残響彩度

残響彩度

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第一章 腐蝕する静寂

水野響の世界は、音に色がついている。例えば、クライアントに提出したデモ音源への賛辞は、陽光のような眩しい黄金色として鼓膜をくすぐるし、無遠慮なクラクションは、視界をチカチカさせる暴力的な赤色だ。彼はこの共感覚を生まれつきの才能として受け入れ、音響デザイナーという天職に就いていた。彼の創り出す音は、色彩のパレットから選び抜かれた絵の具のように、豊かで繊細な感情を喚起させた。

その異変は、三ヶ月ほど前から始まった。

きっかけは、深夜のスタジオで、一人、ヘッドフォンを外した瞬間のことだった。完全な静寂。そのはずの空間に、今まで聴いたことも、見たこともない「音」が混じり始めたのだ。それは音と呼ぶにはあまりに不快で、色と呼ぶにはあまりに汚れていた。

――腐った泥のような、くすんだ茶色。

それは特定の音階を持たず、ただ、じわり、じわりと空間を侵食してくる粘着質な響きだった。その色を見た瞬間、響は全身の血が逆流するかのような悪寒を覚えた。生命力を根こそぎ吸い取られるような、根源的な恐怖。慌ててヘッドフォンを装着し、作業用のホワイトノイズを最大音量で流すと、その「腐った泥色」は薄れ、やがて消えた。

最初は気のせいだと思った。疲労が作り出した幻聴か、あるいは脳のバグのようなものだろうと。しかし、その音は日に日に存在感を増していった。静寂を愛し、無音の中にこそ無限の可能性があると信じていた彼にとって、静寂そのものが恐怖に変わってしまったことは、死刑宣告にも等しかった。

一人暮らしのアパートの寝室で、眠りに落ちる寸前の静けさの中、それは現れる。リビングで本を読んでいるとき、ふとページをめくる手を止めた瞬間、それは現れる。まるで響が作り出す「音のない時間」を待ち構えているかのように。そのたびに、彼はテレビをつけ、音楽を流し、意味もなくスマホで動画を再生した。彼の世界から、安らぎの静寂が完全に失われた。

仕事にも支障が出始めた。繊細な音のバランスを調整する最終段階で、あの泥の色がちらつき、全ての音を濁らせる。彼の作る音から、かつての鮮やかな色彩が失われつつあった。クライアントからの評価も、次第に「精彩を欠く」という鈍い鉛色を帯び始める。

「なぜだ……なぜ、俺の世界にだけ、こんな色が……」

響は鏡に映る、憔悴しきった自分の顔を見つめた。目の下には深い隈が刻まれ、かつての自信に満ちた輝きはどこにもない。そして鏡の中の静寂から、またあの音が滲み出してくる。じわり、じわりと。腐った泥の色が、彼の輪郭をゆっくりと蝕んでいくようだった。

第二章 褪せた水色の記憶

「腐った泥色の音」は、もはや響の日常に寄生するガン細胞のようだった。彼は専門医のカウンセリングも受けたが、共感覚という特殊な知覚を持つ彼の症状を、医師は正確に理解できなかった。処方された精神安定剤は、ただ彼の感覚を鈍らせるだけで、根本的な解決にはならなかった。薬のせいで、鮮やかだったはずの音の世界全体が、くすんだセピア色に見える始末だった。

眠れない夜が続き、思考が混濁する中で、響は封印していた記憶の扉を、無意識にこじ開けていた。それは、彼がまだ幼かった頃の記憶。彼には、双子の弟がいた。

名前は、奏(かなで)。

響と奏は、鏡合わせの存在だった。同じ顔、同じ声、そして同じように音に色を見る共感覚を持っていた。活発で外の世界に興味津々だった響に対し、奏は生まれつき体が弱く、ほとんどの時間を家の中で過ごしていた。二人の世界は、奏の部屋の小さな窓から見える景色と、響が外から持ち帰る様々な「音の色」で彩られていた。小鳥のさえずりはきらめく銀色、通り雨の音は優しい青緑色。響が語る音の色を、奏はベッドの上で目を輝かせながら聞いていた。

