虚ろな君の重さについて
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虚ろな君の重さについて

第一章 触れられない重さ

私の指先は、嘘をつけない。それは一種の呪いであり、祝福でもあった。他人の忘却に触れると、その失われた記憶の質量が、物理的な重さとしてずしりと手のひらに圧し掛かるのだ。

人生の節目に、人は最も大切な記憶を一つ、きらめく「記憶石」として吐き出す。愛の告白、家族との最後の夜、夢が叶った瞬間の高揚。その石は持ち主の魂の軌跡となるが、代償として、その記憶は本人から綺麗に消え去る。だから、この街の人間は誰もが、多かれ少なかれ忘却の重みをその身に纏って生きていた。分厚いコートのように、あるいは見えない鉛の枷のように。

雨がアスファルトを叩き、ネオンの光を滲ませる夜だった。私は古道具が並ぶ週末の夜市にいた。目的は、噂の男を一目見ること。『過去を忘れた記憶石コレクター』。自身の記憶石を一つも持たず、それでいて世界中の希少な石を蒐集しているという。誰もが彼に触れると、途方もない重さを感じるはずだった。人生そのものを失った男なのだから。

人波をかき分けると、彼はそこにいた。古い街灯の下、静かに佇んでいた。痩身で、着古したツイードのジャケットを羽織っている。彼の周りだけ、時間の流れが違うように感じられた。人々が彼を遠巻きに眺め、その存在の重さに顔をしかめているのがわかる。

好奇心が、恐怖に勝った。私はゆっくりと彼に近づき、何気ないふりをして彼の腕にそっと触れた。

「……え?」

息が漏れた。予想していた、魂が潰れるような重圧はどこにもなかった。まるで、淡い靄に触れたかのような、掴みどころのない空虚な軽さ。羽毛よりも、春の陽光よりも、彼は――軽かった。ありえない。忘却の重みがないということは、彼は何も忘れていないということになる。だが、彼の記憶石が存在しないことは誰もが知る事実だった。

私の驚愕に気づいたのか、男がゆっくりとこちらを向いた。彼の瞳は、静かな湖面のようで、底が見えない。

「何か、お探しですか」

その声は、ひどく穏やかだった。

その時、彼が首から下げていた奇妙な装飾品が、私の目に留まった。黒檀でできた、小さなメトロノーム。普通なら規則正しく時を刻むはずの振り子は、ぴたりと静止している。だが、私が彼に触れたその瞬間、死んでいたはずのそれが、カチリ、と微かな音を立てた。まるで、遠い昔の誰かの心臓が、一度だけ弱々しく拍動したかのように。

第二章 空白の輪郭

男はカイと名乗った。彼の「軽さ」の謎に取り憑かれた私は、数日後、彼が営むという骨董店を訪ねた。埃と古いインクの匂いが混じり合う、忘れられた時間のための聖域のような場所だった。壁一面の棚には、持ち主を失った記憶石が、それぞれの色を放ちながら静かに眠っている。

カイは、客から持ち込まれた曇った記憶石を、柔らかい布で丁寧に磨いていた。

「記憶石は、時々こうして人の手で触れてやらないと、物語を忘れてしまうんです」

そう語る彼の横顔は、まるで失われた子供を探す父親のように優しかった。彼自身には、語るべき物語など何一つないというのに。

私は店の隅に置かれていた『虚空のメトロノーム』に目をやった。やはり、その振り子は沈黙している。

「それは?」

「僕のお守りのようなものです。時々、迷子の記憶の声を拾ってくれる」

カイはそう言って微笑んだが、その目は笑っていなかった。彼の空虚さは、喪失とは少し違う。それはまるで、意図的に磨き上げられた鏡面のように、何も映さないけれど、そこにある、という確かな存在感があった。彼の「軽さ」は、空っぽなのではなく、むしろ何かで満たされることを拒絶しているかのような、張り詰めた空白だった。

ふと、私は自分が幼い頃からお守りにしている、小さな石のことを思い出した。引き出しの奥にしまい込んである、誰の記憶かもわからない乳白色の石。なぜか、この店に入ってから、懐の奥でその石が微かに温かさを帯びているような気がしていた。

「あなたはどうして、自分の記憶石を一つも持っていないのですか?」

核心に触れる質問を、私は恐る恐る口にした。

カイは手を止め、窓の外の灰色の空を見上げた。彼の輪郭が、午後の頼りない光に溶けていく。

「僕の記憶は……僕一人のものではないから、かもしれませんね」

その言葉の意味は、私にはまだ、理解できなかった。

第三章 虚空の鼓動

異変は、霧のように静かに街を覆い始めた。

人々が吐き出す記憶石が、次々とその輝きを失い、ただの灰色の小石に成り果てていく。『静かなる忘却』。誰が名付けたのか、その現象は人々の魂から物語を奪っていった。かつて愛を語り合った恋人たちは互いの名前を忘れ、誇りを胸に生きてきた職人は自らの技術を失った。街は色を失い、人々は表情をなくした操り人形のように歩き回るだけになった。

