第一章 殺人者の朝
朝の光が、瞼の裏を鈍く圧迫する。倉田湊(くらたみなと)は、ゆっくりと目を開けた。見慣れた、白い天井。壁にかけられたカレンダーは、今日が六月十四日であることを示している。シーツの冷たい感触が、自分が今、ここに存在しているという事実を皮膚に教え込む。しかし、その実感は、頭の中に広がる真っ白な空白の前ではあまりに無力だった。
湊には、昨日の記憶がない。眠ると、前日一日の記憶が綺麗に消え去る。医師はそれを前向性健忘の一種だと説明したが、湊にとっては、毎朝、見知らぬ昨日から生まれたばかりの赤ん坊になるような感覚だった。
彼の生命線は、机の上に置かれた一冊のノートだ。A5サイズの、黒い革張りのノート。そこに、昨日の自分が、今日の自分のために、詳細な「記憶」を書き残してくれている。天気、食事、仕事の進捗、感じたこと。その記録がなければ、彼は自分が誰なのかさえ、おぼつかなくなるだろう。
コーヒーを淹れる。豆を挽く音と香りが、ぼんやりとした意識を覚醒させていく。いつもの習慣だ、とノートの最初のページに書いてある。彼はそれに従い、マグカップを片手に机に向かった。そして、いつものようにノートを開き、昨日の自分との対話を始める。
『六月十三日、曇り。朝食はトーストとコーヒー。午前中は在宅で書籍の校正作業。P125まで完了。午後は雨。雨音を聞きながら、シューベルトを聴いた。気分は悪くない。夕食は冷凍のパスタ。夜、隣の部屋の物音が気になった。壁が薄いせいか、話し声が聞こえる。高梨さん……だったか。一度挨拶しただけの女性だ。彼女の部屋から、男の怒鳴り声と、何かが割れる音がした。少しして、静かになった』
湊は眉をひそめた。隣人トラブルか。自分は関わるべきか悩んだのだろうか。ページをめくる。そこには、彼の心臓を鷲掴みにするような、信じがたい一文が、見慣れた自分の筆跡で記されていた。
『高梨沙織を、殺した』
インクが紙に染み込んだ、確定的な事実。その一文だけが、前後の脈絡から切り離されたように、黒々と存在を主張していた。湊は息を呑んだ。全身の血が、急速に凍りついていく感覚。手のひらがじっとりと汗ばみ、持っていたマグカップが滑り落ちそうになる。
嘘だ。何かの間違いだ。これは、自分の字だ。間違いなく。しかし、こんなことを書いた記憶はもちろん、そんな感情を抱いた記憶もない。ノートを最後まで確認するが、その一文以降は何も書かれていなかった。まるで、そこで昨日の自分の意識が途切れてしまったかのように。
彼は震える手で自分の体を確認する。返り血は? 傷は? 何もない。部屋を見渡す。昨日と変わらない、整然とした空間。凶器になりそうなものは? 包丁はキッチンに揃っている。異常はない。
それでも、あの文字が脳裏に焼き付いて離れない。『殺した』。過去形。完了形。それは、悪夢の記述か、それとも、紛れもない現実の記録なのか。湊は、自分の唯一の記憶媒体であるノートによって、自分が殺人犯である可能性を突きつけられていた。
第二章 記録の檻
パニックに陥った湊は、まず隣室の様子を確かめることにした。高梨沙織。確か、二週間ほど前に越してきた、二十代半ばの女性だ。すれ違いざまに一度だけ会釈を交わした。色素の薄い髪と、少し寂しげな目が印象的だった。
湊は玄関のドアをそっと開け、隣の部屋の前に立った。冷たい鉄のドアが、彼と「真実」を隔てている。心臓が肋骨を激しく打ち鳴らす。彼は深呼吸を一つして、ドアをノックした。コン、コン。乾いた音が、静まり返った廊下に響く。
応答はない。
もう一度、少し強く叩く。やはり、何の物音も聞こえない。ドアノブに手をかけたが、もちろん鍵がかかっていた。郵便受けを覗くと、朝刊がそのまま差し込まれている。いつもなら、この時間にはもう取られているはずだ。
悪い予感が、胃の腑のあたりで渦を巻く。自分が本当に? あの、か細い女性を? 想像しようとしても、具体的なイメージが浮かばない。ただ、ノートに書かれたあの文字だけが、絶対的な事実として彼の思考を支配する。
