第一章 朽葉の残香
橘朔(たちばな さく)の世界は、常に匂いに満ちていた。だがそれは、彼が職業とする調香師として扱う、花々や樹脂の芳香だけではない。朔の鼻腔を苛むのは、もっと生々しく、形のないもの――人間の「後悔」が放つ香りだった。
幼い頃から、朔には他人が心の奥底に沈殿させている後悔を、特有の匂いとして感じ取る能力があった。それは呪いにも似た才能だった。満員電車では、焦げ付いた砂糖のような甘い絶望の匂いに吐き気を催し、上司の叱責を受ける同僚からは、湿ったコンクリートのような諦観の匂いが漂ってきた。人々は笑顔や無表情の仮面の下で、腐臭にも似た悔恨を燻らせている。朔はその秘密の悪臭に耐えきれず、次第に人との深い関わりを避けるようになっていた。彼が心を許せるのは、嘘をつかない純粋な香料の分子だけだった。
その日、朔は新しい香水のインスピレーションを求め、海沿いの古びた港町を訪れていた。潮の香りと、錆びた鉄の匂いが混じり合う、時の流れが緩やかな場所。カフェのテラスでスケッチブックを広げていると、ふいに、彼の鼻が未知の香りを捉えた。
それは、これまで嗅いだどの後悔とも違う、圧倒的に濃密で、複雑な香りだった。
朽葉が堆積した森の匂い。長い年月をかけて熟成された葡萄酒のような芳醇さ。そして、その奥底に、ひたひたと流れる氷のように冷たい悲嘆。それは単一の感情ではなく、幾重にも折り重なった、巨大な悔恨のタペストリーのようだった。
朔は磁石に引かれる砂鉄のように、無意識に立ち上がっていた。匂いは、街を見下ろす小高い丘の上から漂ってくる。蔦に覆われ、窓ガラスの何枚かは割れたままになっている、古びた洋館。かつては豪奢だったであろうその館は、今や街の風景から忘れ去られたように、静かに佇んでいた。
そして、その館全体から、途方もない量の「後悔」が、まるで呼吸するように香り立っていたのだ。
常人ならば何も感じないだろう。だが朔にとって、それは無視できない存在感を放つ、巨大な香炉だった。近づいてはならない。本能が警鐘を鳴らす。しかし、彼の調香師としての探究心と、呪われた能力がもたらす奇妙な共感が、足を一歩、また一歩と丘の上へと向かわせた。
館の前に立ち、錆びた鉄門に手をかけた時、朔は確信した。この中には、彼の人生を根底から揺るがすほどの「何か」が眠っている。それは恐怖であり、同時に、抗いがたいほどの魅力に満ちていた。
第二章 凝縮された悔恨
軋む音を立てて開いた扉の向こうは、埃とカビの匂いが混じった、時間の墓場のような空間だった。陽の光が差し込まないホールは薄暗く、巨大な階段が闇の中へと続いている。だが、朔の鼻腔を支配したのは、そんな物理的な匂いではなかった。
一歩足を踏み入れた瞬間、無数の「後悔の匂い」が津波のように彼を襲った。
廊下の隅からは、甘く腐りかけた果実のような「嫉妬」の匂い。壁の染みからは、火薬と血の匂いが混じったような、暴力的な「怒り」の後悔。そして、階段の上からは、冷たい雨に打たれる石のような、静かで深い「悲嘆」の香りが降り注いでくる。
「うっ…」
あまりの奔流に、朔は思わず口元を押さえた。それぞれの匂いが、かつてこの館に住んだであろう人々の、声なき絶叫となって彼の脳内に響き渡る。ある部屋を覗けば、愛する者を裏切った男の姿が見え、別の部屋では、夢を諦めた女のすすり泣きが聞こえるかのようだった。ここは単なる廃墟ではない。後悔の博物館、あるいは、魂の貯蔵庫だ。
朔はふらつきながらも、最も強く、そして最も複雑な香りを放つ源を目指した。それは、この館の主旋律ともいえる、朽葉と葡萄酒と氷の香り。階段を上り、二階の廊下を進む。匂いの奔流は、一番奥にある書斎の扉の前で、一つの渦となっていた。
呼吸を整え、震える手でドアノブを回す。
中には、天井まで届く本棚と、重厚なデスクが鎮座していた。しかし、部屋の主役はそれらではない。デスクの上に、ぽつんと一つだけ置かれた、小さなガラス瓶。繊細なカットが施された、美しいアンティークの香水瓶だった。
その瓶から、全ての香りが凝縮されたかのような、圧倒的な気配が放たれていた。他の部屋で感じた個々の後悔が、この瓶の中で混ざり合い、熟成され、まったく新しい、一つの巨大な「悔恨」という名の香りを創り出していた。
朔は吸い寄せられるようにデスクに近づき、その香水瓶に指を伸ばした。それは空っぽのはずなのに、まるで液体で満たされているかのような重力を感じさせた。指先が冷たいガラスに触れた、その瞬間だった。
第三章 香水と赦し
世界が反転した。
