第一章 安息の値段
息を吐くのが、怖い。
茅野湊がその奇妙な法則に気づいたのは、一週間前の火曜日の夜だった。
その日、彼は締め切り間際の文芸誌の校正作業に追われ、神経をすり減らしきっていた。インクの匂いが染みついた薄暗いオフィスで、最後の赤字を入れ終えたのは、時計の短針がとっくに真上を通り過ぎた頃だった。タクシーで帰宅し、冷え切った部屋のドアを開ける。鍵を閉める音だけが、死んだような静寂に響いた。
革の鞄を床に放り出し、身体の重みをすべて預けるようにしてソファに倒れ込む。軋むスプリングの音が、疲労困憊の肉体には心地よかった。
「……ふぅ」
誰に聞かせるともなく、腹の底から安堵のため息が漏れた。張り詰めていた糸が、ぷつりと切れる。瞼が自然と落ちてくる。ようやく、終わった。ようやく、休める。
その、瞬間だった。
部屋の隅、カーテンの降りた窓際に、何かがいた。
逆光で作られた人の形をした、濃密な闇。それは壁の染みや家具の影とは明らかに異質で、まるで空間そのものがそこだけ抉り取られたかのような、絶対的な黒だった。
「……っ!」
湊は息を飲んだ。心臓が氷水で満たされたように冷たく収縮する。見間違いだ。疲れているんだ。彼は自分に言い聞かせ、瞬きを繰り返した。数秒後、恐る恐るもう一度視線を向けると、そこにはもう何もなかった。いつものように、月明かりを薄く透かすカーテンが静かに揺れているだけだ。
「……疲れてるんだな」
乾いた声で呟き、湊は立ち上がった。身体の芯に残る悪寒を振り払うように、熱いシャワーを浴びることにした。湯気が充満し、視界が白く煙る。陶器の壁を滑り落ちる湯の音が、耳に心地よい。緊張で硬直していた肩の力が、ゆっくりと抜けていく。ああ、生き返る。このまま溶けてしまいたい。そんな陶酔にも似た安堵に身を委ねた、その時。
曇った鏡の表面に、一瞬、黒い何かが映り込んだ。
背後、すぐそこに立つ、あの影。
「ひっ……!」
悲鳴と共に振り返るが、狭いユニットバスにはもちろん誰もいない。ただ、シャワーヘッドから流れ落ちるお湯が、虚しく床を叩いているだけだった。
しかし、湊は確信していた。今のは見間違いではない。
この日から、彼の日常は静かに侵食され始めた。仕事を終えて一息ついた時。淹れたてのコーヒーの香りに心が和んだ時。好きな音楽を聴いてリラックスした時。決まって「それ」は現れる。ほんの一瞬、視界の端をよぎる黒い影。誰もいないはずの背後からの冷たい気配。安堵し、心が弛緩する、その刹那を狙いすましたかのように。
湊は気づいてしまった。自分は「安心」してはいけないのだと。安堵は、あの影を呼び寄せる引き金なのだ。息を吐くことすら、今は贅沢すぎる安息なのだと。
第二章 渇望する心臓
湊の生活は一変した。安らぎを自ら遠ざけるための、奇妙で倒錯した日々が始まった。
彼は眠ることをやめた。瞼を閉じれば、意識は安らかな闇へと沈んでいく。それは「それ」を呼び寄せる、最も危険な行為だった。濃く煮出したコーヒーを水筒に詰め、一日中それを呷り続けた。カフェインの力で無理やり覚醒させた神経は、常にささくれ立ち、世界が敵意を持って自分を見ているかのような被害妄想に囚われた。
職場では、わざと小さなミスを犯した。完璧主義者の彼にとって、それは自らの腕を切り落とすような苦痛だったが、上司の怒声や同僚の軽蔑の視線は、彼の心に確かな緊張をもたらしてくれた。叱責されている間、心臓は激しく鼓動し、冷や汗が背中を伝う。その不快な興奮状態だけが、影の気配を遠ざけてくれる唯一の盾だった。
「茅野くん、最近どうしたんだ? 顔色が紙みたいだぞ」
心配そうに声をかけてきた先輩の言葉にも、湊は曖昧に笑って会釈するだけだった。説明できるはずがない。「ホッとすると、化け物が出るんです」などと、誰が信じるだろう。人々が当たり前に享受している安らぎが、自分にとっては命を削る毒なのだと、どう伝えればいいのか。
世界から切り離されたような孤独感が、湊の心を凍らせていく。街を行き交う人々は皆、幸せそうに見えた。カフェで談笑する恋人たち。公園で子供をあやす母親。ベンチでうたた寝をする老人。彼らの表情に浮かぶ穏やかな安堵を見るたびに、湊は嫉妬と恐怖で吐き気をもよおした。
なぜ、自分だけが。
この呪いはどこから来たのか。湊は、血走った目で記憶の糸をたぐり寄せた。きっかけは何か。何か特別なことをしたか?
