忘却の残像

忘却の残像

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第一章 失われた肖像

雨の匂いが混じった生温かい風が、美桜の頬を優しく撫でた。都会の喧騒は、このアパートの四階までは届かない。彼女は窓辺に立ち、額縁に収められた一枚の写真を見つめていた。親友、陽菜の二十歳の誕生日パーティーで撮られた、鮮やかな一枚。色とりどりの風船、きらめく紙吹雪、そして何よりも、陽菜の弾けるような笑顔。しかし、美桜はその写真に、ある決定的な違和感を覚えていた。

陽菜の隣、きらめくティアラを付けた陽菜の隣には、いつも美桜がいたはずだった。あの夜、美桜は陽菜と肩を組み、共に最高の笑顔をカメラに向けていた。そう、鮮明に思い出せる。陽菜の腕に触れる自分の指先の感触、シャンパンの泡が弾ける音、皆の祝福の声。しかし、写真には、陽菜の隣に立つ美桜の姿はなかった。そこには、ただ空間だけが広がっている。まるで、そこに最初から誰もいなかったかのように。

美桜は指先で写真の空虚な部分をなぞった。何度見ても、そこに自分の姿はない。心臓が鉛のように重くなる。まさか、自分の記憶違いだろうか?そんなはずはない。あの日の感動は、まるで昨日のことのように鮮烈に思い出せるのだ。何度も陽菜と撮り直した思い出深い一枚。それなのに……。

その日以来、美桜の日常に静かな、しかし確実な歪みが生まれ始めた。友人との他愛ない会話の中で、美桜が語った共有の思い出に対し、「そんなことあったっけ?」と首を傾げられることが増えた。ある友人は、美桜が昔飼っていた犬の話に、「美桜ちゃん、犬なんて飼ってた?」と真顔で問い返した。美桜の記憶の中では、ゴールデンレトリバーの「コタロウ」は、確かに家族の一員だったのだ。彼の温かい毛並み、濡れた鼻、無邪気な瞳。それらの記憶が、まるで他人のもののように、友人には共有されていない。

夜が来ると、不安はさらに募った。部屋の壁から、時折、微かな囁き声が聞こえるような錯覚に陥る。それは意味をなさない、水が流れるような、あるいは遠い場所で誰かが息をひそめているような音だった。視界の隅で、影が不規則に揺れる。美桜は電灯を消すのが怖くなり、寝室のスタンドをつけたまま眠ろうとしたが、瞼を閉じると、空白のポートレートが脳裏に焼き付いて離れない。自分の記憶は、一体誰のものなのだろうか。あるいは、何者かによって、弄ばれているのだろうか。漠然とした恐怖が、美桜の心をじわじわと侵食し始めた。

第二章 囁く影と歪む記憶

記憶の齟齬は、日を追うごとにエスカレートしていった。美桜が書き続けていた日記帳を開くと、過去の記述と自分の記憶が決定的に食い違うページが散見された。まるで、知らない誰かが自分の日記に、自分には覚えのない出来事を書き足したかのように。一週間前に行ったカフェでの出来事が、美桜の記憶では友人と二人だったはずなのに、日記には一人で訪れたと記されている。しかも、そこに書かれているメニューも、美桜が頼んだものとは違う。鳥肌が立つ。これは夢ではない。現実に起きていることだ。

身体的な不調も現れ始めた。朝、鏡を見ると、自分の顔が憔悴しきっているのがわかる。目の下の隈、生気のない肌。原因不明の頭痛が毎日続き、吐き気や目眩に襲われることも増えた。医者には「ストレス性ですね」と言われたが、美桜は自分の精神が正常ではない、あるいは何かに侵されているのだと確信していた。