部屋に戻った湊は、ノートだけでなく、パソコンのログ、スマートフォンの通信履歴、ありとあらゆる「昨日の自分」の痕跡を調べ始めた。しかし、どこにも異常はなかった。ネットの閲覧履歴は普段通り。送信メールも仕事関係のものだけ。行動履歴アプリは、昨日一日、彼が家から一歩も出ていないことを示していた。
記録はすべて、彼の無実を証明している。それなのに、なぜ。なぜあのノートにだけ、あんな記述があるのか。
彼は過去のノートを何冊も引っ張り出してきた。そこには、几帳面な文字で綴られた、彼の日々の生活が眠っていた。読んだ本、観た映画、美味しかった食事。時折挟まれる、病気に対する不安や、孤独感。それらの記録を読むと、自分が決して暴力的な人間ではないことが分かる。むしろ、臆病で、他人との関わりを避けて生きている、平凡な男だ。
だが、人間は、自分が知らない自分を隠し持っているのではないか。記憶を失うという極限状態が、彼の内に眠る怪物を呼び覚ましてしまったのではないか。記録された自分は、本当に自分自身なのか。それとも、自分がそうありたいと願う理想の姿を、無意識に書き綴っていただけではないのか。
記録の檻に囚われている。彼はそう感じた。過去の自分が作った檻の中で、今日の自分は身動きが取れない。警察に行くべきか。しかし、何を話せばいい?「昨日の自分が書いたノートに、隣人を殺したと書いてありました。でも記憶がありません」。狂人の戯言だと思われるのが関の山だ。
数日が過ぎた。高梨の部屋からは依然として生活の気配がせず、郵便受けには不在票やチラシが溜まっていく。湊は、罪悪感と恐怖で眠れない夜を過ごした。眠ればまた記憶を失う。この恐怖を引き継いでくれる「明日の自分」がいない。毎朝、彼は新鮮な絶望と共に目覚め、ノートのあの一文を読んで、再び地獄に突き落とされるのだ。
第三章 偽りの筆跡
事件が動いたのは、最初の記録から五日後のことだった。管理会社からの通報で警察が駆けつけ、高梨沙織の部屋のドアが破られた。彼女は、ベッドの上で亡くなっているのが発見された。
湊は、自室のドアの隙間からその光景を盗み見ていた。担架で運び出される、白い布で覆われた人影。警察官たちの険しい表情。彼はその場で崩れ落ちそうになるのを、必死で堪えた。
ニュースでは、死因は急性心不全による病死と報じられた。事件性はない、と。湊は混乱した。では、自分のノートの記述は何だったのだ。偶然か? 彼女が亡くなる直前の物音を、自分が何かと勘違いし、妄想を書き付けただけなのか?
いや、違う。あの『殺した』という文字の、揺るぎない断定的な響きは、単なる妄想とは思えなかった。彼は、このままではいけない、と思った。自分の中に潜むかもしれない殺人者を、この手で暴き出さなければならない。
その夜、湊は一つの実験を試みることにした。彼は新しいノートのページに、いつもの記録を書き終えた後、こう書き加えた。「この文章の最後に、母方の祖母の名前を、ひらがなで逆から書くこと」。それは、彼以外誰も知り得ない、彼だけの秘密の符牒だった。もし、昨日の自分が本当に自分自身であるならば、明日の朝、この符牒は完璧に実行されているはずだ。
翌朝。湊は震える手でノートを開いた。昨日の記録の最後には、彼の指示通り、完璧な筆跡で、祖母の名前が逆さから記されていた。
やはり、自分の仕業なのか……。絶望が彼を打ちのめしかけた、その時だった。彼は、ページの中に、昨日まではなかったはずの一文が紛れ込んでいることに気づいた。それは、仕事の進捗報告と夕食の献立の間に、あまりに自然に、しかし明らかに異質な情報として挿入されていた。
『高梨沙織の部屋の合鍵は、うちのベランダの、モンステラの鉢の下に隠してある』
湊は息を呑んだ。全身に鳥肌が立つ。これはなんだ? 昨日の自分は、こんなことを書いた覚えがあるのか? いや、あるはずがない。なぜなら、その情報は彼にとって全くの初耳だったからだ。
彼はベランダに出た。そこには、数年前に買ったモンステラの鉢植えがある。恐る恐る鉢を持ち上げると、その下に、ラップに包まれた一本の鍵が置かれていた。高梨の部屋の鍵に違いない。