朔の脳内に、奔流となって流れ込んできたのは、誰かの記憶ではない。この館、そのものの意思だった。
彼は悟った。この洋館は、単なる建物ではなかった。長い年月をかけて、住人たちの「後悔」を吸い込み、それを養分として生きる、巨大な捕食者だったのだ。人々が発する悔恨の香りを嗅ぎつけ、館は彼らを無意識のうちに引き寄せる。そして、その魂ごと後悔を吸い尽くし、あの香水瓶に凝縮、貯蔵していたのだ。それは館の心臓であり、力の源泉だった。
そして、朔の特殊な嗅覚。それは、彼が生まれつき持っていたものではなかった。この館が、より効率的に、より純度の高い後悔を見つけ出すために、彼の祖先の誰かに植え付けた「探知機」だったのだ。朔は、この館に最高の獲物を捧げるために生かされてきた、哀れな猟犬に過ぎなかった。
「あ…ああ…」
絶望的な真実が、朔の精神を打ち砕こうとする。すると、館の意思が彼の内側、最も柔らかく、最も痛む場所を探り当てた。朔自身が、ずっと蓋をしてきた後悔。
――彼の脳裏に、中学時代の光景が蘇る。教室の隅で、いつも震えていた親友の姿。彼からは常に、助けを求める悲痛な後悔の匂いがしていた。いじめられていたのだ。だが、自分に火の粉が及ぶのを恐れた朔は、その匂いを嗅ぎたくなくて、彼から目を逸らし、距離を置いた。ある日、親友は学校に来なくなった。彼が放っていた、湿った土と錆びた釘のような後悔の匂いが、朔の記憶に焼き付いている。
「お前の後悔は、極上だ」
館の意思が、囁く。親友を見捨てた罪悪感。見て見ぬふりをした卑劣さ。その深く濃い後悔の香りに、館は歓喜していた。足元から黒い影のようなものが這い上がり、朔の身体に絡みついてくる。館に喰われる。魂ごと、この後悔のコレクションの一部にされるのだ。
もはや、逃げる術はない。朔は観念し、目を閉じた。だが、その暗闇の中で、ふと、ある香りを思い出した。それは、彼が仕事の合間に、ただ自分のためだけに調合した香り。誰の評価も求めない、彼だけの安らぎの香り。
朔は最後の力を振り絞り、胸ポケットを探った。指先に、小さなアトマイザーが触れる。彼はそれを引き抜くと、震える手で自身の脈打つ手首に、一吹きした。
ふわりと、白檀とベルガモットの清澄な香りが立ち上った。それは、この館に渦巻くどの後悔の匂いとも違う、静かで、澄み切った香りだった。
そして朔は、自分を苛む後悔の幻影――親友の姿――に、まっすぐに向き合った。
「ごめん」
声に出して、言った。
「ごめんな。俺は、怖かったんだ。君を助けるよりも、自分が傷つく方が怖かった。本当に、ごめん」
涙が頬を伝う。その瞬間、朔の身体に絡みついていた影が、陽光に晒されたように揺らめき、後ずさった。
館は驚愕していた。この捕食者は、人々が自分の後悔から目を逸らし、否定し、囚われ続けることで生まれる「澱(おり)」しか糧にできない。しかし朔は、自分の後悔を直視し、認め、そして謝罪した。それは「消化」であり、「浄化」だった。館にとって、それは猛毒に等しい行為だったのだ。
白檀の香りが、朔の罪悪感を鎮め、ベルガモットの香りが、彼の心をわずかに引き上げる。それは「赦し」の香りだった。自分自身を、赦すための。
「がああああああっ!」
館全体が断末魔のような軋みを上げた。壁や床から、蓄積されていた後悔の匂いが嵐のように噴き出し、窓ガラスを叩き割る。しかし、その混沌の中心で、朔は静かに立っていた。白檀とベルガモットの小さな結界に守られて。
彼はもう一度、空っぽの香水瓶に目をやった。それは今や、ただのガラスのオブジェにしか見えなかった。朔はそれに背を向け、崩れゆく館をゆっくりと、しかし確かな足取りで後にした。
***
館を去った後も、朔の能力が消えることはなかった。世界は相変わらず、無数の後悔の匂いに満ちている。
だが、彼の世界は決定的に変わっていた。
以前のように、後悔の匂いを忌まわしい悪臭として避けることはない。それは今や、誰かが抱える痛みのサインであり、声にならないSOSなのだと理解していたからだ。
港町の小さなアトリエで、朔は新しい香水の調合を始めていた。それは、華やかでも、官能的でもない。ただ、傷ついた心をそっと包み込むような、静かで優しい香り。彼が自分のために作った「赦し」の香りを、今度は、顔も知らない誰かのために創ろうとしていた。
窓から吹き込む風が、街に流れる人々の、微かな後悔の匂いを運んでくる。朔はそっと目を閉じ、その香りを吸い込んだ。彼の表情には、もはや恐怖も嫌悪もない。そこには、すべての痛みを引き受け、それでもなお、世界に優しさを見出そうとする、調香師の静かな覚悟が浮かんでいた。