第一章 最初の不協和音
防音扉が外界の喧騒を完全に遮断したスタジオは、深海のような静寂に満ちていた。水島蓮はミキシングコンソールに身を沈め、ヘッドフォン越しに流れ込む音の粒子に意識を集中させていた。彼はサウンドデザイナー。空気の振動を拾い、感情を乗せ、物語を紡ぐのが仕事だ。深夜三時。締め切り間際の作業は、彼にとって孤独だが心地よい時間のはずだった。
その時だ。
キィン、と鼓膜を刺すような高音が響いた。いや、音というよりは、脳の神経を直接爪弾かれたような、不快な感覚。蓮は咄嗟にヘッドフォンを外した。だが、音は消えない。それはまるで、錆びついた金属の破片がガラスの上を滑るような、耳障りで非周期的なノイズ。スタジオのどの機材も、そんな音を発してはいない。蓮は立ち上がり、静まり返った部屋の中を見回した。もちろん、誰もいない。
五秒、あるいは十秒ほど続いただろうか。ノイズは、来た時と同じように唐突に消え失せた。後に残されたのは、心臓の早鐘と、耳の奥で微かに反響する残滓だけだ。幻聴か。疲労が溜まっているのだろう。彼はそう結論づけ、冷めたコーヒーを一口含んだ。
その瞬間、彼は奇妙な違和感に襲われた。このコーヒー、何だったか。妻の沙耶がいつも買っていた豆だ。彼女は決まって、少し酸味の強いエチオピア産のものを好んだ。そのはずなのに、その銘柄が、パッケージのデザインが、どうしても思い出せないのだ。まるで、脳の一部分だけが綺麗にくり抜かれたような、空虚な感覚。
「……考えすぎだ」
蓮は呟き、作業に戻ろうとした。だが、彼の指はコンソールの上で虚しく彷徨う。さっきまで頭の中にあったはずの音の構成が、霧散してしまっていた。静寂はもはや心地よくなく、得体の知れない何かが潜む闇のように、彼の背筋を這い上がってくる。
これが、蓮の世界に亀裂が入った、最初の不協和音だった。彼はまだ、そのノイズがこれから彼の魂を少しずつ削り取っていく、恐怖の前奏曲であることを知らなかった。
第二章 色褪せる情景
あの夜以来、忌まわしいノイズは蓮の日常に不定期に侵食してきた。それはいつも唐突に、前触れなくやってくる。満員の通勤電車の中、スーパーで買い物をしている時、そして、亡き妻の写真を眺めている静かな夜。
ノイズが聞こえるたび、蓮は何かを失った。
最初は些細なことだった。沙耶と初めてデートした映画のタイトル。彼女が好きだった花の名前。だが、忘却の浸食は徐々にその範囲を広げ、彼の存在の根幹を揺さぶり始めた。
ある雨の日、彼は本棚から古いアルバムを取り出した。そこに収められていたのは、新婚旅行で訪れた海辺の町の写真だ。夕陽に照らされた砂浜で、幸せそうに微笑む沙耶。彼女の隣で、同じように笑う自分。蓮は、この瞬間の空気の匂いを、肌を撫でた潮風の感触を、鮮明に記憶していたはずだった。
彼は写真に指を触れ、記憶を手繰り寄せようとした。その瞬間、キィィィィン、と脳髄を削るようなノイズが鳴り響いた。蓮は苦痛に顔を歪め、耳を塞ぐ。ノイズが止んだ時、彼は再び写真に目を落とした。
写真は、そこにある。海辺の町で、自分と妻が笑っているという「事実」も理解できる。しかし、そこに付随していたはずの全ての感覚が消え失せていた。夕陽の暖かさも、潮の香りも、彼女の笑い声も、何も感じられない。それはただの、色の付いた紙切れに過ぎなかった。記憶という名の立体的な建築物が、一枚の薄っぺらい設計図に成り果てたかのようだった。
恐怖が蓮の心を支配した。これは単なる物忘れではない。何かが、意図的に彼の内側から沙耶という存在を消し去ろうとしている。彼は音の専門家としての知識を総動員し、ノイズの正体を突き止めようとした。高性能な集音マイクを部屋中に仕掛け、常にレコーダーを持ち歩いた。しかし、結果はいつも同じだった。彼の耳には確かに聞こえているノイズを、どの機材も記録することはなかった。