その瞬間、湊の中で何かが繋がった。そして、血の気が引くような、恐ろしい結論にたどり着いた。
誰かがいる。
この部屋に侵入し、自分の筆跡を完璧に模倣して、ノートを改ざんしている誰かが。
毎晩、自分が眠りに落ちた後、そいつはこの部屋にやってくる。そして、湊の記録を読み、都合のいい情報を書き加え、彼を操ろうとしているのだ。あの『殺した』という一文も、この『鍵のありか』という記述も、すべてはその見えざる敵によって仕組まれた罠だった。
自分は、操り人形だったのだ。毎朝、白紙の状態で目覚める自分は、偽りの脚本を読まされ、それを自分の記憶だと信じ込み、演じさせられていた。昨日までの自分は、自分ではなかった。それは、得体の知れない誰かが作り上げた、虚像だったのだ。
第四章 明日への手紙
恐怖が、怒りへと変わるのに時間はかからなかった。何者かに、自分の記憶、自分の人格、自分の人生そのものを弄ばれていたのだ。湊は、この見えざる敵に反撃することを決意した。
しかし、どうやって? 敵は自分の記憶の欠落という最大の弱点を熟知している。ノートに頼る限り、自分は永遠に敵の手のひらの上で踊らされるだけだ。
ならば、捨てるしかない。
湊は、これまで書き溜めてきた全てのノートを集めた。それは彼の人生そのものだった。失われた日々を繋ぎとめる、唯一の絆。それを手放すことは、過去の自分と決別することを意味する。彼は一瞬ためらったが、すぐに覚悟を決めた。
彼はノートをキッチンのシンクに運び、火をつけた。ページが端から黒く縮れ、炎がインクの文字を舐めていく。過去の記憶が、煙となって立ち上り、消えていく。それは、恐ろしくもあり、どこか解放されるような感覚でもあった。もう、記録された過去に縛られる必要はない。
彼は、自分が編集者だった頃の記憶の断片を必死で手繰り寄せた。ノートに頼らず、脳の奥底に眠る、消えない記憶の痕跡を。そうだ、ある企業の不正を告発する、未発表の原稿。その取材で、彼は会社の幹部の逆鱗に触れた。その男は、湊がこの病気を患っていることを、どこかで知ったのだろう。そして、彼を社会的に、精神的に抹殺するために、この卑劣な計画を立てたのだ。高梨の死は、おそらく偶然の病死だった。しかし、敵はそれさえも利用して、彼を絶望の淵に追い込もうとしたのだ。
湊はパソコンに向かった。もう、個人的な記録を書くのではない。世界に向けた、告発の物語を書くためだ。彼は、自分の身に起きたことの全てを、冷静かつ克明に、一つの物語として綴り始めた。記憶を失う男、改ざんされる記録、見えざる敵の存在、そしてその背後にいるであろう黒幕の正体。それは、単なる暴露記事ではなかった。記憶という鎖に繋がれた男が、自由を求めて戦う、魂の叫びそのものだった。
書き上げた物語を、彼は匿名で、複数のニュースサイトやSNSに投稿した。あとは、この物語が持つ力を信じるしかない。
翌朝。湊はいつものように、昨日の記憶がないまま目を覚ました。部屋は静まり返っている。しかし、机の上には、もうあの黒いノートはない。代わりに、一枚の便箋が置かれていた。そこには、見慣れた自分の筆跡で、こう書かれていた。
『今日の君は、自由だ。君が信じる物語を生きろ』
それは、「記録」ではなかった。過去の自分が、未来の自分へ向けて送った、初めての「手紙」だった。
湊は、便箋をそっと胸に当てた。昨日の自分が何をしたのか、彼は知らない。だが、この手紙に込められた温かい意志は、確かに感じ取れた。記憶という過去の蓄積がなくても、人は未来へ向かう意志を持つことができる。
窓の外では、新しい朝が始まっていた。その未来がどんなものになるのか、彼には分からない。毎日が不安と混乱に満ちているかもしれない。それでも、彼はもう恐れてはいなかった。彼は初めて、記録された偽りの人生ではなく、不確かで、しかし無限の可能性を秘めた、自分自身の物語を歩き始めるのだ。その一歩は、とても静かで、そして何よりも力強いものだった。