第一章 甘く寂しい弔い
その異変は、霧雨のように静かに街を侵食し始めた。
最初に気づいたのは、私の店『L'Odorat de la Mémoire(記憶の嗅覚)』の常連客、佐藤夫人だった。彼女は毎週金曜日に、亡き夫が好きだった白檀の香りを買いに来るのが習慣だった。しかし、その日の彼女は違った。店のドアベルを鳴らして入ってきた彼女は、カウンターの前に立つと、ただ茫然と宙を見つめている。
「いらっしゃいませ、佐藤さん。いつもの、ご用意しますね」
私が声をかけると、彼女はゆっくりとこちらに顔を向けた。その瞳には、見慣れた穏やかな光はなく、まるで水底を覗き込むような、深く昏い空虚が広がっていた。
「……あなたは、どなた?」
その言葉は、私の思考を数秒間停止させた。冗談にしては、彼女の表情はあまりに真剣だった。私が長年、彼女のためだけに調合してきた、夫との思い出が詰まった香りの小瓶を差し出しても、彼女は怪訝な顔で首を傾げるだけだ。
「何か……とても甘くて、少し寂しい香りがしたんです。そうしたら、何もかもが霞んでしまって……夫の顔も、娘の名前も、ぼんやりとしか……」
彼女の呟きは、初夏の湿った空気の中に溶けて消えた。
これが、後に『香り憑き』と呼ばれることになる連続記憶喪失事件の、最初の記録だった。
被害者は一様に、正体不明の「甘く寂しい香り」を嗅いだ直後、自身の最も大切な記憶から順に失っていく。家族の顔、愛した人との時間、自分の名前さえも。彼らは肉体的には無傷だが、その魂は根こそぎ奪われたかのように抜け殻になっていく。警察も専門家も、その香りの成分を検出できず、集団ヒステリーの一種として片付けようとしていた。
そんな中、私、水無月怜(みなづき れい)に、非公式な捜査協力の依頼が舞い込んだ。私は調香師だ。常人には感知できない微細な香りの分子を嗅ぎ分け、その構成や由来を解き明かす、特異な才能を持っている。この鼻が、私の誇りであり、世界の全てだった。
「怜なら、この香りの正体を突き止められるかもしれない」
刑事である旧友の言葉に、私は不遜にも心を躍らせていた。未知の香り。誰にも解けない謎。私の才能を示す、これ以上ない舞台じゃないか。この時、私はまだ知らなかった。その香りが、私自身の記憶の深淵へと繋がる、恐ろしい弔いの旋律であることを。私は傲慢な探求心だけを胸に、甘美な恐怖が渦巻く事件の渦中へと、自ら足を踏み入れたのだ。
第二章 記憶の砂時計
調査は難航を極めた。被害者のいた場所には、確かに微かな残香があった。それはジャスミンのような甘やかさ、沈香のような深み、そして涙の塩辛さを思わせる、矛盾した要素が奇跡的なバランスで混じり合った香りだった。私の知るどんな天然香料とも、合成香料とも違う。それはまるで、誰かの魂そのものが気化したような、生々しくも儚い香りだった。
焦燥感が募る日々の中、私を支えてくれていたのは恋人の樹(いつき)だった。彼は植物学者で、私の鋭敏すぎる嗅覚を、呪いではなく祝福だと笑ってくれる唯一の人間だった。
「怜の鼻は、世界で一番正直なコンパスだよ。きっと、真実に導いてくれる」
彼の言葉は、自信を失いかけた私の心を温める陽だまりだった。
その夜も、私はラボに籠もり、採取した残香の分析に没頭していた。深夜、差し入れを持ってきてくれた樹が、ふと窓の外を見て言った。
「今、すごくいい香りがしなかったか? ほら、窓の隙間から……」
私の血の気が引いた。全身の神経が警鐘を鳴らす。
「樹! 息を止めて!」
叫びながら窓に駆け寄ったが、遅かった。彼の瞳が一瞬、遠くを見るように揺らぐ。そして、彼は何でもないように微笑んだ。
「どうしたんだ、怜。そんなに慌てて」
