硝子(ガラス)の告白

硝子(ガラス)の告白

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第一章 乾いた音

水野蒼太の日常は、古書の黴とインクが混じり合った、静かな匂いの中で完結していた。壁一面の本棚に守られた城の主である彼にとって、世界の騒音は店の厚い木製ドア一枚で遮断できるものだった。そのはずだった。

異変は、ある火曜日の朝、唐突に訪れた。

テレビから流れる、与党幹事長の自信に満ちた声。「国民の皆様の生活を第一に考え、真摯に……」。その言葉が鼓膜を揺らした瞬間、蒼太の喉の奥に奇妙な異物感が生まれた。咳き込むと、手のひらに何かがこぼれ落ちた。

カラン。

乾いた、澄んだ音だった。

手のひらにあったのは、指の爪ほどの大きさの、歪なガラスの破片だった。鋭利な断面が朝の光を乱反射している。窓ガラスが割れたわけでも、コップを落としたわけでもない。それは間違いなく、蒼太自身の口の中から出てきたものだった。

混乱と吐き気がこみ上げる。何かの病気だろうか。しかし、痛みはない。ただ、ガラス片の冷たい感触だけが、手のひらの皮膚に現実を刻みつけていた。

その日は一日中、得体の知れない恐怖に苛まれた。翌日、恐る恐る点けたテレビのワイドショーで、不倫疑惑を否定する俳優が「友人関係です」と口にした途端、またしても喉に異物感が走り、今度はさらに小さなガラスの粒が二、三粒、床に散らばった。

そこで蒼太は、おぞましい仮説に行き着いた。

自分は、他人の「嘘」を聞くと、それを物理的な「ガラスの破片」として吐き出してしまう体質になったのではないか。

馬鹿げている。そう頭では否定しながらも、体は正直だった。試しに電話のセールスマンが口にする「今だけの特別価格なんです」という言葉に耳を傾けると、案の定、喉がざらつき、カリン、と小さな破片が吐き出された。口の端が切れ、鉄の味が広がる。

その日から、蒼太の世界は一変した。

街は嘘で満ち溢れていた。スーパーの店員が浮かべる営業スマイルと「お似合いですよ」の声。電車の車内広告に躍る「全米が泣いた!」の謳い文句。友人からの「今度必ず埋め合わせするから」という気軽な約束。それら全てが、大きさも形も様々なガラスの刃となって、彼の内側から肉体を傷つけた。

真実と嘘の境界線が、物理的な痛みとなって彼に襲いかかる。彼は世界から耳を塞いだ。テレビを消し、ラジオを止め、スマートフォンを機内モードにした。古書店のドアに「都合により当分休業します」という札を下げ、誰とも会わずに本の中に閉じこもった。

静寂だけが、唯一の救いだった。しかし、その静寂はあまりにも孤独で、まるでガラスでできた棺の中に横たわっているかのような、冷たい息苦しさを伴っていた。

第二章 陽だまりの真実

蒼太が城に立てこもって一週間が過ぎた頃、店のドアが控えめにノックされた。無視を決め込んでいると、今度は郵便受けの蓋がカタンと開き、外からの光と共に明るい声が差し込んできた。

「水野さん、いらっしゃいますか? 近所の花屋の佐伯ですけど……」

佐伯遥。時々、植物図鑑を探しに店を訪れる、快活な女性だった。彼女の、まるでひまわりのような屈託のない笑顔を思い出し、蒼太の心が一瞬揺らぐ。

「……ごめんなさい、今日は休みで」

ドア越しに、かろうじて声を絞り出す。嘘ではない。本当に休みなのだから。

「あっ、やっぱり! でも、電気がついていたから。すみません、お邪魔して。ただ、最近ずっとお店が閉まっていたので、何かあったんじゃないかって心配で」

彼女の言葉には、棘がなかった。喉の奥は静かなままだ。ガラスの気配はない。

その事実に、蒼太は僅かな安堵を覚えた。ドアの鎖を外し、少しだけ扉を開ける。隙間から覗いた遥は、心配そうな瞳で彼を見つめていた。その手には、小さな白い花の鉢植えが抱えられている。

「顔色、悪いですよ。大丈夫ですか?」

「……ええ、まあ」

「よかった。これ、よかったら。お店の隅にでも飾ってください。空気をきれいにしてくれるらしいです」

差し出された鉢植えを受け取る。小さな白い花びらが、店の薄暗がりの中で淡く光っているように見えた。彼女の言葉は、全てが真実だった。ガラスは一粒たりとも生まれなかった。