それは、彼の頭の中でだけ鳴っている音だった。
蓮は日記をつけ始めた。沙耶との思い出を、感情の機微まで詳細に書き連ねた。プロポーズしたレストランの名前、そこで交わした言葉、彼女が流した涙の熱さ。彼は失うまいと、記録という名の防波堤を必死に築いた。
だが、それは虚しい抵抗だった。ノイズが鳴る。日記の一ページに書かれたエピソードが、ただの文字列になる。感情の伴わない、他人事の記録になる。彼は自分の記憶の死体を、毎日検分しているような気分だった。
夜、ベッドに横たわると、隣にいたはずの温もりが思い出せないことに気づき、絶望に身を震わせる。沙耶の肌の感触は? 彼女の髪の匂いは? 蓮はもはや、自分が愛した女性の「実感」を失いつつあった。彼の世界から、ゆっくりと、しかし確実に、沙耶が二度目の死を迎えていた。
第三章 追憶のパラドックス
蓮は、狂気に陥る寸前だった。このままでは、沙耶の顔さえ忘れてしまうだろう。その恐怖が、彼を一つの悍ましい仮説へと導いた。
「まさか……」
ノイズはいつ聞こえる? 共通点はないか? 通勤中、買い物中、そして……アルバムを眺めていた時。日記を読み返していた時。彼は気づいてしまった。ノイズは、彼が「沙耶の記憶を強く意識した時」に鳴るのではないか。愛する人を思い出そうとする行為そのものが、忘却の引き金になっているのではないか。
それはあまりにも残酷で、非論理的な結論だった。だが、確かめずにはいられなかった。
彼はリビングの棚の奥から、小さな木製のオルゴールを取り出した。それは、沙耶が亡くなる前の最後の誕生日に、蓮が贈ったものだった。蓋を開けると、澄んだ、しかしどこか物悲しいメロディが流れ出す。沙耶が大好きだった曲。彼女はこの音色を聞きながら、いつも穏やかに微笑んでいた。
蓮は目を閉じ、そのメロディに全ての意識を集中させた。思い出せ。彼女の笑顔を。あの時の優しい眼差しを。彼女が「ありがとう」と囁いた時の、微かな声の震えを。
思い出せ。思い出せ。思い出せ。
心の中で叫んだ瞬間、それは来た。
キィィィィィィィィィィンンン!!
これまでで最も激しく、長く、鋭いノイズが彼の脳を貫いた。それはまるで、熱した鉄の棒を側頭部から突き刺されるような激痛だった。彼は床に崩れ落ち、頭を抱えて呻いた。視界が明滅し、呼吸が浅くなる。
やがて、嵐のようなノイズが過ぎ去った。蓮はぜえぜえと息をしながら、ゆっくりと顔を上げた。手の中では、オルゴールがまだか細いメロディを奏でている。
彼はその音を聞いた。だが、もう何も感じなかった。それが何の曲なのか、なぜこのオルゴールがここにあるのか、それが自分にとってどれほど大切なものだったのか、全く分からなくなっていた。記憶のページが、また一枚、乱暴に破り捨てられた。
仮説は、絶望的な真実へと変わった。
恐怖の正体は、幽霊でも呪いでもなかった。彼自身だったのだ。愛する妻を失った悲しみが、彼の精神の許容量を超えてしまった。だから、彼の脳は、生き延びるために、究極の自己防衛機能を発動させた。苦しみの源である「沙耶の記憶」そのものを消去し始めたのだ。思い出そうとすればするほど、脳はそれを危険信号と判断し、より強力なノイズで記憶を焼き切る。
蓮は乾いた笑いを漏らした。なんという皮肉か。沙耶を忘れないために必死でもがけばもがくほど、彼女は遠ざかっていく。この苦しみから逃れる方法はただ一つ。彼女を、完全に忘れること。
しかし、それは可能だろうか。沙耶のいない蓮など、もはや蓮ではない。彼女との記憶こそが、彼の人生の全てだった。忘れることは、安らぎではなく、魂の死を意味する。
彼は、愛ゆえに記憶を失うという、出口のない迷宮に閉じ込められてしまったのだ。
