虚ろなる家族樹(かぞくじゅ)
第一章 枯れゆく梢
僕の家には、巨大な樹が一本生えている。乳白色の幹は空へと伸び、季節ごとに色を変える葉は、僕たち家族の命そのものだった。この世界では、誰もが「家族の樹」に自らの髪や爪を捧げ、その生命と運命を共にする。樹が栄えれば家族は安寧を享受し、樹が枯れれば、家族の存在もまた、土くれのように世界から消え失せるのだ。
そして今、僕たち家族の樹だけが、静かに死に向かっていた。
「リヒト、見てごらん。母さんの幸福を」
母のエルナが、ひび割れた土に膝をつきながら、僕の顔を覗き込んだ。その瞳は澄んだ湖面のようだったが、水底には拭えない不安が澱のように沈んでいる。僕は頷き、母の瞳をじっと見つめた。僕には、家族と認識した者の「最も幸福だった瞬間」を、追体験できる力がある。
視界が陽光に塗りつ潰される。頬を撫でる風は柔らかく、焼きたてのパンと野花の蜜のような甘い香りがした。丘の上、広げられたチェック柄の布の上で、父さんと母さん、そして幼い妹のミナが笑い合っている。黄金色の光が降り注ぐ、完璧なピクニックの光景。心が温かさで満たされる。樹もまた、この幸福を糧に生き長らえるはずだ。
だが、僕は気づいてしまった。何度この光景を見ても、拭えない違和感。家族の輪の中、僕とミナの間に、ぽっかりと空いた不自然な空間。そこには誰かが座っているはずなのに、景色が歪んで何も見えない。まるで、大切な一枚が破り取られた絵画のようだった。風がその空白を吹き抜けるたび、僕の背筋を冷たいものが走り抜ける。
第二章 空白の輪郭
父のゲルトは、寡黙に枯れ枝を剪定していた。その背中に滲む焦燥は、乾いた枝が折れる音に重なって響く。
「父さん」
僕が声をかけると、彼は汗を拭い、無言でこちらを向いた。その黒曜石のような瞳を覗き込む。
――視界に映ったのは、産着に包まれた赤ん坊の僕を、不器用な手つきで抱き上げる若き日の父の姿だった。彼の頬を伝う一筋の涙が、言葉よりも雄弁にその喜びを物語っていた。だが、ここにもあった。彼の肩越しに、祝福する誰かの手が伸びているはずの空間が、歪んだ虚空になっている。
妹のミナにも試した。彼女の記憶は、満天の星空の下、家族四人で見上げた夜だった。無数の星が降り注ぐ幻想的な光景。けれど、僕の隣で星を指差しているはずのミナの視線の先には、やはり人型の「空白」が揺らめいているだけだった。
「どうして……」
僕たちの幸福は、いつも不完全だった。家族の輪は、どこか欠けている。その欠落こそが、樹を蝕む毒なのではないか。
不安に駆られ、僕は樹の根元へと向かった。硬く、ひび割れた大地。その裂け目に、僕はそれを見つけた。硝子玉のように完全に透き通った、小さな木の実。家族の樹からごく稀に生るという「無色の木の実」。何の感情も宿さず、触れると氷のように冷たい。通常はすぐに朽ちてしまうはずなのに、それはまるで時が止まったかのように、静かな光を宿していた。
第三章 硝子の果実
僕は冷たい硝子の実を、祈るように両手で包み込んだ。これを握りしめていれば、何かが変わるかもしれない。淡い期待を胸に、再び母の元へ戻った。
「母さん、もう一度だけ」
母は訝しげな顔をしたが、僕の真剣な眼差しに何かを感じ取ったのか、静かに頷いた。僕は実を強く握り、母の瞳の奥深くを見つめた。
いつものピクニックの光景が広がる。陽光、笑い声、花の香り。
しかし、次の瞬間、世界がぐにゃりと歪んだ。手の中の実が、脈打つように熱を帯び始める。僕が視線を向けた家族の輪の「空白」――その部分が、掌中の実の中で黒い靄となって渦を巻き始めたのだ。
「うっ……!」
靄が急速に晴れていく。そして、僕は見た。
空白だった場所に、一人の少年が座っていた。僕より少し年上だろうか。日に焼けた肌、僕と同じ鳶色の髪。彼は、満面の笑みで母が焼いたクッキーを頬張っていた。その顔は、なぜか思い出せない。けれど、彼の存在がそこにあるだけで、ピクニックの光景は初めて完璧な「幸福」として完成する。
幻は一瞬で消え、僕は息を切らして母から目を離した。手の中の実は、まだ微かに熱を帯びている。
あれは、誰だ?