その日を境に、遥は時々、蒼太の様子を見に来るようになった。蒼太は彼女が訪れる時間だけ、店の鍵を開けた。

遥は花の話をした。季節の移ろいや、新しい品種のこと、客とのささやかなやりとり。彼女の語る世界は、どれも嘘偽りがなく、蒼太はただ相槌を打ちながら、穏やかな時間を過ごした。ガラスを吐き出す苦痛を忘れられる、唯一の時間だった。

遥が古い植物図鑑のページをめくりながら、その繊細な銅版画に見入っている横顔を、蒼太は盗み見る。陽だまりのような彼女の存在は、蒼太のガラス張りの孤独な世界に、柔らかい光を投げかけていた。

いつしか蒼太は、彼女に淡い恋心を抱くようになっていた。この世界にも、まだ信じられるものがある。彼女こそが、その証明だった。この呪われた体質の中で、彼女だけが彼の救いだった。

「遥さん」

ある午後、蒼太は意を決して彼女を呼び止めた。

「今度の休み、もしよかったら……食事でもどうですか」

遥は一瞬驚いたように目を丸くしたが、すぐに花が咲くように微笑んだ。

「はい、ぜひ!」

その返事もまた、温かい真実だった。蒼太の胸は、痛みではなく、柔らかな高揚感で満たされた。

第三章 最も鋭い破片

レストランの白いテーブルクロスの上で、カトラリーが控えめな音を立てていた。向かいに座る遥は、少し緊張した面持ちで、それでも嬉しそうに微笑んでいる。その笑顔を見ているだけで、蒼太は満たされた。

彼は、自分の奇妙な体質について打ち明ける覚悟を決めていた。この純粋な魂を持つ彼女になら、受け入れてもらえるかもしれない。そうでなければ、自分たちの関係は先に進めない。

「あの、遥さん。少し、信じられないような話をしてもいいですか」

蒼太が切り出すと、遥はフォークを置き、真剣な眼差しで彼を見つめ返した。「はい」という短い返事には、彼の言葉を全て受け止めようという誠実さがこもっていた。

蒼太は、どもりながらも全てを話した。嘘を聞くとガラスを吐いてしまうこと。世界が嘘で満ちているように感じて、人を避けていたこと。けれど、遥といる時だけは、一度もそんな苦痛を味わったことがないこと。

遥は黙って聞いていた。彼の告白を一笑に付すことも、気味悪がるそぶりも見せなかった。

話し終えた蒼太に、彼女は静かに言った。

「……わかる気がします。嘘が、人をどれだけ傷つけるか」

彼女は視線を落とし、テーブルの上の水滴を指でなぞった。

「私、昔……大きな嘘で、とても大切な人を深く傷つけてしまったことがあるんです。取り返しのつかない嘘でした。だから、その日から、もう二度と嘘はつかないって心に決めたんです。正直に生きるって」

その告白は、蒼太の心を打った。やはり彼女は、自分が信じた通りの人間だった。痛みを乗り越え、真実と共に生きることを選んだ、強い人だ。

安堵と、こみ上げる愛情に背中を押され、蒼太は最も伝えたかった言葉を口にした。

「遥さん。あなたのことが、好きです」

それは、彼の心からの真実だった。喉は滑らかで、痛みはない。

遥は一瞬、息を呑んだ。その表情には、喜びとは違う、何か深い悲しみの色がよぎったように見えた。だが、それはすぐに打ち消され、彼女はいつものように、柔らかく微笑んだ。

「ありがとう、蒼太さん。私も……あなたのこと、素敵だと思っています」

その言葉が、響き終わった瞬間だった。

ゴフッ、と蒼太は激しく咳き込んだ。口の中に、これまで経験したことのないほどの激痛が走る。それは、単なる異物感ではなかった。鋭利な何かが、舌と歯茎を、内側からズタズタに切り裂くような、暴力的な痛みだった。

手のひらにこぼれ落ちたのは、おびただしい数のガラスの破片だった。一つ一つが大きく、まるで砕け散った鏡のように鋭く尖っている。破片の間から、真っ赤な血が滴り落ち、白いテーブルクロスに鮮烈な染みを作った。

