが、何も言ってはこなかった。ただ、遠巻きに、心配そうな、あるいは何かを恐れるような目で見守っているだけだった。
探索が行き詰まりかけたある雨の日、僕は屋根裏部屋に登ることを思いついた。埃っぽく、薄暗い空間。捨てられた家具や、季節外れの電化製品が、白い布を被って静かに眠っている。その片隅に、古びた木箱が一つ、ぽつんと置かれていた。
箱を開けると、中には陽菜の遺品が収められていた。小さなリボンのついた髪飾り、角が丸くなった絵本、そして、白木の小さなオルゴール。僕はそのオルゴールを手に取った。陽菜が持っていた記憶はない。これもまた、僕の曖昧な記憶の彼方にあるものなのだろうか。
そっと蓋を開ける。カチリ、と小さな音がして、澄んだ、しかしどこか物悲しい旋律が流れ出した。それは、僕が今まで一度も聴いたことのない曲だった。だが、なぜだろう。このメロディには、不思議な既視感があった。そうだ、これは、母が時折、無意識に口ずさんでいる鼻歌の旋律だ。
その瞬間、階下のリビングから、ガラスが砕けるような鋭い音が響いた。僕は慌てて屋根裏を飛び出し、階段を駆け下りた。
リビングの光景に、僕は息を呑んだ。壁一面に映し出されていた穏やかな家族の記憶が、激しく乱れていたのだ。まるで故障したテレビのように、映像は明滅し、歪み、引き伸ばされている。万華鏡が、内側からひび割れていくようだった。
そして、そのノイズの合間に、僕は見てしまった。今まで一度も映し出されたことのなかった、断片的な光景を。
――雨に濡れたアスファルト。けたたましいブレーキ音。
――泣き叫びながら、何かにすがりつく母の姿。
――その隣で、血の気を失った顔で、空を見上げて呆然と立ち尽くす父。
――そして、赤いワンピースを着た小さな女の子の、力なく投げ出された手。その傍らに転がる、見覚えのある、白木のオルゴール。
フラッシュバックは一瞬で消え、壁はまたいつもの穏やかな記憶を映し始めた。しかし、僕の心臓は激しく鼓動していた。今のは、何だ?病室で安らかに眠ったはずの陽菜。僕たちの知る思い出とは、あまりにもかけ離れた、暴力的で、残酷な光景。
オルゴールの旋律が、まだ耳の奥で鳴り響いている。このメロディが、家の記憶を乱すトリガーになったのだ。
僕たちが信じてきた「家族の歴史」は、美しい嘘で塗り固められた、偽りの物語だったのかもしれない。確信にも似た戦慄が、背筋を駆け上った。
第三章 残響の真実
僕はオルゴールを握りしめ、リビングの中央に立った。父と母は、壁の異変に気づかなかったかのように、それぞれの席で静かにしていた。だが、その空気は張り詰め、まるで嵐の前の静けさのようだった。
「説明してほしい」
僕の声は、自分でも驚くほど低く、硬かった。父は新聞から目を離さず、母は伏せた睫毛を震わせている。
「さっき、壁に映った。雨の日の、事故の光景が。陽菜は、病気で死んだんじゃない。そうだろ?」
沈黙が、重くのしかかる。僕は意を決して、オルゴールの蓋を再び開けた。あの物悲しい旋律が、リビングに響き渡る。すると、壁の記憶が再び乱れ始め、先ほどの凄惨な光景が、今度はもっと鮮明に、断続的に映し出された。
母が、嗚咽を漏らした。父は、ついに新聞を置き、深く、深い溜息をついた。その顔には、長年隠し通してきた秘密の重みが、深い皺となって刻まれているように見えた。
「……お前の、言う通りだ」
父の絞り出すような声が、オルゴールの音色に重なった。
「この家はな、蒼太。記憶を映し出すだけじゃない。記憶を、『修正』する家なんだ」
「修正……?」
「辛すぎる記憶、耐えられない現実を、穏やかなものに上書きする。我々が、そう望んだからだ」
父の告白は、僕の足元を揺るがす、驚くべきものだった。陽菜は、八年前の雨の日、家の前の道で車にはねられ、即死だった。あまりの突然の悲劇に、母は心を病み、父も生きる気力を失った。そんな時、この家の持つ特殊な能力を知ったのだという。
「私たちは、陽菜が事故で苦しみながら死んだという事実に耐えられなかった。だから、家に願ったんだ。『あの子は、病気で、けれど安らかに、皆に見守られて眠りについた』という記憶に、書き換えてくれ、と」
壁に映る、白い病室の穏やかな光景。それは、僕たちがすがりついてきた、家が作り出した巨大な幻影だった。僕自身の曖昧だった記憶も、事故のショックと、この家による記憶の補完が原因だったのだ。僕たちは、偽りの幸福を映し出す壁に囲まれ、真実の悲しみから目を背けて生きてきた。
「じゃあ、このオルゴールは……」
「陽菜が、事故の直前まで手に持っていたものだ。あの子が一番好きだった曲でな……。このメロディだけが、家の『修正機能』に干渉する、唯一のバグだった。だから、屋根裏に封印していたんだが……」
父は、苦渋に満ちた顔で僕を見た。
僕の価値観は、根底から崩壊した。家族の温かい思い出だと思っていたものは、全てプログラムされた偽りのデータだったのか?僕たちが分かち合ってきたはずの愛や絆も、この家が設計した幻想に過ぎなかったのか?
