その香りが消えるまで

その香りが消えるまで

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第一章 禁断の香り

柊一香(ひいらぎ いちか)の世界は、香りでできていた。

それは比喩ではない。彼女の鼻は、常人には感知できない領域の匂いを捉える。古書店に積まれた本の紙魚(しみ)の匂いだけでなく、その本を最後に手に取った人物の焦燥感――錆びた鉄のような香り――まで嗅ぎ分けてしまう。喜びは瑞々しい果実、悲しみは雨に濡れたアスファルト、怒りは焦げた獣肉の匂い。元・調香師だった彼女にとって、その能力は神の祝福から悪魔の呪いへと転落した瞬間から、世界を耐え難い情報の洪水に変えた。

だから一香は、感情の希薄なこの古い場所で、埃とインクの香りに紛れて息を潜めるように生きていた。人々が残していく感情の残滓から目を逸らし、誰とも深く関わらない。それが彼女が自身に課した、平穏を保つための唯一のルールだった。

そのルールが破られたのは、湿度の高い夏の日の午後だった。

ドアベルが寂れた音を立て、一人の青年が入ってきた。年は二十代半ばだろうか。色素の薄い髪と、どこか所在なさげな瞳が印象的だった。彼は数冊の洋書を抱え、買取カウンターにそっと置いた。

「お願いします」

掠れた、優しい声だった。一香は無言で本を受け取る。その指先が、本の表紙に触れた瞬間――嗅いだ。

それは、一香がこれまで経験したことのない、矛盾を孕んだ禁断の香りだった。

熟れきって腐敗しかけた果実の、噎せ返るような甘さ。その下に隠されているのは、ひやりとした墓場の土の匂いと、微かな血の腥さ。甘美な誘惑と、死の絶対的な拒絶感が、冒涜的なまでに混じり合っている。まるで、美しい蜜壺の底に、腐肉が沈んでいるかのような。

一香は思わず息を呑み、顔を上げた。青年は、ただ静かにこちらを見つめている。彼の全身から、その「腐敗した蜜の香り」が霧のように立ち上っていた。それは過去の記憶の香りではない。今まさに、彼の存在そのものから放たれている、生々しい気配だった。

「……何か?」

青年が不思議そうに首を傾げる。一香は慌てて平静を装い、査定額を告げた。彼は礼を言って金を受け取ると、しかしすぐには立ち去らなかった。店の中をゆっくりと歩き、書棚の一角で足を止める。その瞳には、深い哀しみの色――湿った土の香り――が滲んでいた。

彼が触れた本の背表紙、彼が歩いた床の軋み。そのすべてに、あの不吉な香りがべったりと付着していくのが、一香には「見えた」。

この男は危険だ。彼に関わってはいけない。本能が最大級の警鐘を鳴らしていた。この香りは、ただの悲しみや怒りではない。もっと根源的で、冒涜的で、魂を蝕む何かだ。一香は固く目を閉じ、この嵐のような香りが過ぎ去るのを、ただひたすらに待った。

第二章 追憶の残滓

青年――湊(みなと)と名乗った――は、それから週に二、三度、店を訪れるようになった。何かを買うわけでもなく、ただ静かに時間を過ごしては帰っていく。そのたびに、店内には「腐敗した蜜の香り」が充満し、一香の神経を苛んだ。

逃げ出したかった。しかし、湊が放つもう一つの香り――純粋なまでの悲哀と孤独の香り――が、彼女の足を縫い付けていた。それは、かつて自分も感じていた、世界から隔絶された者の香りだった。恐怖と、奇妙な共感が、彼女の中でせめぎ合っていた。

ある雨の日、店には他に誰もいなかった。湊は珍しく、一香に話しかけてきた。

「ここの匂い、好きなんです。古い紙と、インクと……なんだか、時間が止まっているみたいで」

一香は心臓が跳ねるのを抑え、曖昧に頷いた。

「……一年前、恋人を亡くしました」

唐突な告白だった。湊は遠い目をして、窓の外の雨を見つめていた。彼の周りの空気が、悲しみの香りで重く沈む。

「原因不明の、突然死でした。眠るように逝ってしまって……。彼女が読んでいた本を、今も探しているんです。何か、彼女が最後に考えていたことの手がかりが見つかるんじゃないかって」

