第一章 赤の不在
その朝、倉田澪の世界から「赤」が消えた。
最初に気づいたのは、ベッドサイドに置いた飲みかけのミニトマトジュースだった。昨夜、鮮烈な赤色をたたえていたはずの液体が、今はただの濁った灰色の水にしか見えない。寝ぼけているのかと目をこすり、窓の外に目をやった。いつもそこにあるはずの郵便ポストが、まるで古いモノクロ映画から抜け出してきたかのように、重たい鉛色をしていた。
「……嘘でしょ」
澪の唇から、乾いた声が漏れた。心臓が嫌な音を立てて脈打つ。急いでクローゼットを開ける。昨日買ったばかりの赤いカーディガン、母親から譲り受けたガーネットのブローチ、恋人にもらった真っ赤なバラのドライフラワー。そのすべてが、色を失っていた。まるで命を抜かれた標本のように、ただ形だけがそこにあった。
パニックになりながらリビングへ向かうと、テレビではアナウンサーがいつもと変わらぬ口調でニュースを伝えている。画面の隅に表示される交通情報。渋滞を示す線は、赤ではなく、どす黒い灰色で描かれていた。しかし、アナウンサーも、コメンテーターも、誰もその異常には触れない。
「ねえ、見て。テレビ、おかしくない?」
同棲している恋人、拓也の背中に声をかける。彼はトーストをかじりながら、気のない返事をした。
「ん? 別に普通だろ」
「普通じゃない! 赤色がどこにもないの。信号も、ほら、あの広告のロゴも……全部、灰色になってる」
澪が指さす先をちらりと見た拓也は、心底不思議そうな顔で彼女を見つめた。
「澪、どうしたんだ? 寝不足? 赤、ちゃんとあるじゃないか。ほら、そのマグカップのハートも」
彼が指さしたマグカップ。澪の目には、それは黒ずんだ染みにしか見えなかった。世界が狂ったのか。それとも、自分だけが狂ってしまったのか。言いようのない恐怖が、足元から這い上がってくる。
グラフィックデザイナーである澪にとって、色は世界の全てだった。クライアントの要望に応え、コンセプトに合った配色を組み立てるのが彼女の仕事であり、生き甲斐だ。その彼女の世界から、情熱と生命の色である「赤」が、誰にも気づかれぬまま、忽然と姿を消してしまった。それは、日常に穿たれた静かで巨大な穴だった。その日から、澪の孤独な戦いが始まった。彼女は失われた赤をスケッチブックに何度も描こうとした。しかし、どんなに記憶を探っても、どんなに絵の具を混ぜても、そこに現れるのはくすんだ茶色や鈍い黒だけ。赤という概念そのものが、彼女の脳から剥がれ落ちていくような感覚。夕焼けの感動も、火の暖かさも、流血の痛みも、すべてが色褪せた写真のように、現実感を失っていくのだった。
第二章 青の褪色
赤の消失から一週間後、今度は「青」が世界から消えた。
朝、澪を包んでいたのは、重苦しいまでの灰色の光だった。窓の外に広がる空は、どこまでも均一なコンクリートのような色合いで、希望も憂鬱も感じさせない、無感情な天井と化していた。海を描いたポスターも、拓也が着ているデニムシャツも、すべてが色を失い、のっぺりとした濃淡の染みになっていた。
青が消えた世界は、赤が消えた時よりも静かに、だが確実に人々の心を蝕んでいるように澪には思えた。空を見上げて物思いに耽る人がいなくなり、街角で流れるブルースのメロディはどこか空虚に響いた。人々は冷静さを通り越して無関心になり、深い悲しみに暮れる者の涙さえも、どこか乾いて見えた。
「お願い、信じて。世界の色が、一つずつ消えてるの」
澪は拓也に必死に訴えた。しかし、彼の返事はいつも同じだった。
「澪、疲れてるんだよ。最近、仕事も忙しそうだったし。少し休んだらどうだ?」
彼の瞳には、心配の色と、ほんの少しの諦観が浮かんでいた。その瞳に、かつて澪が好きだった深い青色が宿ることは、もうない。彼女の言葉は誰にも届かない。孤独感が、冷たい霧のように彼女の心を覆い尽くしていく。