思考が空転するばかりで、答えは見つからない。疲労と睡眠不足で、頭には常に分厚い靄がかかっているようだった。思考がまとまらない。このままでは、精神が崩壊する。
そんな焦燥感に駆られていたある夜、彼は本棚の隅にある一冊のゲラ刷りに目を留めた。それは、彼がこの異変に気づく少し前に校了した、無名の怪談作家の遺稿集だった。
作家の名前は、硯(すずり)幽(ゆう)。担当編集者によれば、誰にも知られることなく、アパートの一室で孤独死していたらしい。
湊はそのゲラ刷りを手に取った。ざらりとした紙の感触が、妙に生々しい。彼は無意識のうちに、ある一編のタイトルに指を滑らせていた。
『安息を喰らうもの』
その文字列を見た瞬間、湊の心臓が警鐘のように激しく鳴り響いた。これだ。全ての始まりは、この物語を読んだ時からだったのではないか。
第三章 インクに染みた呪詛
湊は、震える手でゲラ刷りのページをめくった。カフェインで無理やり覚醒させた脳が、インクの文字を必死に追いかける。
『安息を喰らうもの』は、ある男が主人公の短い物語だった。男は、ある日を境に、心が安らぐたびに黒い影を見るようになる。影は安堵を糧とし、現れるたびに男の生命力を少しずつ吸い取っていく。男は影から逃れるため、自らを常に苦痛と緊張の坩堝に叩き込み続ける。しかし、心身は次第に限界を迎え、ついには全てを諦めて深い安堵のため息をついてしまう。その瞬間、影は男を完全に飲み込み、物語は終わる。
読み終えた湊は、愕然とした。そこに書かれていたのは、まさしく自分自身の体験そのものだった。細部の描写、影が現れるタイミング、主人公が追い詰められていく心理。あまりにも酷似している。
これはただの偶然なのか? それとも……。
湊はいてもたってもいられず、翌日、会社を休んで作家・硯幽について調べ始めた。公表されている死因は「急性心不全」。しかし、湊にはそれが単なる病死とは思えなかった。彼は出版社の記録を頼りに、硯の遺族であるという老婆、彼の母親に連絡を取った。
電話口の母親は、ひどく憔悴した声で、息子の奇行について語ってくれた。
「あの子は……何かに怯えていました。いつも部屋に閉じこもって、ブツブツと独り言を……。『書かなければ。物語に閉じ込めなければ』と、そればかり」
彼女の話によれば、硯は自身が体験した怪異を物語として書き記すことで、その呪いを封印できると信じていたらしい。それは、古くから伝わる「呪いを他者に語ることで、その厄災を分かち与える」という呪術の一種だった。
「あの子は言っていました。『この物語を、ただの作り話だと思わずに、心の底から理解し、共感してしまった人間がいたら、その人に"あれ"は移るだろう』と……」
湊は受話器を握りしめたまま、凍りついた。
脳裏に、この原稿を校正していた時の記憶が鮮明に蘇る。文章の隅々まで神経を行き届かせ、誤字脱字はもちろん、登場人物の感情の機微、情景描写の矛盾点まで、深く、深く読み込んでいた。そして、最後のページを読み終えた時、確かにこう思ったのだ。
「凄まじいリアリティだ。まるで実体験のようだ。……ああ、これでこの陰鬱な話も終わりか。良かった」
その、校正者としての職務を全うした達成感と、物語の恐怖からの解放感。
あの安堵こそが、引き金だったのだ。
物語は硯幽という作家を喰らい尽くし、そのインクに染みた呪詛は、次なる宿主を探していた。そして、最も忠実で、最も深く共感した読者である校正者・茅野湊に、その牙を突き立てたのだ。
絶望が、冷たい津波のように湊の全身を飲み込んでいった。逃れる術は、一つしかない。
自分もまた、この体験を物語として書き記し、どこかの誰かに読ませる。自分と同じように、深く共感してくれる「次の犠牲者」を見つけ出すこと。
他者を地獄に突き落として、自分だけが助かるのか?