その瞬間、私は彼の中に、微細だが決定的な変化が起きたことを直感した。
異変は、砂時計の砂が落ちるように、静かに、しかし着実に彼の日常を侵食していった。最初に忘れたのは、私たちが初めて出会った記念日の日付だった。次に、一緒に旅行した場所の名前を間違えた。そしてある朝、彼は私に尋ねた。
「ねえ、怜。僕たち、どうして一緒に暮らしているんだっけ?」
彼の記憶から、私たちの愛した時間が、一粒、また一粒とこぼれ落ちていく。その喪失は、刃物で切りつけられるよりもずっと残酷な痛みだった。私は彼の前では気丈に振る舞いながら、一人になると、自分の無力さに何度も泣いた。私の誇りだったこの鼻が、今や愛する人を蝕む呪いの正体を暴けず、ただその進行を見守ることしかできない。
樹は、記憶を失う恐怖と戦っていた。彼は必死に日記をつけ、写真に説明を書き込み、私との思い出を繋ぎ止めようとした。だが、香りの力はあまりに強大だった。ある雨の日、彼はびしょ濡れで帰ってきた。傘を持っていたはずなのに、その使い方を忘れてしまったのだという。
「ごめん、怜。僕、どんどん馬鹿になっていくみたいだ」
彼の震える声を聞きながら、私は彼を強く抱きしめることしかできなかった。彼の身体から、あの甘く寂しい香りが、微かに漂っている気がした。それは、私たちの記憶を弔う、残酷な献花のように思えた。
第三章 鎮魂の系譜
樹の記憶が薄れるにつれ、私の嗅覚は異常なまでに研ぎ澄まされていった。もはや、それは才能などという生易しいものではなく、呪いそのものだった。私は、街に漂う香りの源流を、狂気的な執念で追い始めた。それは、ある特定の方角から、風に乗って流れてきているようだった。
導かれるようにしてたどり着いたのは、街外れの丘に立つ、蔦に覆われた古い洋館だった。長年、誰も住んでいないはずのその場所から、あの香りは濃厚に立ち上っていた。まるで、建物全体が巨大な香炉となって、悲しみを燻らせているかのように。
門を乗り越え、軋む扉を開けると、むせ返るような香りが私を包んだ。甘く、そしてどうしようもなく寂しい香り。だが、その奥に、私は初めて嗅ぐ懐かしい気配を感じ取った。それは、幼い頃に嗅いだことのあるような、母の化粧台の匂いにも似ていた。
洋館の中を彷徨い、埃をかぶった書斎で一冊の古いアルバムを見つけた。ページをめくると、色褪せた写真の中に、見覚えのある顔があった。若き日の、私の母だ。そして、その隣で微笑む、私とよく似た顔立ちの美しい女性。私は彼女を知らなかった。
その時、背後から声がした。
「……怜? どうしてここに」
そこに立っていたのは、私の母だった。彼女は私の後を追ってきたのだ。その顔は青ざめ、何かを恐れるように震えていた。
母の口から語られた真実は、私の世界を根底から覆した。
写真の女性は、私の祖母、小夜子(さよこ)だった。彼女もまた、私と同じように類稀なる嗅覚を持つ調香師だったという。若くして、才能豊かな植物学者と恋に落ち、この洋館で幸せな時を過ごしていた。しかし、彼は研究中の事故で帰らぬ人となった。絶望した祖母は、彼との最も幸せだった記憶――彼が発見した新種の花の香りと、二人の愛の記憶――を香りに昇華させ、それを永遠に留めようとした。
「あの子は……香りを創り出すことでしか、悲しみを表現できなかったの」
母の声は涙で濡れていた。
「でも、その香りはあまりに純粋で、強すぎた。人の魂に直接作用して、記憶を上書きしてしまうほどの力を……。小夜子自身も、その香りに飲み込まれて、最後は自分の名前さえ忘れて、この洋館でひっそりと息を引き取ったわ」
