揺り籠の守り人

揺り籠の守り人

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第一章 孤独の旋律

古びた木製のロッキングチェアだけが、がらんどうの部屋の真ん中に鎮座していた。俺、相馬健太がこの川沿いのマンションに越してきた時、それは前の住人の忘れ形見のように、ただそこに在った。不動産屋の男は「処分に困っていたそうでして…よろしければお使いください」と曖昧に笑ったが、その目には一瞬、哀れみのような色が浮かんだ気がした。

俺はフリーのグラフィックデザイナーだ。人付き合いが苦手で、一人で完結するこの仕事を気に入っている。他人との深い関わりは、いつか必ず喪失の痛みを伴う。五年前に唯一の親友を事故で亡くして以来、俺の心は固く閉ざされ、その扉の鍵は海の底にでも沈めてしまったつもりでいた。だから、この静かすぎるほどの部屋と、窓から見える無機質な川の流れは、俺の心象風景に妙に馴染んだ。

最初の異変は、引っ越して三日目の夜に起きた。

仕事を終え、コンビニ弁当を無心で胃に流し込み、ぼんやりと天井を眺めていた時だ。

ギィ………。

静寂を切り裂く、軋んだ音。音源はすぐに分かった。部屋の中央に置かれたロッキングチェアだ。誰も触れていないはずのそれが、まるで人が座って揺らしているかのように、ゆっくりと、しかし規則正しく前後に揺れていた。

心臓が氷の塊を飲み込んだように冷たくなる。見間違いか? いや、暗闇に慣れた目がはっきりと捉えている。ギィ……、ギィ……。振り子のように正確なリズムで繰り返される揺れと音は、俺の孤独な城に侵入してきた不協和音だった。

恐怖に駆られ、椅子を部屋の隅に追いやり、分厚いブランケットを被せた。だが、翌日の夜、俺が疲労困憊で帰宅すると、椅子はまた部屋の中央に戻り、まるで「おかえり」とでも言うように、静かに揺れていた。

処分しよう。そう決意して粗大ゴミのシールを買いに行った。しかし、いざ椅子にシールを貼ろうとすると、なぜか手が動かなかった。長年使い込まれて滑らかになった肘掛け、背もたれに刻まれた微かな傷。それはまるで、誰かの生きた証そのもののように思えて、無機質なゴミとして扱うことに奇妙な罪悪感を覚えたのだ。

その夜、俺は悪夢を見た。夢の中で、俺はそのロッキングチェアの前に立っている。椅子には、おかっぱ頭の小さな女の子が座り、俯いていた。少女はこちらを見ようとしない。ただ、途切れ途切れに、何かを必死に訴えている。

「……かえして……わたしの……大切な……」

その声は悲しみに満ちていて、俺は胸が締め付けられるような感覚と共に目を覚ました。頬に冷たい汗が伝う。部屋は静まり返り、ロッキングチェアは動きを止めていた。だが、あの少女の悲痛な声だけが、耳の奥で木霊し続けていた。

第二章 招かれざる客

ロッキングチェアの怪異は、俺の日常に静かに溶け込んでいった。恐怖は薄れ、代わりに奇妙な同居生活のような感覚が芽生え始めていた。椅子は、俺が仕事に集中している時は静まり、疲れ果ててソファに沈み込むと、慰めるようにゆっくりと揺れ始める。まるで、俺の感情に寄り添っているかのようだ。

夢で見た少女。彼女がこの椅子に憑いているのだろう。俺はそう結論付けた。前の住人について調べると、案の定、幼い娘を病気で亡くした夫婦だったことが分かった。きっと、この椅子はあの子のお気に入りだったのだ。そして、未練を残したまま、この部屋に留まっている。

「何が欲しいんだ?」

ある晩、俺は椅子に向かって話しかけた。返事はない。ただ、ギィ…ギィ…という音が、問いかけに応えるように少しだけ速くなった気がした。

「『かえして』って言ってたな。何を返してほしいんだ?」

その時、ふと、机の上のスケッチブックが目に入った。俺はデザイナーだ。絵を描くことが、俺にとって唯一の他者とのコミュニケーション手段だった。

もしかして。

俺は鉛筆を握り、夢で見た少女の姿を思い出しながら、白い紙の上に線を描き始めた。おかっぱ頭、大きな瞳、少しだけ開いた唇。記憶の中の悲しげな表情を、できるだけ優しく、微笑んでいるように描いてみた。俺がスケッチに集中している間、椅子の揺れは不思議と穏やかになっていった。

数時間後、一枚の似顔絵が完成した。我ながら、よく描けたと思う。まるで、そこに少女が本当にいるかのような生命感が宿っていた。

「これで、いいか?」

俺は完成した絵を、ロッキングチェアにそっと見せる。

その瞬間だった。

部屋の空気が、まるで真冬の湖底のように、深く、重く、凍りついた。今まで規則的に響いていた椅子の軋み音が、ピタリと止んだのだ。生命の鼓動が止まったかのような、絶対的な沈黙。

そして、背後から、吐息よりも冷たい声が聞こえた。

「……それは、誰?」

反射的に振り返る。そこに立っていたのは、夢で見た少女ではなかった。やつれ、色を失った顔。だが、その奥に消えない炎を宿した瞳で俺を射抜く、若い女性の霊。前の住人、あの子の母親だ。彼女の目は、俺が掲げたスケッチブックに釘付けになっていた。

