影喰らいの鎮魂歌
第一章 染み付いた後悔
影見 零(かげみ れい)は、アスファルトに落ちた影を踏まないように歩く。それは彼にとって、呼吸と同じくらい無意識の習慣であり、呪われた生を生き抜くための、ただ一つの作法だった。
彼の瞳には、世界が異様に映る。人々の足元に伸びる影は、単なる光の欠落ではない。その人の心の最も暗い場所に澱む、「最も深い後悔」が、そこでは絶えず再生される活動写真なのだ。だから零は、決して他人の影を踏まない。そして、誰とも目を合わせない。他者の後悔の激流に、精神が削り取られてしまうからだ。
この街は、死者の後悔で満ちている。人々が死後、その場に残していく『懺悔の影』。人生最大の過ちを永遠に再生し続ける、黒い染み。人々はそれを気味悪げに避け、見て見ぬふりをする。いずれは陽光に溶けて消える、ありふれた街の景色の一部として。
だが、最近は何かがおかしい。消えるはずの影が消えず、まるで意思を持ったかのようにアスファルトの上を蠢き、徘徊している。その数も、日増しに増えているようだった。零が横断歩道の前で立ち止まると、向かいからよろよろと歩いてくる老人の『懺悔の影』が目に入った。それは、若い頃に友を裏切った瞬間の映像を映していた。しかし、その苦悶する友の顔の奥に、一瞬、全く別の誰かの、憎悪に燃える瞳が見えた気がした。零は鳥肌が立つのを感じ、ぎゅっと目を閉じた。
第二章 銀針を持つ老婆
けたたましいブレーキ音と、幼い悲鳴が響いた。
零が顔を上げると、交差点に飛び出した少女に、徘徊していた一つの『懺悔の影』が、まるで捕食者のように手を伸ばしていた。それは、飲酒運転で事故を起こした男が残した影だ。アスファルトの上を滑るように少女に迫る影の動きは、生前の意志とは明らかに異質だった。人々は遠巻きに見て、悲鳴を上げるだけ。
零は、思わず駆け出そうとした。だが、彼よりも速く動いた者がいた。
カツン、と硬質な音を立てて、路面に突き立てられた一本の銀色の針。老いた手が握るその針は、影の先端を正確にアスファルトに縫い付けていた。影はビクリと痙攣し、その場で動きを止める。静止した影は陽炎のように揺らめき、その表面に一瞬だけ、持ち主とは違う、怒りに歪んだ若い女の顔を映し出して、すぐに消えた。
「……お前さんには、視えすぎちまうようだね」
しわがれた声だった。振り返ると、古びた着物を着た小柄な老婆が、零を静かに見つめていた。彼女は縫い付けた針を抜き取ると、それを零の手に握らせた。ひやりとした金属の感触。
「これは『影縫いの針』。行き場のない声を、一瞬だけ縫い止めることができる。だが、気をつけるんだよ。この街は、忘れ物で溢れかえっている。忘れ物は……やがて持ち主を探し始めるのさ」
老婆はそれだけ言うと、人混みの中へ消えていった。零の手には、月光を固めたような、冷たい銀の針だけが残されていた。
第三章 異質の貌(かお)
その夜、零は人気のない路地裏にいた。昼間見た、怒りに歪んだ女の顔が忘れられなかった。彼は掌の中の『影縫いの針』を握りしめ、目の前を徘徊する『懺悔の影』と対峙する。それは、事業に失敗し、家族を路頭に迷わせた男の影だった。影の中では、男が呆然と立ち尽くす姿が繰り返し映されている。
零は息を止め、針を突き立てた。
影は縫い止められ、動きを止める。そして、やはり。影の表面に、持ち主ではない、痩せこけた少年の恨みがましい顔が浮かび上がった。
零は、己の能力を最大限に集中させ、その影の深淵を覗き込んだ。そこにあったのは、男の後悔だけではなかった。彼の事業の失敗の裏で、正当な対価を支払われず、病気の家族を抱えたまま静かに命を落としていった、名もなき下請け工場の少年の「無念」が、黒い渦となって荒れ狂っていた。
本来、その無念は、男自身の影に宿り、彼に罪を意識させ続けるはずだった。だが、男はとうにその後悔を忘れ、酒に溺れ、己の不運を嘆くだけの日々を送っていた。生者の心から後悔が薄れるとき、そこに宿っていた犠牲者の魂は居場所を失う。そして、持ち主のいなくなった空っぽの器――『懺悔の影』に流れ込み、彷徨い始めるのだ。
街に溢れる影は、死者の後悔ではなかった。
生者に見捨てられ、忘れ去られた、犠牲者たちの魂の叫びだったのだ。
第四章 忘却の集合体
真実に気づいた零の目に映る世界は、地獄へと姿を変えた。街を行き交う全ての人々の無関心さが、皮膚を刺すように痛い。彼らが聴いている音楽、夢中になっているスマートフォンの画面、その全てが、過去の過ちから目を逸らすための装置に見えた。
