石化する追憶
第一章 共鳴と剥落
朝靄が窓ガラスを濡らす頃、俺――カイの左腕に、内側からガラスの破片で抉られるような激痛が走った。焼けるような熱が神経を駆け巡り、思わず手にしていたフォークを取り落とす。床に落ちた金属音が、静かな食卓に不協和音を響かせた。
「カイ? どうかしたの?」
向かいに座る母さんが、心配そうに顔を上げた。だが、その声はどこか遠く、輪郭が滲んで見える。母さんの顔にかかった靄は、昨日よりも濃くなっている気がした。
「……なんでもない。ちょっと、貧血かも」
俺は平静を装って嘘をついた。本当のことなど、言えるはずがない。これは『共鳴する痛み』。血を分けた誰かが、この世界の誰かから『忘れ去られ』始めた合図だ。
この世界では、奇妙な現象が蔓延していた。人々が血縁者への記憶や愛情を失うと、その対象者は他者の認識から徐々に薄れ、最後には物理的に消滅してしまうのだ。まるで、初めから存在しなかったかのように。俺には、その忘却の瞬間を、身を裂く痛みとして体感する呪われた体質があった。
痛みが波のように引いていく。深呼吸を繰り返し、恐る恐る左腕の袖をまくった。肘の少し下の皮膚が、まるで古い陶器のように白く硬化し、蜘蛛の巣のような微細な亀裂が走っていた。また一人、遠い親戚が、忘却の淵に沈んでいく。
一月前、陽気で編み物が得意だった叔母さんが消滅した。その時、俺の右手の小指は、叔母さんが最後に編んでくれた毛糸の手袋の形に完全に石化し、音もなく剥がれ落ちた。痛みはなかった。ただ、指があった場所には、虚無だけが残っていた。家族が完全に消滅すると、俺の肉体の一部が、その人との最も強い思い出を象って石となり、身体から離れていくのだ。
俺はポケットに手を入れた。指先に、数個の冷たく滑らかな感触が触れる。消えた家族が遺した『絆の結晶』だ。祖父のチェスの駒の形をしたもの、妹が好きだった星の形をしたもの。そして、叔母さんの編み針の形をした小さなもの。
それを握りしめると、結晶が微かに温かさを帯び、腕の痛みが少しだけ和らぐ。結晶に意識を集中すると、脳裏にかすかな記憶が蘇る。チェス盤を挟んで笑う祖父の皺深い顔。夜空を指差す妹の輝く瞳。それらは、世界が忘れ去ろうとしている、かけがえのない絆の残滓だった。
「カイ、あなたの好きなたまご、焦げちゃうわよ」
母さんの声に我に返る。フライパンから、焦げた匂いが立ち上っていた。母さんはそれに気づいていないようだった。彼女の世界から、また一つ、匂いという感覚が失われ始めているのかもしれない。俺は胸に広がる冷たい恐怖を押し殺し、作り笑いを浮かべた。その笑顔さえも、ひび割れた仮面のように感じられた。
第二章 薄れる色彩
母さんの存在が希薄になっていく速度は、日を追うごとに増していった。食卓で交わされる会話は、次第にかみ合わなくなっていく。俺が幼い頃の話を必死に語りかけても、母さんは「そうだったかしら」と曖昧に微笑むだけ。その瞳は、俺を通り越して、何もない壁を見つめている。
ある日の午後、母さんが大切にしていた庭の花壇が、一夜にして全て枯れていた。色とりどりだったはずのチューリップやパンジーは、まるで生命の色を吸い取られたかのように、くすんだ灰色に変色していた。母さんはその惨状を見ても、何も感じていないようだった。彼女の中から、『美しい』と感じる心が消えてしまったのだ。
俺は焦燥感に駆られ、街に出た。この現象の原因を突き止めなければならない。だが、街行く人々の顔は一様に無表情で、どこか虚ろだった。すれ違う人々から、家族の笑い声が聞こえることはもうない。この街全体が、静かな忘却の病に侵されているかのようだった。
市立図書館の古文書室に籠もり、何日もかけて文献を漁った。しかし、この現象に関する記述はどこにも見つからない。ただ一冊、埃をかぶった哲学書の片隅に、こんな一節を見つけただけだ。
『絆の喪失は世界の沈黙を招く。記憶の糸がすべて断ち切られた時、世界は自らの存在理由を問い、そして終焉を選ぶ』
まるで預言のような言葉に、背筋が凍る思いがした。
疲れ果てて家に帰ると、信じられない光景が待っていた。居間のソファに座る母さんの身体が、向こう側の景色を透かして、半透明になっていたのだ。
「母さん!」
俺は叫びながら駆け寄った。だが、俺の声は彼女に届かない。伸ばした手は、温かいはずの母さんの肩を、虚しくすり抜けた。冷たい霧に触れたような、空虚な感触だけが掌に残る。母さんの顔には穏やかな笑みが浮かんでいたが、その瞳にはもう、何の光も宿ってはいなかった。
世界から、母さんの色彩が消えていく。音も、匂いも、温もりも。そして、俺の心もまた、色を失い、静かに砕け散っていくようだった。
第三章 時の彼方からの慟哭
