忘却のエウカリスティア

忘却のエウカリスティア

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第一章 喉元の謝辞

深町湊の日常は、限りなく無音に近い。それは物理的な静寂ではなく、人間関係における音の欠如を意味していた。彼は人と話さず、目を合わせず、世界の片隅で息を潜めるようにして生きていた。彼の喉には、ある一つの言葉を堰き止めるための、分厚い鉛の扉が備わっているかのようだった。

その日も、湊は場末の商店街にある古びた定食屋『ちよだ』のカウンター席で、黙々と生姜焼きを口に運んでいた。湯気の向こうで、店主の老婆、千代が「あら、今日は冷えるねえ」と別の客に話しかけている。その優しい皺の刻まれた声が、湊の鼓膜を不快に震わせた。優しさは、彼にとって毒だった。

食事が終わり、代金を無言でカウンターに置く。その時だった。外が急な土砂降りになっていることに気づいた。傘はない。湊が逡巡していると、千代が店の奥から一本のビニール傘を持ってきた。

「お客さん、これ持っていきな。どうせ置き傘だから」

差し出された傘。その柄に触れるか触れないかの距離で、湊の指が凍りつく。心臓が嫌な音を立てて脈打つ。喉の奥から、熱い塊がせり上がってくる。人間が、親切にされた時にごく自然に発する、あの五文字の言葉。

「あ……」

声が漏れた。まずい。湊は唇を強く噛み締め、千代の手からひったくるように傘を奪うと、背を向けて店を飛び出した。背後から千代の戸惑うような声が聞こえた気がしたが、振り返らなかった。

冷たい雨がアスファルトを叩く匂いが、肺を満たす。湊は傘も差さずに、ずぶ濡れになりながら路地を走った。アパートの錆びた階段を駆け上がり、自室に転がり込む。鍵を閉め、ドアに背中を預けてずるずると床に座り込んだ。

「……りがとう」

誰にも聞こえない声で、彼は呟いた。その言葉を口にするだけで、世界が歪み、大切な何かが音を立てて崩れ落ちる幻覚に襲われる。

「ありがとう」――それは、湊にとって最も残酷な呪いの言葉だった。それを口にしてしまえば、向けた相手の、最も大切な記憶を一つ、永遠に奪い去ってしまうのだから。

第二章 夏蝉の忘却

湊がこの呪いを自覚したのは、まだ蝉の声が喧しい夏のことだった。八歳の彼にとって、祖母の存在は世界のすべてだった。縁側で一緒に食べたスイカの味。線香花火の儚い光。怪談話に震えながらしがみついた、温かくて大きな背中。

その夏、祖母は病に倒れた。日に日に痩せていく祖母の手を握りながら、湊は生まれて初めて、心の底からの感謝を覚えた。いなくならないでほしいという祈りと、これまでの愛情への返礼を込めて、彼は言ったのだ。

「おばあちゃん、いつも、ありがとう」

その瞬間、祖母の瞳からふっと光が消えたように見えた。翌日、見舞いに行った湊に、祖母は穏やかに微笑みかけた。

「坊やは、どちらさんかね?」

医者は、病による一時的な記憶障害だろうと言った。しかし、湊にはわかっていた。祖母の記憶から抜け落ちたのは、他の何でもない、湊と過ごした夏の日々の、かけがえのない思い出だった。祖母は、孫の顔さえも忘れてしまった。彼女の最も大切な記憶は、湊そのものだったのだ。

それ以来、湊は感謝を封印した。人と深く関わることをやめ、優しさから逃げ、孤独という名の鎧を纏った。誰かの大切なものを、二度と壊さないために。

定食屋『ちよだ』に通い始めたのは、偶然だった。だが、千代は湊の纏う鎧を意にも介さず、いつも静かに、そこにいることを許してくれた。彼女の店には、一枚の色褪せた写真が飾られていた。海を背景に、はにかむように笑う若い頃の千代と、日に焼けた顔で彼女の肩を抱く男性。亡くなったご主人だろう。千代が時折その写真に向けて浮かべる、慈しむような眼差しを見るたび、湊は胸が締め付けられた。

あれが、彼女の最も大切な記憶。自分が「ありがとう」と言ってしまえば、あの笑顔の記憶さえも、跡形もなく消し去ってしまうかもしれない。その恐怖が、湊を常に無口にさせた。

千代は、湊が残したビニール傘の件を気にも留めず、いつも通り「今日はアジの開きがいいよ」と勧めてくる。その変わらない日常が、湊にとって唯一の救いであると同時に、いつ壊れるか分からないガラス細工の上を歩くような、絶え間ない緊張を強いていた。彼はただ、この静かな時間が永遠に続けばいいと、誰にともなく願うしかなかった。

第三章 無垢なる忘恩

運命が牙を剥いたのは、木枯らしが吹き荒れる冬の夜だった。

閉店間際の『ちよだ』で遅い夕食を終え、湊が席を立とうとした、その時。店の引き戸が乱暴に開けられ、目出し帽を被った男が転がり込んできた。その手には、鈍い銀色に光るナイフが握られていた。