それが、この事件の真相だった。呪いなどではなかった。これは、愛する人を失った祖母の、悲痛な魂の叫びだったのだ。彼女は誰かに呪いをかけたかったわけじゃない。ただ、自分の愛した人の記憶、二人の幸せだった時間を、誰かに知ってほしかった。弔ってほしかった。その強すぎる想いが、半世紀の時を超え、街に漏れ出して人々から記憶を奪う「香り憑き」となっていたのだ。
そして、その香りに最も強く共鳴するのが、同じ血を、同じ嗅覚を受け継いだ私だった。樹が香りに引き寄せられたのも、彼が私を愛し、私の傍にいたからだ。全ては、私へと繋がる運命の糸だった。私は愕然と立ち尽くした。これは私の物語だったのだ。私が終わらせなければならない、悲しい鎮魂の系譜だった。
第四章 忘却の先に
私は母を帰し、一人で洋館の奥へと進んだ。香りが最も濃密に渦巻く、かつての祖母の調香室へ。そこは、時の止まった聖域だった。ガラス器具には、琥珀色の液体の結晶がこびりつき、部屋全体が祖母の悲しみの香りで満たされている。
一歩足を踏み入れると、脳内に直接、祖母の記憶が流れ込んできた。愛する人との散歩、交わした言葉、彼の手の温もり。幸せな記憶が奔流となって私を襲い、同時に、私の記憶が洗い流されていくのが分かった。樹の笑顔が、母の顔が、自分の名前が、急速に霞んでいく。
「駄目……!」
私は最後の理性を振り絞り、持ってきた調香キットを取り出した。この香りを力で打ち消すことはできない。それは、祖母の魂を否定することになる。ならば、私がすべきことは一つ。この悲しみの香りを、受け止め、鎮めること。
失われゆく記憶の淵で、私は無心に手を動かした。祖母の「追憶の香り」をベースに、新しい香りを重ねていく。樹が好きだと言ってくれたベルガモットの爽やかさを。母が愛用するローズの優しさを。そして、私自身の記憶の核である、雨上がりの土の匂いを。
それは、忘却のための調合ではない。弔い、そして、新たな始まりのための調合だった。悲しみは消せない。けれど、その隣に、そっと希望を寄り添わせることはできる。
私が最後の一滴をフラスコに落とした瞬間、部屋を支配していた甘く寂しい香りが、ふっとその性質を変えた。悲哀の棘は丸くなり、代わりに、夜明け前の静寂のような、穏やかで清らかな香りが満ちていく。祖母の魂が、ようやく長い孤独から解放され、安らかな眠りについたのだと分かった。
窓から差し込む朝日が、部屋の埃をきらきらと照らし出す。私は、その場に崩れ落ちた。頭の中は、真っ白な静寂に包まれていた。
……どれくらい時間が経っただろう。誰かが、私の肩を優しく揺さぶっている。
目を開けると、心配そうな顔をした青年が、私を覗き込んでいた。知らない人だ。でも、その瞳を見ていると、胸の奥が不思議な温かさで満たされる。
「……大丈夫ですか?」
彼の声は、心地よい風のように私の耳に届いた。
事件は終わった。街から香りは消え、人々は徐々に記憶を取り戻し始めた。洋館で見つかった私を、この青年がずっと介抱してくれていたらしい。私は、自分の名前が水無月怜であること以外、ほとんど何も覚えていなかった。
彼は、樹と名乗った。
彼は私の記憶喪失を知っても、絶望した顔を見せなかった。ただ、穏やかに微笑んで言った。
「はじめまして、怜さん。僕は樹です。もしよかったら、これから、もう一度友達になってくれませんか?」
私は、彼を知らない。彼との過去を、何も思い出せない。
けれど、彼が差し出した手を取った時、ふわりと、どこかで嗅いだことのあるような、懐かしく優しい香りがした。それは、悲しみと希望が溶け合った、夜明けの香り。失われた記憶の残滓なのか、それとも、これから始まる新しい物語の予感なのか。
答えはまだ、分からない。けれど、空っぽになった私の心に、確かな温もりが灯ったことだけは、真実だった。