「……え?」

遥の言葉は、「嘘」だったのだ。

救いだと信じていた、唯一の光だと思っていた彼女の言葉が、彼に最大級の苦痛を与えた。なぜ?どうして?蒼太の頭は真っ白になった。

目の前の遥は、顔面蒼白になり、わなわなと震えていた。彼女の瞳から、大粒の涙がとめどなく溢れ出す。

「ごめんなさい……ごめんなさい……!」

彼女はそれだけを叫ぶと、席を立ち、レストランから逃げるように走り去ってしまった。

一人残された蒼太は、血とガラスの破片が散らばるテーブルの前で、ただ呆然と座り込むしかなかった。真実だけが救いだと信じていた彼の世界が、カシャン、と音を立てて、粉々に砕け散った。

第四章 心のカケラ

数日間、蒼太は店の奥で死んだように横たわっていた。口の中の傷は癒えず、水を飲むことさえ苦痛だった。だが、肉体の痛みよりも、心の痛みのほうが遥かに深かった。

遥の嘘は何だったのか。「素敵だと思っている」という言葉が、まるごと嘘だったのか。だとしたら、これまでの穏やかな時間は、全てが偽りだったというのか。

しかし、どれだけ考えても腑に落ちなかった。あの時の、彼女の涙。絶望に満ちた、あの表情。あれが嘘だとは思えなかった。

嘘の中にも、種類があるのかもしれない。他人を陥れるための悪意ある嘘と、誰かを守るための、優しい嘘。彼女の嘘は、後者だったのではないか。だとしたら、彼女は何から、誰を、守ろうとしたのだろう。

蒼太は、震える足で立ち上がった。答えは、遥本人に聞くしかない。

口元の痛みに顔をしかめながら、彼は遥の花屋へ向かった。ガラスケースの中では、色とりどりの花が静かに咲き誇っている。店の奥で、遥がうつむいて花の手入れをしていた。蒼太の姿に気づくと、彼女の肩がびくりと震えた。

「……話が、したい」

蒼太がかすれた声で言うと、遥は泣き出しそうな顔で小さく頷いた。

店の裏の小さな休憩スペースで、二人は向かい合った。

「君の嘘は、僕を傷つけないためのものだったんじゃないか?」

蒼太が切り出す。

遥はゆっくりと顔を上げた。その瞳は赤く腫れている。

「……私には、婚約者がいました」

ぽつり、と彼女は語り始めた。

「病気で、長くはないとわかっていました。私は彼の前で、ずっと笑っていました。『大丈夫、私は一人でも幸せだから』って。彼を安心させるために、そう嘘をつき続けたんです。彼が亡くなった後、私は自分が空っぽになってしまったことに気づきました。誰かを本気で愛して、そして失うことが、もう……怖くてたまらないんです」

彼女は蒼太を真っ直ぐに見つめた。

「あなたのことは、本当に素敵だと思っています。あなたといる時間は、本当に安らぎでした。だからこそ、怖くなった。このままあなたを好きになってしまったら、また失う日が来るかもしれない。その痛みに、私は耐えられない。だから……あなたを本気で好きになってしまう前に、この関係を終わらせなければって……そう思ってしまったんです」

それが、あの瞬間の嘘の正体だった。蒼太への好意と、彼を愛することへの恐怖。その二つの間で引き裂かれた彼女の心が、「素敵だと思っている」という言葉を、複雑な嘘に変えてしまったのだ。

遥が話し終えた時、蒼太の喉は静かだった。ガラスの気配はない。彼女の言葉は今、紛れもない真実として彼の胸に届いていた。

蒼太は、血が滲む口元で、おぼつかないながらも静かに微笑んだ。

「……そっか」

その一言を絞り出すのが、精一杯だった。

彼は悟った。この世界は、白黒の真実と嘘だけで出来ているわけではない。その間には、無数のグラデーションが存在する。嘘の中にも、痛みや、ためらいや、臆病さや、そして不器用な愛が、確かに宿っているのだと。

この呪わしい体質は、嘘を断罪するためのものではない。言葉の裏に隠された、声にならない心の叫びを、その複雑さを、知るためのものだったのかもしれない。

翌日、蒼太は古書店の「休業」の札を外した。

客が訪れ、時候の挨拶と共に「近いうちにまた来ます」と言った。その社交辞令に、彼の口からカリンと小さなガラス片がこぼれる。以前なら嫌悪感で顔をしかめていただろう。

だが今、蒼太はそれを、床に落ちた誰かの心のカケラのように、そっと指で拾い上げた。

光にかざすと、その小さな破片は、不器用な優しさのように、きらりと光った。

彼の世界は、痛みを伴いながらも、以前よりずっと豊かで、複雑で、そして愛おしいものに変わっていた。そのカケラの一つ一つに、語られなかった誰かの物語が眠っていることを、彼はもう、知っていたからだ。

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