第四章 偽りの根
樹の枯死は、もう誰の目にも明らかだった。葉はすべて落ち、枝はまるで老人の骨のように白く乾ききっている。それに呼応するように、家族は次々と倒れた。父は熱に浮かされ、母の頬はこけ、ミナの笑い声も聞こえなくなった。僕たちの時間は、もう尽きかけていた。
偽りの幸福では、もう樹は救えない。ならば、真実を暴くしかない。
僕は覚悟を決めた。眠る父と母、そしてミナの髪を、一房ずつそっと切り取る。その三つの小さな束を、無色の木の実に丁寧に結びつけた。これは賭けだ。家族全員の繋がりをこの実に託し、樹の核心に触れる。
樹の最も太い幹に手を触れると、その冷たさに心臓が凍るようだった。僕は震える手で、髪を結んだ実を、幹のうろに強く押し込んだ。
その瞬間、世界が反転した。
僕の脳内に、濁流のような情報が流れ込んできた。それは家族の記憶ではない。冷たく、無機質で、巨大なシステムの設計図のような記憶。樹そのものの意思。
『幸福ヲ観測。感情ヲ抽出。生命維持エネルギーニ変換』
『対象個体ノ不適合ヲ検知。関係性データヲ削除。記憶野ニ空白ヲ生成』
『警告。エネルギー効率低下。システム寿命ノ限界』
頭に響くのは、声なき声。幸福な記憶は、僕たち家族が本当に体験したものではなかった。樹が僕たちの微かな感情の機微を吸い上げ、それを元に生成した「偽りの楽園」の映像だったのだ。そして、あの空白。それは、このシステムにとって「不適合」と判断され、存在を消された誰かの痕跡。
――僕の、兄のレオの。
彼は、この偽りの幸福に気づき、樹に抵抗したのだ。だから、僕たちの記憶から、家族という概念から、強制的に削除された。樹が枯れているのは、兄という重要なパーツを失った家族の魂が、もう偽りの記憶では繋ぎ止められなくなっているからだった。
第五章 楽園の破壊者
全てを理解した。この家族の樹は、僕たちを守るための聖域などではなかった。僕たちを「家族」という単位で永遠に閉じ込め、その魂から幸福の感情を搾り取るための、美しき牢獄だったのだ。
選択肢は二つ。このまま偽りの記憶の中で、家族と共に緩やかに消滅するか。あるいは、この呪われた樹を破壊し、痛みも悲しみも全て含んだ、真実の過去を取り戻すか。
答えは、決まっていた。
僕は樹の根元に仁王立ちになり、再び実を握りしめた。今度は、幸福な記憶を視るためじゃない。僕の全てを、この樹に叩きつけるためだ。
「返せ」
声が、乾いた喉から絞り出される。
「僕たちの家族を、僕の兄さんを、返せ!」
僕は能力を逆流させた。幸福な追体験ではない。このシステムへの燃えるような拒絶と、真実を渇望する魂の叫びを、実を通して樹の核心へと注ぎ込む。
実は、太陽のように眩い光を放った。ビリビリと空気が震え、僕が手を当てていた幹に、大きな亀裂が走る。
パリン、と硝子が砕け散るような音と共に、偽りの記憶が崩壊していく。そして、本物の過去が、奔流となって僕の心に流れ込んできた。
雨の日にずぶ濡れで帰ってきた僕を、叱りながらもタオルで包んでくれた母の温もり。仕事のことで父と母が激しく口論していた夜の、張り詰めた空気。転んで泣く僕を背負って、家まで走ってくれた兄レオの、汗と土の匂いが混じった広い背中。
それらは、光り輝く幸福だけではなかった。痛みも、悲しみも、怒りも、全てがごちゃ混ぜになった、不器用で、けれどどうしようもなく愛おしい、僕たちだけの本物の記憶だった。
第六章 はじまりの荒野
ゴウ、と風が哭くような音を立てて、巨大な樹は砂のように崩れ落ち、光の粒子となって霧散していった。後に残されたのは、ひび割れた大地と、呆然と立ち尽くす僕たち家族だけだった。
父と母、そしてミナが、ゆっくりと目を開ける。彼らの瞳には、もう偽りの幸福の色はない。困惑と、深い悲しみと、失われた者への追憶、そして、微かな光が宿っていた。僕たちは互いの顔を見合わせた。何年も共にいたはずなのに、まるで今、初めて本当に出会ったような、ぎこちない沈黙が流れる。
母の頬を、一筋の涙が伝った。それは偽りの記憶の中で流した涙とは違う、確かな重みと温かさを持った、本物の涙だった。
僕たちは全てを失った。安寧を与えてくれた(と思っていた)樹も、偽りとはいえ輝いていた幸福な日々も。しかし、同時に全てを取り戻したのだ。痛みと共に生きる自由を。欠落さえも愛おしむ、本物の家族の絆を。
僕は、崩れた樹の根があった場所に、小さな緑の芽が顔を出しているのに気づいた。それは、この荒野で芽吹いた、か弱くも力強い生命の兆し。これから僕たちがどう生きるのか、どこへ向かうのかは分からない。だが、僕たちはもう、虚ろな楽園の囚人ではない。
僕はこの荒野で、僕たちの本当の物語を、これから始めればいい。