その言葉を聞いた瞬間、一香の中でパズルのピースがはまった気がした。この不吉な香りは、湊に取り憑いた、亡き恋人の怨念の香りなのだ。満たされなかった想い、突然断ち切られた生命。その無念が、甘美な生への執着と腐りゆく死への絶望という、矛盾した香りとなって現れているに違いない。

「彼女……どんな人でしたか?」

気づけば、一香は尋ねていた。禁忌を破る質問だった。

湊は少しだけ微笑んだ。「花が好きな人でした。特に、甘い香りの。部屋にはいつも、蜜のように甘い香りの花が飾ってありました」

蜜。その言葉が、一香の脳天を撃ち抜いた。腐敗した蜜の香り。やはり、彼の恋人が発生源なのだ。

「その人の、写真とか……ありますか」

湊は驚いた顔をしたが、やがてスマートフォンを取り出し、一枚の写真を見せた。柔らかな日差しの中で、満開の花々に囲まれて微笑む女性。その屈託のない笑顔からは、おぞましい香りの片鱗など微塵も感じられない。だが、写真に触れた一香の指先には、間違いなくあの香りがまとわりついた。

「助けたい、ですか」

一香は自分でも信じられない言葉を口にしていた。

「え?」

「その……彼女の魂が、まだこの世に留まっているのなら。何か、心残りがあるのなら……」

自分の能力を使えば、香りの源を辿り、その心残りを突き止められるかもしれない。それは恐ろしい賭けだった。だが、目の前の青年が放つ絶望的な孤独の香りが、彼女を突き動かしていた。かつての自分を、彼に重ねていた。

湊は戸惑いながらも、縋るような目で一香を見つめた。「そんなこと、できるんですか?」

「試してみないと、分かりません」

一香は覚悟を決めた。この呪われた能力が、初めて誰かのために使えるかもしれない。その淡い期待が、恐怖をわずかに上回っていた。

第三章 未来の幻視

香りの源を辿る調査は、困難を極めた。湊の持ち物、彼がよく行く場所、その全てに香りは染み付いているが、どこも「発生源」ではなかった。香りは常に湊自身から湧き出ており、まるで彼が香りの震源地であるかのようだった。

「彼女が住んでいた部屋、まだ残っているんです」

数日後、追いつめられた表情で湊が言った。「大家さんのご厚意で、遺品整理もまだ……。もし、何かあるとしたら、あそこしか」

一香は頷いた。そこが最後の場所だろう。決着をつけるべき場所だ。

案内されたアパートの一室は、静寂に包まれていた。家具はほとんどなく、がらんとしている。しかし、ドアを開けた瞬間、一香は凄まじい芳香の奔流に襲われ、よろめいた。

「うっ……!」

濃密すぎる。空気が粘性を帯びているかのように、「腐敗した蜜の香り」が部屋の隅々まで満ちていた。過去の残留思念などという生易しいものではない。まるで、今この瞬間、ここで何かが腐り落ち続けているかのような、圧倒的な存在感があった。

「大丈夫ですか?」

湊が心配そうに肩を支える。彼の身体から発せられる香りと、部屋に満ちる香りが共鳴し、一香の意識をぐらつかせた。

「……ここに、彼女の怨念が凝っている」

一香は呻くように言った。部屋の中心に立つ。そこが、最も香りの強い場所だった。目を閉じ、全ての意識を嗅覚に集中させる。香りの芯へ、源へ、もっと深く――。

その時、一香の脳裏に、鮮烈な光景が流れ込んできた。

それは幻視だった。だが、過去のビジョンではない。

目の前に、今の、この部屋の光景が広がっている。そして、そこに立つ湊の姿。彼の表情は、見たこともないほどの深い絶望に染まっていた。その手には、いつの間にか、鈍く光るカッターナイフが握られている。