夜の闇は、美桜にとって最大の恐怖の源となった。アパートの部屋に一人でいると、壁の向こうから聞こえるはずのない足音や囁き声が、より鮮明に聞こえるようになった。それは、美桜の記憶の空白部分から染み出してくる、不気味な音のようだった。部屋の空気は常に淀み、何か異質なものが漂っているような感覚。影が、意識しない間に伸びたり縮んだりしている。家具の配置が、ほんの少し、毎日変わっているように思える。気のせい、気のせいだと自分に言い聞かせるが、疑念は拭えない。

ある夜、美桜は耐えきれず、洗面所の鏡の前に立った。疲労困憊の顔が、そこに映っている。その瞬間、美桜は自分の背後に、ぼんやりとした人影のようなものが浮かび上がるのを見た。それは輪郭が曖昧で、性別も年齢も判別できない。ただ、黒い靄のように、そこに「ある」という存在感を放っていた。美桜の心臓が激しく脈打ち、呼吸が止まる。その影は、美桜の顔から、あるいは胸から、何かを吸い取っているかのように見えた。美桜が振り向こうとすると、影はゆっくりと闇の中に溶け込み、消え失せた。

「何なの…?あなた、一体、何なの…!」

美桜は鏡に向かって叫んだ。自分の記憶を、感情を、何か大切なものを奪い去っている存在。それは悪夢なのか、それとも現実の恐怖なのか。美桜は自分の正気を疑いながらも、真実を突き止めなければならないという強迫観念に駆られていた。このままでは、自分自身が消滅してしまうような気がしたのだ。

第三章 真実の扉、偽りの鍵

美桜は、自分が何者かによって記憶を書き換えられ、感情を吸収されていることを確信した。漠然とした不安は、明確な敵意へと変わっていった。だが、その「敵」の正体は分からない。美桜は、自分以外にも同じような被害者がいるのではないかと考え、過去の友人たちに片っ端から連絡を取ろうとした。しかし、電話をかけても出ない。メールを送っても返信がない。まるで、美桜の周囲から、大切な人々が一人、また一人と消え去ってしまったかのように。

そんな中、唯一、連絡が取れたのが幼馴染の陽太だった。陽太は、美桜が記憶の異変について訴えるのを、最初は困惑した表情で聞いていた。しかし、美桜のあまりの憔悴ぶりに、彼は真剣な面持ちで話を聞くようになった。陽太は美桜の幼い頃からの親友であり、彼女にとって唯一、心を許せる存在だった。

「僕も、最近、時々変な夢を見るんだ。昔の出来事が、違う形になって現れるような……」陽太の言葉に、美桜は安堵を覚えた。一人ではなかったのだ。

美桜は陽太に、自分の記憶が書き換えられていること、そしてその「実体」が感情のエネルギーを吸収して存在しているという仮説を打ち明けた。陽太は黙って耳を傾けていたが、その表情が徐々に、美桜には見慣れない冷たいものに変わっていくことに、美桜は気づいた。彼の瞳の奥に、何か隠された光が宿っているように見えた。

陽太は静かに立ち上がり、美桜の部屋の奥から、古びたフォトアルバムを持ってきた。そして、一枚の写真を取り出し、美桜の前に差し出した。そこに写っていたのは、幼い美桜と、陽太。二人は手を繋ぎ、満面の笑みを浮かべている。しかし、美桜の心臓は再び凍り付いた。二人の間、陽太の隣には、もう一人の幼い女の子が立っていたのだ。美桜と瓜二つの顔をしたその少女は、二人を見つめて、少し寂しげに微笑んでいた。

「この子は……誰?」美桜は震える声で尋ねた。自分の記憶に、この少女は存在しない。

陽太は美桜の目を見つめ、低い声で言った。「君の記憶を書き換えていたのは、僕だ」

美桜の頭の中で、全ての音が消え失せた。信頼していた、唯一の拠り所だと思っていた陽太が、自分を陥れていた犯人だというのか?裏切り、絶望、そして、底なしの恐怖が美桜を襲った。しかし、陽太は美桜の混乱をよそに、ゆっくりと、そして悲痛な面持ちで語り始めた。