この現象は、自分にしか認識できない。ならば、原因も自分の内側にあるか、あるいは自分に関わる何かのはずだ。澪は仕事も休み、近所の図書館に通い詰めた。民俗学、オカルト、古代神話。手当たり次第にページをめくる中で、彼女は一冊の古びた洋書に行き当たった。それは、ほとんど知られていない、ある地方の伝承をまとめた本だった。
『クロマ・ファージ(色を喰らうもの)』
そのページに、澪は釘付けになった。そこには、人々の心が色彩を認識する力を失い、無感動や無関心に支配される時、世界から色そのものを糧として奪い去る、名もなき存在についての記述があった。それは悪魔でも幽霊でもない。人々の集合的な無意識が生み出す、概念的な寄生体なのだという。
「……色喰い」
澪は呟いた。それは悪夢のような話だったが、今の彼女にとっては唯一の希望の糸だった。文献の最後には、掠れた文字でこう記されていた。
『色喰いを退けるは、剣にあらず、祈りにあらず。ただ、失われた色彩を誰よりも渇望し、その記憶を心に灯し続ける者の魂のみ。最も豊かな色彩を持つ心だけが、その存在を照らし、世界に色を取り戻すだろう』
最も豊かな色彩を持つ心。デザイナーである自分こそが、その役目を負っているのではないか。澪は震える手で本を閉じた。恐怖はあった。しかし、それ以上に、自分がすべきことを見つけたという、かすかな使命感が胸に灯った。彼女は自宅のアトリエに駆け込むと、残された絵の具をパレットに広げた。まだ世界に残っている、緑、黄、紫、橙。失われた赤と青を、記憶の底から必死に引きずり出し、キャンバスに叩きつけようとした。しかし、描けば描くほど、彼女の記憶の中の色は曖昧になり、混じり合った絵の具は、ただ汚い灰色を増していくだけだった。
第三章 黄の終焉
次に世界が失ったのは、「黄色」だった。
ひまわりの輝きも、レモンの酸っぱそうな色合いも、街灯が作る暖かい光の輪も、すべてがモノクロの闇に溶けていった。希望、喜び、幸福。そういったポジティブな感情の輪郭が、世界からぼやけていく。人々の顔から笑みが消え、子供たちのはしゃぐ声も、どこか抑揚を失っていた。
世界は、もうほとんど無彩色に近かった。残っているのは、植物のくすんだ緑と、不気味な紫、そしてそれらが混じり合って生まれる、名状しがたい汚泥のような色だけ。拓也も、以前の優しさを失い、ただ無気力にソファに座っている時間が増えた。彼との会話も、色のない言葉の羅列でしかなくなっていた。
澪は、アトリエに籠もり続けていた。来る日も来る日も、失われた色を思い出そうと絵筆を握った。真っ赤な夕焼け、抜けるような青空、満開の菜の花畑。記憶の中の風景を描こうとしても、彼女の腕はそれを再現することを拒んだ。色が消えるたびに、その色に紐づく感情や記憶までが、彼女の中からごっそりと抜け落ちていくのだ。愛したはずの赤いバラの記憶は、ただの棘のある灰色の塊に。見上げたはずの青空の記憶は、果てしない虚無に。もはや、自分が何を取り戻そうとしていたのかさえ、分からなくなりかけていた。
絶望が彼女を支配しようとした、その時だった。ふと、床に散らばった昔のアルバムが目に入った。それは、彼女がまだ幼かった頃の写真。七五三で着た、真っ赤な着物。家族で行った海で、青い水着を着て笑う自分。誕生日に買ってもらった、黄色い自転車。
その写真を見た瞬間、澪の脳裏に、雷に打たれたような衝撃が走った。
違う。色が消えたのではない。
――私が、消しているのだ。
忘れていた記憶が、濁流のように蘇る。
あれは、彼女が七歳の誕生日。買ってもらったばかりの黄色い自転車に乗り、真っ赤なボールを追いかけて道路に飛び出した。青い空の下、大型トラックが迫ってくる。ブレーキの軋む音。そして、彼女を庇ってトラックの前に飛び出した、母の姿。母が着ていた、赤いワンピース。アスファルトに広がっていく、おびただしい量の、赤。
