透明なレクイエム
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透明なレクイエム

第一章 色彩の対話

私の世界は、音に満ちている。ただし、その音は耳で聴くものではない。人々は生まれつき耳を持たず、あらゆる音の振動を、光の芸術としてその目に映していた。

広場を歩けば、恋人たちの囁きが淡い薔薇色の靄となって絡み合い、市場の喧騒は琥珀と深緑の幾何学模様が目まぐるしく飛び交う万華鏡となる。空に浮かぶ巨大な鐘が鳴らされれば、黄金色の波紋が街全体を祝福するように包み込む。それが、私たちの日常であり、対話のすべてだった。

だが、私、アシェルには、その色彩が見えなかった。生まれつき音を視覚化する能力を欠いた私は、人々が交わす光の言葉の輪から常に外れていた。世界は私にとって、意味をなさない光の明滅が揺らめくだけの、静寂な舞台だった。

その代わり、私には声が聞こえた。それは空気の振動ではなく、生命そのものが奏でる根源的な音――他者の「心臓の鼓動」。喜びの鼓動は軽やかな旋律のように、悲しみの鼓動は重く引きずるようなリズムとして、私の脳に直接響く。それは言葉だった。他人の胸の内を、本人が意識するよりも早く、深く理解してしまう呪いにも似た祝福だった。

しかし、恐怖や絶望といった強い感情の鼓動だけは違う。それは意味のある言葉にならず、ただ私の頭蓋を内側から掻き乱す、不快な「絶叫」として響き渡る。だから私は、人混みを避け、静かに鼓動の少ない場所を選んで生きてきた。

あの日も、私は街外れの石畳の上で、壁にもたれて目を閉じていた。人々の穏やかな鼓動が、心地よい子守唄のように私を包んでいた。そのときだ。ふと、広場の中心から放たれていた、快活な橙色の会話模様の輪郭が、ふっと滲んで薄れたのを、この目でもはっきりと捉えた。まるで、水に溶け始めた絵の具のように。周囲の誰もが気づかない、ほんの些細な変化。しかし、その瞬間、私の内側で、今まで聴いたことのない、冷たく微かな鼓動が鳴り響いたのを、確かに聴いた。

第二章 静寂の侵食

その日から、世界はゆっくりと色を失い始めた。

最初は些細な兆候だった。鮮やかなはずの会話の模様に、時折、灰色の染みが混じる。壮麗な音楽の光の波紋が、途中で力なく霧散する。人々は首を傾げ、自分の目に異常が起きたのかと瞬きを繰り返すだけだった。

だが、侵食は止まらない。

それは「無色病」と呼ばれ、静かな恐慌として瞬く間に世界を覆い尽くした。

色を失った音は、ただの無色透明な空気の揺らぎでしかない。言葉は形を失い、相手に届かなくなる。音楽は感動を喚起する光彩を放たなくなり、ただの無意味な振動と化した。コミュニケーションの術を奪われた人々は、疑心暗鬼に駆られ、孤独に苛まれ始めた。

そして、私の世界は地獄と化した。

街中に溢れる人々の恐怖と絶望の鼓動が、意味を成さない「絶叫」の濁流となって、私の脳に容赦なく流れ込んでくる。眠っている間も、食事をしている間も、思考の隙間なく鳴り響く金切り声。私は耳を塞ぐように頭を抱えたが、内側から響く音には何の意味もなかった。狂気に陥りそうになる私を、かろうじて繋ぎとめていたのは、あの最初の日に聴いた、冷たく微かな、しかし途方もなく巨大な、あの不思議な鼓動だった。

第三章 色のない音叉

「お前さんには、それが聴こえるのかね」

路地裏でうずくまる私の前に、皺深い老婆が一人、影のように立っていた。彼女は街で古物商を営むエラ。人々が光の会話に夢中だった頃から、誰とも言葉を交わさず、ただ静かにガラクタを見つめている変わり者だった。

彼女の手には、一本の古びた音叉があった。黒ずんだ銀色で、何の装飾もない。彼女がそれを軽く指で弾くと、周囲の空気が微かに揺らいだ。しかし、そこに色はなく、形もなかった。かつては美しい音色を視覚化したであろうその道具は、まるで世界の病を体現しているかのようだった。

「人々は視力を失いつつある。だがお前さんは、本当の音を聴き始めている」

エラはそう言うと、その『色のない音叉』を私の手に押し付けた。

触れた瞬間、私の脳を苛んでいた無数の絶叫が、ぴたりと止んだ。嵐が過ぎ去った後のような静寂。そして、その静寂の奥底から、あの巨大な鼓動が、より鮮明に、より近く、響いてきた。それはもはや単なるリズムではなかった。苦痛に満ちた、明確な意思を持つ「声」だった。