「君を救うためだったんだ。あの時、君は……一人では生きていけないほど、壊れてしまったから」

第四章 残された感情、揺らぐ存在

陽太の言葉は、美桜の知る世界を根底から打ち砕いた。彼は語った。美桜が幼い頃に経験した、ある悲劇について。それは、美桜と、写真に写っていたもう一人の少女、双子の妹「美月」を巻き込んだ、壮絶な交通事故だった。美桜は奇跡的に助かったものの、美月は命を落とした。そして、美桜は、その事故のトラウマから精神を病み、生きる気力を失ってしまったのだと。

陽太は、美桜が廃人のように苦しむ姿を見るに耐えられなかった。彼は、ある特殊な能力を持って生まれた人間だった。それは、物理的な接触を伴わずに、他者の記憶を書き換え、その記憶から発生する感情のエネルギーを吸収し、利用する能力。彼はその力を使って、美桜の心から美月の記憶を消し去り、その悲劇の代わりに、穏やかで平和な記憶を植え付けたのだという。

「僕は、君の悲しみも、苦しみも、全て吸い取って、代わりに君が笑顔でいられる記憶を作り出したかった。あの影は、君が失った美月の記憶の断片と、僕の罪悪感が生み出した幻覚だったのかもしれない。僕の能力が、君の精神に負担をかけていたんだ……」

陽太は苦しそうに顔を歪めた。彼は「実体」などではなかった。美桜を守ろうとした、一人の人間だったのだ。彼の能力は、確かに美桜の感情エネルギーを吸収していたが、それは彼自身の存在を維持するためではなく、美桜の記憶を「操作」し、「安定」させるために必要な「代償」のようなものだった。

美桜は、失われた妹の記憶と、目の前の陽太の悲痛な告白の間で、深い混乱と葛藤に陥った。自分の存在そのものが、偽りの上に成り立っていたという衝撃。しかし、陽太の言葉の端々から滲み出る、彼女への深い愛情と、悲痛なほどの献身が、美桜の心に痛いほど伝わってきた。陽太は、美桜を救うために、自らの能力を使い続け、自身の精神にも大きな負担をかけていたのだ。

「もしかしたら、この世界全体が誰かの記憶の書き換えによって成り立っているのかもしれない」陽太は静かに呟いた。「僕らが今、見ている現実も、誰かによって都合よく書き換えられた『記憶』の一部なのかもね」

その言葉は、美桜の心に深い問いを投げかけた。真実を知ってしまった美桜は、これからどう生きればいいのだろうか。失われた美月の記憶を完全に知ることはできない。しかし、陽太が自分を守ろうとしてくれた事実、そして彼が背負ってきた痛みを、美桜は確かに感じ取った。

美桜は、陽太の震える手にそっと自分の手を重ねた。彼の温かさが、美桜の心をゆっくりと溶かしていく。偽りの上に成り立っていたかもしれない記憶。それでも、今、目の前にある陽太とのこの瞬間は、紛れもない真実だと感じた。

「これが真実なら……私達の未来は、私達で作り直そう」美桜は静かに微笑んだ。その表情には、まだ悲しみと戸惑いが混じっていたが、確かな決意の光が宿っていた。

陽太は、美桜の言葉に深く頷き、その手を強く握り返した。二人の間に、静かな、しかし温かい絆が生まれた。美桜は、過去の記憶に囚われるのではなく、この真実を受け入れ、未来へと歩み出すことを選んだ。

美桜は窓の外に目をやった。雨上がりの空は、どこまでも澄み渡っている。しかし、ふと視線の先に、壁のひび割れが目に入った。それはまるで、何かを囁くかのように、不規則な模様を描いている。この真実も、この空も、この部屋も、そして美桜自身の「今」も、本当に自分自身のものなのだろうか。あるいは、どこかの誰かが、美桜のために、あるいは自分自身のために、描き出した「記憶」の一部なのではないか――。

残された問いは、美桜の心に、そして読者の心に、長く深い余韻を残して響き渡る。

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