後悔は、あまりにもたやすく風化する。忘れられた痛みは、行き場をなくす。
その日、街の空が不意に暗くなった。人々が空を見上げる中、零だけが地面を見ていた。街中の『懺悔の影』が、まるで鉄に引かれる砂鉄のように、中心部の広場へと集まっていく。無数の影が溶け合い、混ざり合い、一つの巨大な影の塊を形成していく。
それは、特定の誰かの後悔ではなかった。この街がかつて経験し、そして今はもう誰も語らなくなった、大規模な工場火災。ずさんな管理体制のせいで、多くの命が失われた大災害。その忘れ去られた犠牲者たちの魂が、無数の『懺悔の影』を乗っ取り、一つの巨大な「忘却への怒り」として具現化したのだ。
巨大な影は、ビルを飲み込むように膨れ上がり、無数の苦悶の顔をその表面に浮かび上がらせる。それは音のない慟哭であり、世界への呪詛だった。人々はただ、理解不能な恐怖に叫び、逃げ惑うだけだった。それが自分たちの「忘却」が生み出した怪物だとは、誰も気づかずに。
第五章 器の選択
「やはり、こうなったかい」
混乱の広場に、いつの間にかあの老婆が立っていた。彼女は巨大な影を静かに見上げ、零に言った。
「あれは、忘れられた者たちの嘆きだ。誰かがその声を聞き、その痛みを記憶しない限り、怒りは鎮まらない。そして……お前さんだけが、その器になれる」
器。その言葉の意味を、零は痛いほど理解した。
この呪われた能力は、そのためにあったのかもしれない。
彼は、孤独だった。常に他者の後悔から逃げ、世界との間に壁を築いて生きてきた。だが、今、目の前にあるのは、誰からも記憶されず、声すら届かない魂たちの、純粋な孤独だった。それは、零が抱えてきた孤独とは比べ物にならないほど、深く、冷たい闇。
このまま世界が忘却に喰われるのを見過ごすか。
それとも、自分が全ての声を受け入れるか。
零は、ゆっくりと目を閉じた。彼の脳裏に、これまで見てきた無数の後悔と、その奥にあった犠牲者たちの顔が浮かぶ。彼らの痛みは、もう他人事ではなかった。
「……わかっています」
零は静かに呟き、老婆に向かってかすかに微笑んだ。それは彼が、生まれて初めて浮かべた心からの笑みだったのかもしれない。
第六章 鎮魂の収束
零は、暴走する巨大な影の中心に向かって、一歩、また一歩と歩を進めた。逃げ惑う人々の流れに逆らい、ただ一人、闇の根源へと向かう。
彼は広場の中央で立ち止まり、両腕を広げた。そして、己の能力を、そのベクトルを、初めて内から外へと、そして世界へと解き放った。
「お前たちの痛みも、怒りも、悲しみも」
彼の声は、誰にも聞こえない。だが、魂には届いていた。
「俺が、決して忘れはしない」
その言葉を合図に、世界が変わった。
巨大な影が、街中に徘徊していた全ての『懺悔の影』が、光の奔流となって零へと殺到した。黒い光の帯が、無数に、彼の足元の影へと吸い込まれていく。
零の影は、底なしの沼のように広がり、全ての嘆きを、全ての無念を、静かに飲み込んでいく。
人々の目には、一人の青年が自らの影に喰われていくようにしか見えなかっただろう。彼の身体は徐々に輪郭を失い、黒い影の中に沈んでいく。最後に残った彼の瞳には、安らかな光が宿っていた。
やがて、全ての影が消え、街に眩いほどの陽光が戻ってきた。
そこに、影見 零の姿は、もうなかった。
第七章 生ける影の見る夢
街から、全ての『懺悔の影』が消え去った。人々は不思議に思いながらも、すぐにその日常に慣れ、街が少しだけ明るくなった、と噂した。
零の存在を覚えている者は、もうどこにもいない。
ただ、奇妙なことが一つだけあった。
太陽がどんなに高く昇っても、決して消えることのない一つの影が、街のどこかに必ず落ちているのだ。教会の尖塔の下に。公園のベンチの傍らに。雑踏の片隅に。それはまるで、世界そのものが落とす影のように、濃く、静かに、そこに在った。
その揺らぐことのない影の中で、零は永遠の夢を見ている。
忘れ去られた犠牲者たちの声に耳を傾け、彼らの失われた物語を、一つ一つ丁寧に紡いでいる。彼はもう孤独ではなかった。無数の魂と共に、この世界が犯し続ける「忘却」という罪に、たった一人で抗い続ける。
時折、風に舞った一枚の落ち葉が、その影の上にふわりと落ちる。
葉は、影に触れた瞬間、音もなく、その深淵へと吸い込まれて消えていった。