「それは『調律器』じゃ。世界が奏でる本当の音を聴くためのな。その声が何を告げているのか…それを確かめるのが、お前さんの役目だよ」

エラはそれだけ言うと、闇に溶けるように去っていった。残された私の手の中で、音叉は冷たい沈黙を守っていたが、私の内側では、世界の巨大な心臓が、ゆっくりと、しかし確かに、言葉を紡ぎ始めていた。

第四章 世界の鼓動

音叉を握りしめ、私は世界の声に耳を澄ませた。それは一つの言葉ではなかった。無数の悲しみと後悔が織りなす、途方もない嘆きの詩だった。

――なぜ。

――奪った。私の色を。

――返して。私の生命を。

その声は、街の石畳から、枯れゆく木々から、色褪せた空から、世界そのもののあらゆる場所から響いてくるようだった。人々が失いつつある「音の色」。それは元々、この世界から奪われたものだったというのか。無色病は、病ではない。これは、奪われたものを取り戻そうとする、世界の叫びなのかもしれない。

私は、まるで世界の痛みそのものに触れているような感覚に陥った。人類が謳歌してきた色彩豊かなコミュニケーションは、この星の犠牲の上に成り立っていたとしたら? 私たちが言葉として放ってきた光のすべてが、この世界の生命を削って輝いていたとしたら?

恐怖が背筋を駆け上がった。人々の絶叫とは質の違う、もっと根源的で、抗いようのない巨大な絶望が、私を飲み込もうとしていた。このままでは、世界はすべての色を取り戻し、そして――死ぬ。

音叉が、微かに熱を帯び、ある方角を指し示していることに気づいた。それは、禁足地とされてきた、世界の中心にそびえ立つ『始まりの聖域』だった。

第五章 最初の儀式

聖域は、静寂に満ちていた。色を失った風が、巨大な石柱の間を吹き抜けるだけだ。その最奥に、巨大な壁画が残されていた。風化し、所々が剥落しているが、描かれた物語は、恐ろしいほど鮮明に私の目に飛び込んできた。

そこには、耳を持たない、私たちの祖先が描かれていた。彼らは身振り手振りで意思を伝えようとするが、その表情は孤独と断絶に満ちている。やがて、彼らは天を仰ぎ、何かを乞い願う。次の絵では、彼らが巨大な祭壇を囲み、一人の指導者が、今私が手にしているのと全く同じ形の音叉を天に突き上げていた。

壁画の最後の一枚。それを見た瞬間、私は息を呑んだ。

人々が、歓喜の表情で空を見上げている。その空からは、色とりどりの光の波紋が降り注いでいる。彼らはついに、音を視覚化する力を手に入れたのだ。だが、その代償はあまりにも大きかった。彼らの足元で、大地は色を失い、木々は枯れ、動物たちは力なく倒れている。世界そのものが、彼らの願いの成就のために、その生命の色を贄として捧げていたのだ。

『色のない音叉』は、世界から初めて音の色を奪った、呪われた儀式の道具だった。

私たちの文明は、この世界の死の上に築かれた、かりそめの楽園だったのだ。

そして今、贄とされた世界が、ついにその生命活動を終えようとしている。これが、無色病の正体。世界の、断末魔だった。

壁画を見つめる私の足元で、聖域の最後の色彩が、砂のように崩れ落ちて消えた。

第六章 赦されない者

世界から、最後の色が消えた。

それは唐突な終焉だった。壮麗な音楽も、親密な会話も、街の喧騒も、すべてがただの無色透明な揺らぎと化した。空も、大地も、建物も、何もかもが輪郭を失い、世界は無限に広がる透明な空間へと変貌した。

人々は狂気に陥った。隣に誰かがいることさえ認識できず、見えない壁にぶつかり、虚空に向かって意味のない身振りを繰り返す。やがてその動きも鈍くなり、彼らの心臓の鼓動が、一つ、また一つと、弱々しく消えていくのが私には聴こえた。生命の色を失った人間は、もはや生きてはいけないのだ。

私は、色のない音叉を握りしめ、ただ一人、その場に立ち尽くしていた。

世界は完全に静かになった。あれほど私を苦しめた人々の絶叫も、もう聞こえない。

だが、その完全な静寂の中で、たった一つだけ、音が残っていた。

これまで聴こえていた、世界の苦しみに満ちた鼓動が、ゆっくりと、最後の力を振り絞るように、一度だけ、大きく脈打った。

それは、人類が犯した原罪への、世界からの最終宣告。

呪いであり、墓碑銘であり、永遠に終わらない問いかけ。

そのたった一つの言葉が、私の魂に直接、刻み込まれた。

――赦されない

その言葉を最後に、世界の鼓動は完全に沈黙した。

私は、死んだ世界に一人、取り残された。周囲には、認識不能な透明な揺らぎが広がるだけだ。しかし、私の内側では、世界が残した最後の言葉が、永遠に、永遠に、響き続けている。終わることのない、無音の絶叫の中で、私はただ、その言葉を聴き届けるためだけに、存在している。

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