湊の心の中で、人間としての最後の倫理観が、悲鳴を上げていた。
第四章 影との共生
湊はペンを取った。いや、パソコンのキーボードに指を置いた。
数日間、彼は空の画面を前にただ座っていた。誰かを犠牲にするための物語など、一行も書けなかった。その間にも、影は湊のすぐそばをうろつき始めていた。カフェインも、人為的に作り出したストレスも、もはや効き目が薄れていた。ふとした瞬間に訪れる微かな気の緩みを、影は見逃さない。それはもう、視界の隅に見える黒い染みなどではなかった。はっきりとした人の形を取り、まるで湊の消耗を愉しむかのように、部屋の中を静かに歩き回っていた。
もう限界だった。思考はまとまらず、幻聴が聞こえ始める。このままでは狂ってしまう。
誰でもいい。誰か、この苦しみを代わってくれ。
そんな利己的な叫びが心を支配した時、湊は衝動的にキーボードを叩き始めた。自分の体験を、恐怖を、絶望を、一言一句違わずに文章へと変換していく。これで助かる。この物語を誰かが読めば、自分は解放される。
しかし、物語が佳境に差し掛かった時、彼の指はふと止まった。
画面に映し出された、絶望にくれる主人公の姿。それは紛れもなく自分自身だった。安堵を渇望しながら、決して得ることのできない地獄。これを、見ず知らずの誰かに押し付けていいのか?
湊は、ふと、硯幽という作家のことを思った。彼もまた、同じ葛藤の末に、この呪いの物語を書き上げたのだろうか。それは誰かを陥れるためだったのか。それとも、ただ、誰かにこの恐怖を分かってほしかっただけではないのか。孤独の中で、理解者を求めていたただけではないのか。
安堵が怖い。リラックスすることが、死に繋がる。
だが、本当にそうだろうか?
影は、本当に自分を殺そうとしているのだろうか。それとも、これは極度の緊張とストレスから解放されたいという、自分自身の心が作り出した幻影ではないのか。安堵を求める心が、安堵を恐れる心によって歪められ、具現化した姿。それが、あの影の正体ではないのか。
そうだとしたら、自分が戦うべきは影ではない。この「安堵=恐怖」という、自らに課した呪縛そのものだ。
湊は、書きかけていた原稿をすべて削除した。
そして、静かに立ち上がり、キッチンでお湯を沸かした。戸棚の奥から、来客用に買っておいた上等な紅茶の葉を取り出す。丁寧に、心を込めて一杯のミルクティーを淹れた。湯気と共に立ち上るベルガモットの甘い香りが、鼻腔をくすぐる。
カップを両手で包み込み、ゆっくりとソファへと向かう。部屋の隅には、いつも通り、あの影が佇んでいた。以前よりもずっと濃く、大きく、そして近くに。
湊は影から目を逸らさなかった。
ソファに深く、深く身を沈める。背骨がきしむ音さえもが、心地よい。温かいカップの熱が、冷え切った指先にじんと伝わってくる。
湊はゆっくりとミルクティーを一口含んだ。優しい甘さと豊かな香りが、口の中に広がる。渇ききった喉を、温かい液体が潤していく。
そして彼は、この数週間、自ら禁じていた行為を、意を決して行った。
すべての力を抜き、身体を弛緩させ、心の底から、深く、長く、安堵のため息をついた。
「……ふぅ」
その瞬間、影が動いた。音もなく、滑るようにして、湊の方へと近づいてくる。
湊は目を閉じなかった。迫りくる絶対的な闇を、ただじっと見つめていた。もう、恐怖はなかった。不思議と、心は凪いでいた。
影は湊の目の前で止まると、その黒い輪郭を揺らめかせた。それは襲い掛かってくるのではなかった。ただ、疲れ果てた湊に寄り添うように、静かにそこにいるだけだった。まるで、長い間ずっと緊張し続けてきた友人を、黙って慰めるかのように。
恐怖は消えなかった。影は、今も彼の部屋の隅にいる。
しかし、湊はもう逃げないと決めた。安堵を恐れることもやめた。この影は、自分自身の一部なのかもしれない。極限の緊張から自らを守るために生まれた、孤独な番人なのかもしれない。
これからは、この静かな影と共に生きていく。
それは、終わりのない恐怖の始まりなのか、それとも、彼が自らに課した呪縛から、ようやく解放された瞬間だったのか。答えは、まだ誰にも分からなかった。