「金を出せ!騒ぐと刺すぞ!」

男の甲高い声が、店内の温かい空気を切り裂く。千代はカウンターの内側で、恐怖に凍りついていた。男は千代の細い腕を掴み、喉元にナイフを突きつける。

「早くしろ!」

その光景を見た瞬間、湊の頭から思考が消えた。恐怖も、呪いのことも、すべてが吹き飛んだ。気づいた時には、体が勝手に動いていた。椅子を蹴り倒し、一直線に男に突進する。渾身の力で突き飛ばされた男は、千代から離れて床に倒れ込んだ。

「うわっ!」

しかし、体勢を崩した男が振り回したナイフが、湊の左腕を深く切り裂いた。灼熱の痛みが走り、生暖かい血が服を濡らしていく。湊は構わず、男の上に馬乗りになり、その手からナイフを叩き落とした。店の外で騒ぎに気づいた通行人が、警察に通報する声が聞こえる。やがて、サイレンの音が近づいてきて、男は駆けつけた警官に取り押さえられた。

湊は、流れ落ちる血で霞む視界の中、千代が駆け寄ってくるのを見た。彼女は涙でぐしゃぐしゃになった顔で、震える手で湊の傷口を押さえた。

「しっかりして!ああ、なんてこと……」

意識が遠のいていく。朦朧とする湊の耳に、千代の嗚咽に混じった声が、はっきりと届いた。

「ありがとう……!本当に、ありがとう……!あなたがいなかったら、私は……!」

その言葉を聞いた瞬間、湊の世界から、すべての音が消えた。違う。そうじゃない。俺が「ありがとう」と言わなければ、呪いは発動しないはずだ。なのに、なぜ。まるで世界の法則が根底から覆るような、圧倒的な絶望が彼を飲み込んだ。

次に湊が目を覚ましたのは、消毒液の匂いが充満する病院の白いベッドの上だった。腕には包帯が巻かれ、鈍い痛みが現実を告げている。しばらくして、見舞いに来たらしい千代が、看護師に付き添われて病室に入ってきた。

湊は息を飲んだ。彼女の記憶は、どうなっている?

「あの……」

湊が声をかけると、千代は不思議そうに小首を傾げた。その瞳には、親愛も、感謝も、心配も、何一つ映っていなかった。ただ、見ず知らずの人間に対する、当たり障りのない会釈があるだけだった。

「どなた様でしょうか?お見舞いの方ですか?」

看護師が困ったように説明する。「この方が、あなたを強盗から庇ってくださった深町さんですよ」。

しかし、千代は戸惑った表情を浮かべるだけだった。「強盗……?そういえば、そんなことがあったような……でも、この方のお顔には、まったく見覚えが……」

その時、湊は悟った。呪いの本当の姿を。

記憶を奪うのは、自分が感謝を「告げた」時ではなかった。

誰かが、自分に対して心からの感謝を「抱いた」時。その感謝の対象となった出来事、つまり、自分との関わりそのものが、相手の記憶から完全に消滅するのだ。

人を避けてきたのは、自分が誰かを傷つけないためだった。だが、真実はもっと残酷だった。自分が誰かを助け、感謝された瞬間、自分という存在は、その人の世界から消えてしまう。救えば救うほど、忘れられる。善意を尽くすほど、孤独になる。これ以上の地獄があるだろうか。

湊は、声もなく泣いた。

第四章 雪に溶ける声

退院の日、空からは季節外れの細雪が舞っていた。腕の傷はまだ痛んだが、それ以上に、心の空洞が冷たく軋んでいた。湊はアパートに戻り、最低限の荷物を鞄に詰め込んだ。もう、この街にはいられない。

最後に、一度だけ『ちよだ』の前を通りかかった。ガラス戸の向こう、温かい光の中には、常連客と談笑する千代の姿があった。彼女は幸せそうに笑っていた。湊に命を救われたことも、湊という客がいたことさえも知らずに。彼女の平穏は、湊という存在の忘却の上に成り立っている。

これで、よかったのかもしれない。

自分は誰かの記憶から消えることでしか、誰かを本当に守れないのだ。自分が関わることで生まれる幸福な記憶は、感謝という感情によって、必ず消し去られてしまうのだから。

それは呪いか。それとも、歪んだ救済の形なのか。

湊は、雪が積もり始めた夜の街に背を向けた。どこへ行くという当てもない。ただ、誰にも感謝されることのない場所へ、誰の記憶にも残らない場所へ、行かなければならない。

歩きながら、彼は不意に空を見上げた。冷たい雪の結晶が、頬に触れて溶けていく。その感触が、なぜか遠い夏の日の祖母の手を思い出させた。

彼は、誰に聞かせるでもなく、吐息のように白い息と共に、その言葉を呟いた。

「ありがとう」

それは、自分を忘れてしまった千代への感謝。自分を産んでくれた両親への感謝。そして、この孤独な生を与えた、理不尽な運命そのものへの、静かな肯定だった。

誰かの記憶を奪うことのない、生まれて初めての、純粋で、透明な感謝の言葉。

その声は、降りしきる雪に吸い込まれ、誰の耳にも届くことなく、静かに夜の闇へと溶けていった。彼の姿が街の灯りから遠ざかり、やがて闇に紛れて見えなくなる頃、雪はさらにその勢いを増していた。まるで、彼の足跡さえも、この世界から消し去ろうとするかのように。

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