笑い声が聞こえる。壁では、幼い僕と陽菜が、庭で無邪気に駆け回っている。その光景が、今はひどく空虚で、残酷なものに見えた。僕たちが住んでいたのは、家族の温もりに満ちた家ではなかった。それは、真実という名の死体を隠した、美しい墓標だったのだ。
第四章 家を出る日
真実を知ってから数日、僕は抜け殻のようだった。壁に映る偽りの幸福を見るたびに、吐き気を覚えた。父と母は、何も変わらない日常を続けようとしていたが、その顔には、綻びてしまった嘘を取り繕うかのような、痛々しい疲労が滲んでいた。
僕たちは、もう同じ夢を見ることはできない。
ある朝、僕は両親の前で宣言した。
「この家を出る」
母は息を呑み、父は黙って僕の顔を見つめた。
「どうして……?蒼太。ここにいれば、私たちはこれからも……」
「『幸せ』に暮らせるって?母さん、これは幸せじゃない。これは、停滞だ。僕たちは、陽菜の死からも、悲しみからも、八年間ずっと逃げ続けてきただけだ」
僕の言葉は、彼らが守り続けてきた脆い平穏を、容赦なく突き刺した。
「僕は、行くよ。ちゃんと、陽菜の死と向き合いたい。辛くても、痛くても、本当の記憶と一緒に生きていきたいんだ」
それは、両親への決別宣言であると同時に、僕自身の再生への誓いだった。
出発の日。荷物は小さなバッグ一つだけだった。玄関で靴を履く僕の背中に、母が声をかけた。
「……行ってらっしゃい」
振り返ると、母は泣いていた。それは、僕が今まで見たことのない、偽りのない、本当の悲しみを湛えた涙だった。父は何も言わず、ただ僕の肩を一度だけ、強く叩いた。その無言の掌に、後悔と、贖罪と、そして息子への僅かな希望が込められているように感じた。
ドアを開け、外に出る。初夏の眩しい光が、僕の目を射抜いた。振り返ると、僕たちの家が静かに佇んでいる。あの壁は今も、僕がいた頃と変わらず、穏やかで幸せな家族の姿を映し続けているのだろう。偽りの記憶の中でしか生きられない両親と、真実の痛みと共に生きていく僕。どちらが正しくて、どちらが間違っているというわけではない。ただ、僕たちは、それぞれの「家族」の形を選んだのだ。
僕は、空を見上げた。不確かで、時に残酷な現実が、ここから始まる。壁には決して映らない、僕だけの物語が。
ふと、陽菜が好きだったという、あのオルゴールの旋律が頭に浮かんだ。僕は、それを静かに口ずさんでみる。それはもう、ただ悲しいだけの歌ではなかった。忘れてはいけない真実と、これから自分の足で築いていくであろう、本物の記憶への、誓いの歌に聞こえた。
家族の愛は、偽りの記憶の中にあったのだろうか。それとも、真実の痛みの中にこそ、その核は宿るのだろうか。
その答えを探すための、永い旅が、今、始まった。