第四章 残響、そして旋律
蓮は決断を下した。彼は家中のアルバムを屋根裏部屋に仕舞い、日記をシュレッダーにかけ、沙耶の遺品を段ボール箱に詰めてクローゼットの奥深くに押し込んだ。彼女の面影を呼び起こす可能性のあるものを、物理的に全て排除したのだ。
それから数週間、彼は仕事に没頭した。映画の効果音、CMのジングル、ゲームのBGM。他人の物語のための音作りに己を埋没させることで、彼は自分自身の物語から目を背けた。
効果はあった。忌まわしいノイズは、ぴたりと聞こえなくなった。記憶の欠落も止まった。彼の心には、凪いだ湖面のような静けさが訪れた。だが、それはあまりにも空虚な平穏だった。世界から色が抜け落ち、全ての音が厚い壁の向こうで鳴っているかのように、現実感がなかった。沙耶を思い出さない彼は、感情の起伏を失った人形のようだった。
ある夜、彼は完成した映画のラッシュ試写を見ていた。クライマックス、主人公が愛する人を失い、絶叫するシーン。その悲痛な叫び声を聞いた時、蓮の心は何も動かなかった。彼は完璧な音響効果でそのシーンを演出したが、そこに込められたはずの悲しみを、全く理解することができなかった。
その時、彼は悟った。
悲しみから逃れるために、記憶を封印した。だが、悲しみと共に、彼は喜びも、愛しさも、そして人間らしさそのものも封じ込めてしまったのだ。沙耶を失った痛みは、彼女を深く愛していた証だ。その痛みごと彼女の記憶を消し去ることは、自らの手で二人の愛を殺す行為に他ならない。
忘れて生き永らえるくらいなら。
彼は家に飛んで帰り、クローゼットの奥から段ボール箱を引きずり出した。箱を開けると、沙耶が愛用していたストールの、微かな香りがした。そして、その中から、一つの小さなベルベットの箱を見つけ出した。
中に入っていたのは、結婚指輪だった。
蓮はその冷たい金属の輪を、震える手で強く握りしめた。これが最後の砦だ。これを手放せば、もう彼女に繋がるものは何も残らない。
彼は目を閉じた。思い出すんだ。全てを。たとえ、この身が壊れても。
プロポーズの夜の、緊張で震えた自分の声。初めて手料理を振る舞ってくれた時の、少し焦げた卵焼きの味。喧嘩した後の、気まずい沈黙。そして、病室で最後に交わした、か細い約束。
彼は、忘却の底に沈んだ全ての記憶を、魂の底から必死に引き上げようとした。
キィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィンンン!!!
脳が焼き切れるような、絶叫のようなノイズが襲った。それは音の暴力だった。彼の意識は白い光に包まれ、急速に薄れていく。全身の力が抜け、指輪が手から滑り落ち、床に乾いた音を立てた。
次に蓮が目覚めた時、彼は見慣れない部屋の床に倒れていた。
自分が誰なのか、分からない。
なぜここにいるのか、思い出せない。
頭の中は、真っ白な静寂に満たされている。
彼はゆっくりと身体を起こした。その時、頬に冷たいものが伝うのを感じた。指でそっと触れると、それは一筋の涙だった。なぜ泣いているのだろう。分からない。けれど、胸の奥深くに、何か温かくて、ひどく切ないものが宿っている感覚があった。
その時だ。彼の耳に、音が聞こえた。
あの忌まわしいノイズではない。
澄み切った、泉の湧き水のような、美しいメロディ。
それは誰かが口ずさむ、優しい鼻歌のようだった。
彼はその旋律を知らなかった。しかし、魂が知っていた。
記憶は全て消え去った。彼の世界から、「水島蓮」と「沙耶」の物語は失われた。
だが、愛は、消えていなかった。
それは最も純粋な「音」となって、彼の魂の最も深い場所に、残響として生き続けていた。
それは恐怖の終わりであり、そして、形を変えた愛の、静かな始まりだった。