私の能力も、この現象の前では無力だった。人々に触れても、そこには重さすらない。ただ、冷たく、空虚な虚無が広がっているだけ。忘却ですらない、完全な「無」だった。

疑念が、私の心を黒く塗りつぶしていく。この異常な事態の中心にいるのは、あの空っぽの男、カイではないのか。私は彼の店へと走った。

店に飛び込むと、カイは中央に立ち、あの『虚空のメトロノーム』を手にしていた。そして、それは動いていた。カチリ、カチリ、カチリ、と。今まで一度も動かなかった振り子が、まるで狂った心臓のように激しく左右に揺れている。その機械音に混じって、耳を澄ますと無数の声が聞こえた。泣き声、笑い声、愛の囁き、怒りの叫び。失われていく街の記憶が、断末魔のように響き渡っていた。

「やはり、あなたの仕業だったのね!」

私が叫ぶと、カイはゆっくりと振り返った。その顔には、深い、深い悲しみが刻まれていた。

「違う。これは、始まりの合図だ」

彼の声は、今までになく張り詰めていた。

「『静かなる忘却』は、未来からやってくる破滅の波の、最初の飛沫にすぎない。僕がここに来たのは、これを止めるためだ」

彼は、信じがたいことを語り始めた。自分は遥か未来から来た存在であること。彼のいた未来では、人々は記憶を持つことさえできなくなり、世界は完全な無に帰そうとしていたこと。そして、その破滅を防ぐ唯一の方法が、自らの最も大切な記憶を全て記憶石に変え、アンカーのように過去の世界に打ち込み、時間の流れそのものを補強することだったと。

「僕の記憶石は、世界中で取引されているんじゃない。世界の基盤を支える楔として、それを託すにふさわしい人々の元へ、僕自身が送り込んだんだ」

彼の「軽さ」は、忘却ではなかった。未来を救うために、自らの魂を切り分け、過去へと捧げ続けた「献身」の証だったのだ。

第四章 あなたという重さ

メトロノームの鼓動が、さらに激しくなる。街の崩壊が加速しているのだ。カイの身体が、足元から徐々に透き通り始めていた。

「最後の楔を、打たなければならない」

彼は静かに言った。それは、自らの存在そのものをエネルギーに変え、この時代の記憶を固定するという、最後の手段だった。

「待って、そんなことをしたら、あなたは……!」

「僕は消える。でも、僕が愛した物語は残る」

彼は私に向き直り、その透き通った指先で、私の胸元にそっと触れた。私が幼い頃から持っていた、あの乳白色の石が、心臓と共鳴するように熱く輝き始めた。

「その石はね、僕が最初にこの時代へ送った記憶だよ。『希望』と名付けた記憶だ」

だから、君だけが僕の本当の姿――空白を感じ取れたんだ。君は、僕の一部を持っていたから。

彼の言葉が、雷のように私を貫いた。私が彼に感じていた親近感も、彼の軽さに惹かれた理由も、すべてはここに繋がっていた。

「このメトロノームを君に託す。いつか、未来の記憶が再び失われそうになった時、それが道を示してくれる」

カイはそう言って、虚空のメトロノームを私の手に握らせた。彼の身体は、もうほとんど光の粒子となって、風に舞い始めていた。

消えゆく彼に、私は必死に手を伸ばした。そして、その指先が触れた瞬間――私は初めて、彼の「重さ」を感じた。

それは、世界を救うという途方もない決意の重さ。愛する人々との思い出、笑い合った日々、流した涙、そのすべてを未来のために手放した、想像を絶するほどの献身の重さだった。あまりに重く、尊く、そして温かい、魂の質量だった。

光が弾け、カイの姿は完全に消えた。

後には、静寂だけが残された。しかし、窓の外を見ると、街は色を取り戻し始めていた。人々が、空を見上げ、誰かの名前を呼び、泣き、笑っている。失われたはずの物語が、世界に帰ってきたのだ。

私の手の中では、託されたメトロノームが、今はもう静かに沈黙している。だが、耳を澄ませば聞こえる気がした。カイが守り抜いた未来の、穏やかで力強い鼓動の音が。

私は胸に輝く『希望』の石を強く握りしめた。彼の「軽さ」は喪失ではなかった。それは、この世界をそっと満たし続ける、愛という名の、見えない重さだったのだ。

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