その瞬間は、突然訪れた。
母さんの姿が陽炎のように揺らめき、ふっと掻き消えた。それと同時に、俺の全身を、これまでに経験したことのない絶大な痛みが貫いた。まるで、身体中の骨が内側から砕け、神経が一本残らず焼き切られるような、終わりなき拷問。それが『共鳴する痛み』の頂点だった。
「あああああっ……!」
意識が白く染まり、激痛の奔流の中で、俺は一つの幻を見た。
――そこは、静寂に包まれた灰色の世界だった。その中心に、一体の石像が佇んでいる。風雨に晒され、ひび割れたその像は、絶望と諦念をその身に刻み込み、天を仰いでいた。その顔は、紛れもなく、何もかもを失った未来の俺自身の姿だった。石と化したその瞳から、一筋、きらりと光るものが流れ落ちるのが見えた。それは、石の涙だった。
幻が消え、俺は荒い息をつきながら床に倒れ込んでいた。痛みが嘘のように引き、後には虚脱感だけが残っている。母さんが座っていたソファの上、彼女の心臓があったであろう場所に、淡い光を放つ小さな結晶が一つ、静かに横たわっていた。母さんが遺した、最後の『絆の結晶』だった。
震える手でそれを拾い上げる。掌に乗せると、小さな心臓のように、温かく脈打っていた。結晶に触れた瞬間、奔流となって記憶が流れ込んできた。生まれたばかりの俺を抱きしめ、「あなただけは、絶対に忘れない。私の全てを懸けて憶えているわ」と、涙ながらに誓う若い母の姿。その愛情の強さに、俺の胸は張り裂けそうになった。
だが、流れ込んできたのはそれだけではなかった。
もう一つの記憶。それは、先ほど幻で見た、未来の記憶。全ての家族を失い、誰からも忘れられ、世界でたった一人になった俺が、孤独の中でゆっくりと石に変わっていく絶望の光景。そして、完全に石化する寸前、最後の力を振り絞り、時間を超えて過去の自分に痛みを送り続ける姿。
『忘れるな』
『思い出せ』
『独りに、しないでくれ』
『共鳴する痛み』の正体。それは、失われた絆を取り戻せという、未来の俺自身からの慟哭だったのだ。世界が家族を拒絶しているのではない。絆を失った世界が崩壊へと向かう中で、未来の俺が、過去を変えるために送り続けていた、最後の祈りだった。
俺は掌の中の結晶を強く握りしめた。母さんの温もりが、未来の俺の冷たさが、混ざり合って俺の心を揺さぶる。問いは、もはや「なぜ?」ではなかった。「どうすれば、救えるのか?」――その答えは、もう、一つしか残されていなかった。
第四章 絆の守護者
俺は覚悟を決めた。未来の俺を、忘れ去られた全ての家族を救うために。
床に散らばっていた『絆の結晶』を、一つ一つ丁寧に拾い集める。祖父の、妹の、叔母さんの、そして母さんの結晶。全てを両手で包み込み、そっと胸に当てた。
「僕が、憶えている」
静かに呟き、俺は目を閉じた。結晶を通じて、この世界から消滅した無数の家族たちの記憶と痛みを、自らの内に受け入れ始めた。
それは、想像を絶する苦痛だった。何百万、何千万という人々の別れの悲しみ、忘れられる恐怖、孤独の絶叫が、濁流となって俺の魂を削り取っていく。だが同時に、それを上回るほどの温かい愛情が、無数の感謝と祈りが、俺の身体を満たしていった。
足元から、身体がゆっくりと石に変わっていくのがわかった。だがそれは、絶望に満ちた未来の俺が見た、灰色の石化ではなかった。胸に抱いた『絆の結晶』が俺の肉体と融合し、内側から虹色の光を放ち始めたのだ。
剥がれ落ちるはずだった記憶の断片が、今や俺の身体そのものになっていく。叔母さんの手袋の繊細な編み目が、右腕の表面にレリーフのように浮かび上がる。祖父のチェス盤の木目が、胸に刻まれる。妹が好きだった星々が、背中にきらめく。そして、母さんが焼いてくれたクッキーの温かな形が、俺の左の掌に宿った。
全身が、美しい虹色の鉱石へと変容していく。意識が薄れゆく中で、最後に感じたのは、もはや孤独ではなかった。数えきれないほどの家族の絆に抱きしめられているような、穏やかで、満たされた感覚だった。俺は、忘れられた全ての記憶の総体となり、新たな『絆の守護者』となるのだ。
その日を境に、世界から『忘れ去る』現象は、ぴたりと止んだ。人々は理由もわからず、ふと胸に灯る温かい感情に戸惑い、いつしか忘れていた遠い誰かの顔を、懐かしく思い出した。
街の中心、かつて俺の家があった場所に、今では一つの壮麗な像が佇んでいる。それは、まるで世界中の家族の思い出を優しく抱きしめているかのような姿で、太陽の光を浴びて七色に輝いていた。
時折、その像に触れた子供が、どこか懐かしい子守唄が聞こえるような気がする、と不思議そうに首を傾げる。
像は何も語らない。ただ、永遠にそこに在り続け、世界が二度と、大切な絆を忘れないように、静かに見守っている。