『もう、疲れたよ……』

幻視の中の湊が、そう呟いた。彼の声は、現実の湊の声と寸分違わなかった。

そして、ゆっくりと、しかし確かな動きで、彼はその刃を自らの胸へと突き立てた。噴き出す血の匂い。甘い花の幻。命が腐り落ちていく、あの蜜の香り。

「――っ、やめて!」

一香は絶叫し、幻視から弾き飛ばされるように目を開けた。

目の前には、呆然と立ち尽くす湊がいる。その手は空っぽだ。しかし、彼の瞳の奥には、確かに幻視で見たものと同じ、底なしの絶望が揺らめいていた。

一香は、全身が総毛立つような、恐ろしい真実に辿り着いていた。

この香りは、過去の怨念ではなかった。

これは、未来の香りだ。

今、ここで、湊が自らの命を絶つ。その強烈な絶望と、死の間際に彼が思い描くであろう、亡き恋人との甘い記憶。その二つが混じり合って生まれた「未来の記憶の香り」が、時を遡り、現在に漏れ出していたのだ。

香りは呪いではなかった。警告だったのだ。これから起ころうとしている、取り返しのつかない悲劇を知らせるための、 desperate なシグナルだった。

第四章 希望の萌芽

「あなただったのね」

一香は、震える声で言った。湊は意味が分からないという顔で彼女を見ている。

「この香りの源は、あなたの恋人じゃない。あなた自身よ」

「僕が……?どういうこと……?」

「今、見えたの」一香は湊の腕を掴んだ。その体温が、恐ろしいほど冷たく感じられた。「あなたが、ここで死のうとしている未来が。恋人を失った絶望に耐えきれず、後を追おうとしている……。この香りは、その未来のあなたの、絶望の香りなのよ!」

湊の顔から、さっと血の気が引いた。彼は何も言えないまま、僅かに後ずさる。その反応は、何より雄弁な肯定だった。彼は、心の奥底で、ずっとその選択肢を握りしめていたのだ。恋人の影を追うという行為は、彼女の世界に近づく、つまり死への緩やかな接近に他ならなかった。

「……どうして、そんなことが分かるんだ」

「私の鼻が、そう告げてるから」一香は泣き笑いのような表情を浮かべた。「ずっと呪いだと思ってた。人を遠ざけるだけの、忌まわしい力だと。でも、違った……。これは、あなたを止めるための、警告だったのね」

彼女は初めて、自分の能力に感謝した。この鼻がなければ、目の前の優しい青年が、誰にも知られず、静かに絶望に飲み込まれていくのを、ただ見過ごすことしかできなかっただろう。

湊は、その場に崩れ落ちるように膝をついた。堰を切ったように、彼の瞳から涙が溢れ出す。それは、一香がずっと嗅いできた、湿った土の香りを伴う、純粋な悲しみの涙だった。

一香は彼の隣に静かにしゃがみこんだ。

「私が嗅いだのは、無数にある未来の可能性の一つに過ぎないわ。まだ何も、決まってなんかいない。あなたは、別の香りを纏うことだってできる」

それは、一香が自分自身に言い聞かせている言葉でもあった。

数ヶ月が過ぎた。

古書店のドアベルが、軽やかな音を立てた。そこに立っていたのは、以前とは別人のように穏やかな表情を浮かべた湊だった。彼の全身から、あの「腐敗した蜜の香り」は、跡形もなく消え失せていた。

代わりに、彼の腕に抱えられた小さなブーケから、フレッシュなフリージアの、希望に満ちた香りが店内に広がった。

「これ、お礼に」

彼は少し照れたように笑い、ブーケをカウンターに置いた。

「新しい仕事、見つかったんです。小さな花屋ですけど」

一香は、その花を受け取り、深く香りを吸い込んだ。胸いっぱいに広がる、甘く、清々しい生命の香り。

彼女の世界は、今も無数の香りで満ちている。本に染み付いた誰かの憂鬱。通りを歩く人々の焦りや喜び。それらは時として彼女を疲れさせるが、もはや呪いではなかった。

世界を織りなす、無数の物語の断片。そして時には、誰かの未来をそっと照らし出す、道標。

一香は、窓から差し込む柔らかな日差しに目を細めた。世界は恐怖だけでなく、こんなにも優しい希望の香りにも満ちている。彼女は、その全てを、これからは受け入れて生きていこうと、静かに心に決めた。

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