「どうして、あの子の絵を…」彼女の声は怒りと悲しみに震えていた。「あの子はもういない。どこにもいないのよ」

混乱する俺に、母親の霊は続けた。

「私が待っているのは、あの子じゃない。あの子を連れ去った『何か』よ。この椅子はね、あの子が最後に座っていた場所なの。あの子の温もりが、まだここに残っている。だから、奴らが、あの子の最後の温もりさえ奪いに来るのを、ここでずっと、待ち構えているの」

そこで、俺は全てを理解した。

ロッキングチェアが揺れていたのは、少女の霊がいたからじゃない。

母親の霊が、娘を奪った得体の知れない『何か』の気配を察知して、俺に警告するために、必死に揺らしていたのだ。

ギィ…ギィ…という音は、子守唄ではなかった。それは、砦を守るための、悲しい警鐘だったのだ。

そして俺が描いた娘の絵は、彼女の癒えない悲しみを抉り、同時に、娘の魂の残り香に引き寄せられる『何か』を、この部屋に招き入れてしまったのだ。

窓の外で、生ぬるい風が唸りを上げた。暗闇が、以前より一層濃くなった気がした。

第三章 母の砦

「来た…」

母親の霊が、窓の外の闇を睨みつけながら呟いた。彼女の輪郭が、怒りの炎のように激しく揺らめく。窓ガラスがビリビリと震え、部屋の気温が急降下していくのが肌で分かった。闇の向こうから、じわりじわりと、生命力を吸い取るような悪意の塊が滲み出してくる。それは病や死そのものを具現化したような、不定形の「影」。言葉にならない、ただ純粋な喪失の気配が、部屋を満たしていく。

「あの子の思い出まで奪わせない。この椅子だけは、絶対に…!」

母親の霊の叫びは、悲痛な祈りのようだった。彼女はロッキングチェアの前に立ちはだかり、まるで我が身を盾にするように両腕を広げた。

俺は、足が床に縫い付けられたように動けなかった。全身の血が凍りつき、思考が停止する。怖い。逃げ出したい。しかし、娘の最後の温もりを守ろうとする母親の、あまりにも壮絶な姿から、目が離せなかった。

その時、脳裏に、五年前に失った親友の顔が浮かんだ。事故の直前、彼は笑って言ったのだ。「健太がいてくれて、よかった」。俺は、その言葉に応えることができなかった。彼を守れなかった無力感と後悔が、ずっと俺の心を蝕んでいた。だから人を避けた。もう二度と、大切なものを失う痛みを感じたくなかったから。

——一人で戦わせるわけには、いかない。

腹の底から、熱い何かが突き上げてきた。恐怖ではない。これは、決意だ。

「影」は光を嫌うはずだ。俺はグラフィックデザイナー。光と影を操るのが、俺の仕事だ。

俺は凍える手でデスクライトのスイッチを入れた。強烈な光が闇の一部を削り取る。PCのモニターを最大輝度にし、白い画面を表示させる。スマホのライトも点灯させた。ありったけの光を動員し、窓から侵入しようとする「影」に向かって照射する。

「うおおおおっ!」

我ながら情けない雄叫びだった。だが、光を浴びた「影」は、確かに怯んだように後ずさった。

母親の霊が、驚いたように俺を振り返る。

「あんたは娘さんの思い出を守れ!俺は、あんたを守る!」

俺は叫んでいた。

「もう誰も、俺の目の前で失いたくないんだ!」

俺の言葉に、母親の霊の瞳がわずかに見開かれた。彼女の守る意志と、俺の守りたいという意志が、狭い部屋の中で共鳴した。彼女の霊体から放たれる守護のオーラと、俺が放つ人工の光が一つに溶け合い、闇を切り裂く刃となる。

「影」は断末魔のように蠢き、そして、まるで夜明けの霧が晴れるように、静かに闇の中へと溶けていった。

嵐が過ぎ去った後のような、静寂。部屋の空気は、もとの穏やかさを取り戻していた。

母親の霊は、ゆっくりと俺の方を向いた。その表情にはもう怒りはなく、深い、深い感謝の色が浮かんでいた。

「ありがとう…」

彼女は深々と頭を下げた。その姿が、徐々に透き通っていく。

「あの子…きっと、優しいお友達ができたって、喜んでるわ」

彼女は最後に愛おしそうにロッキングチェアにそっと触れると、満足したような微笑みを浮かべ、無数の光の粒となって、穏やかに消えていった。

夜が明け、窓から優しい朝日が差し込んでいた。部屋には静寂が戻り、ロッ"キングチェアは、もう二度と揺れることはなかった。だが、俺はもう、その椅子を怖いとは思わなかった。

俺は机に向かい、スケッチブックの新しいページを開いた。そこに、笑顔の少女を描く。そして、その隣に、優しく微笑みながら寄り添う母親の姿を描き加えた。それは、俺が初めて、ただ誰かのために描いた絵だった。

失うことを恐れるあまり、俺はずっと絆から逃げてきた。でも、知ったんだ。誰かを守りたいという想いは、どんな恐怖をも乗り越える力になることを。

俺はロッキングチェアのそばに寄り、冷たいはずの木の肘掛けにそっと手を置いた。不思議と、人の温もりが残っている気がした。

「おかえり」

俺は誰に言うでもなく、そう呟いた。

それは、長い間留守にしていた母親と娘の魂に呼びかける言葉であり、固く閉ざしていた過去の自分と決別し、新しい一歩を踏み出す、俺自身への言葉でもあった。

部屋に満ちる朝の光は、かつてないほど暖かかった。

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