その日から、澪にとって「色」は、耐えがたい苦痛と悲しみの記憶そのものになった。鮮やかであればあるほど、それは彼女の心を苛んだ。無意識の底で、彼女はずっと願っていたのだ。
――こんなにも苦しいのなら、世界から色がなくなってしまえばいい。
色喰い(クロマ・ファージ)などという、おどろおどろしい存在ではなかった。世界の色を喰らっていたのは、他の誰でもない。傷つき、心を閉ざした、幼い倉田澪自身の魂だった。彼女の絶望が、彼女自身の内的世界を、そして彼女が認識する現実世界を、モノクロに変えていたのだ。周りの人々が異常に気づかなかったのは当然だ。これは、世界規模の異変などではなく、たった一人の人間の心が、世界の見え方を書き換えていただけなのだから。
「あ……ああ……」
真実を悟った澪の目から、色のない涙が溢れた。私は、世界を救う者ではなかった。世界を破壊する、張本人だったのだ。絶望が、ついに彼女の心を完全に折り砕いた。その瞬間、世界に残っていた最後の緑と紫もまた、急速にその彩度を失い始めた。
第四章 セピア色の世界
世界は、完全なモノクロになった。光と影だけが支配する、静寂の世界。澪は、自分の心象風景が作り出した無音の廃墟に、独り取り残されていた。
もう、どうでもよかった。色も、記憶も、感情も、すべてなくなってしまえばいい。そう思った時、彼女の目の前に、小さな女の子が現れた。七歳の頃の自分だった。その少女は、膝を抱えて、声を殺して泣いていた。彼女こそが、澪の心の奥底で色を喰らい続けていた「絶望」の化身。澪自身の、見捨てられた魂の欠片だった。
倒すべき敵ではなかった。排除すべき異物でもなかった。ただ、傷ついて泣いているだけの、幼い自分。
澪は、ゆっくりと少女に歩み寄った。そして、震える腕を伸ばし、その小さな体をそっと抱きしめた。
「……ごめんね。ずっと独りにしてて」
「つらかったね。苦しかったね。もう、大丈夫だよ」
「もう、色を憎まなくてもいい。悲しみも、苦しみも、全部あなたのものだよ。そして、私のものだよ」
彼女が、過去のトラウマと、それによって生まれた自分自身の醜い感情のすべてを受け入れた瞬間。奇跡が起きた。
抱きしめた少女の体から、淡い光が放たれる。最初に、柔らかな黄色が生まれた。それは希望の光。次に、穏やかな青が広がった。それは静謐な受容の色。そして最後に、力強い赤がほとばしった。それは、悲しみさえも乗り越える、生命の愛の色だった。
光が世界を包み込み、澪が目を開けると、そこには色彩が戻っていた。アトリエの窓から差し込む光、床に散らばる絵の具のチューブ、壁に飾られたポスター。すべてが、鮮やかな色を取り戻していた。拓也が心配そうな顔で部屋に入ってくる。彼のシャツは、記憶の中と同じ、深い青色をしていた。
しかし、世界は完全には元に戻らなかった。すべての色彩の上に、ごく薄いセピア色のフィルターがかかっているのだ。それはまるで、古い写真のような、どこか懐かしくて、物悲しい色合い。
澪は、それが母を失った「悲しみ」の色だと直感した。消し去ることはできない。しかし、その悲しみはもはや、世界を蝕む呪いではなかった。それは、澪が愛した人々の記憶を、より深く、より慈しみ深く彩る、優しい色合いに変わっていた。
後日、澪は一枚の絵を完成させた。それは、色とりどりの花が咲き乱れる、光に満ちた庭園の絵だった。だが、そのすべての花びらや葉には、かすかなセピア色が溶け込んでいる。以前の彼女なら、決して使わなかったであろう、不完全で、曖昧な色。
その絵は、彼女の最高傑作になった。人々は、その絵から、ただ美しいだけではない、痛みと、それを乗り越えた先にある、深く静かな感動を受け取った。
澪はもう、感情を恐れない。彼女の世界は、完全な幸福の色に輝くことはないのかもしれない。しかし、悲しみのセピア色さえも抱きしめたその世界は、以前のどんな時よりも、豊かで、複雑で、そしてどうしようもなく、美しいのだった。