奏の声は、響にとって世界で最も美しい音だった。澄み切った湧き水のような、清らかな水色。その声で「兄ちゃん」と呼ばれるたびに、響の心は温かい光で満たされた。

しかし、その水色も、永遠ではなかった。奏の病状は悪化の一途をたどり、彼の声から少しずつ色彩が失われていった。色が薄まり、輪郭がぼやけていく水色。そしてある冬の日、奏は静かに息を引き取った。十歳の誕生日を目前にした、あまりに早い別れだった。

弟の死を境に、響は自らの共感覚について語ることをやめた。それは奏と自分だけの秘密の世界だったからだ。弟のいない世界で、音の色を語ることは、ひどく虚しい行為に思えた。

「まさか……」

響はソファの上で膝を抱え、震えていた。あの「腐った泥色の音」は、奏の呪いなのではないか。自分だけが健康に生まれ、外の世界の音を自由に楽しんでいたことへの嫉妬。あるいは、死の間際に何か伝えたいことがあったのに、自分が気づいてやれなかったことへの恨み。罪悪感が、冷たい鎖となって響の心臓を締め付けた。奏の最期の瞬間、彼の声はどんな色をしていた? 記憶は靄がかかったように曖昧で、思い出そうとすればするほど、頭痛がひどくなるだけだった。

確かなのは、あの忌まわしい泥の色が、奏の死後、初めて現れた現象であるということ。それは響の中で、恐怖を伴った確信へと変わっていった。弟が、死の世界から自分を呼びに来ているのだ、と。

第三章 無音の色

精神的にも肉体的にも限界に達した響は、まるで何かに導かれるように、十数年ぶりに実家の扉を叩いた。両親は既に他界し、家は空き家となって久しい。埃っぽい空気と、時間の止まったような静寂が彼を迎えた。そして、その静寂の中に、やはりあの音が潜んでいた。実家という場所が、その音の濃度をさらに高めているように感じられた。

「奏……お前なのか……?」

響は、かつて奏が使っていた部屋に向かった。ベッドも机も、当時のまま残されている。壁には、二人がクレヨンで描いた音の絵が、色褪せて貼られていた。その一つ一つが、楽しかった日々の残像として胸に突き刺さる。

机の引き出しを、一つ、また一つと開けていく。ガラクタのようなおもちゃ、読みかけの本。その一番奥に、古びたカセットテープが一本、ひっそりと横たわっていた。ラベルには、たどたどしい子供の文字で『かなで の こえ』と書かれている。

響は、物置から古いラジカセを探し出し、震える手でテープをセットした。再生ボタンを押すと、ノイズと共に、懐かしい声がスピーカーから流れ出した。

『……にいちゃん、きいてる? これはね、スズメさんのこえ。キラキラのきんいろ!』

幼い奏の声。それは、響の記憶の底にあった、あの澄み切った水色をしていた。テープは、奏が日常の音を録音し、それに自分で色の解説を加えるという、兄弟だけの遊びの記録だった。楽しげな声が続く。救急車のサイレンの音、風鈴の音、母が歌う子守唄の音。どれもが、温かく、優しい色をしていた。

響は涙を堪えながら、テープを聴き続けた。やがて、録音された時期が奏の最期に近づくにつれて、声から力が失われていくのが分かった。水色の輪郭がぼやけ、ところどころ掠れている。そして、テープの最後に、ほとんど息のような、途切れ途切れの声が記録されていた。

『……にいちゃん……きこえる……?』

その声は、もはや色を失いかけていた。

『このおと……。いまから、僕がつくるおと……。これはね……』

奏は、ぜぇ、ぜぇ、と苦しそうな息を繰り返した。

『……『無音』の、いろだよ……。なにもきこえなくなるの、こわいんだ。どんどん、しずかになって……僕が、きえちゃうみたいで……こわいんだよ……』

響は息を呑んだ。スピーカーから、奇妙なノイズが聞こえ始めた。それは、奏がマイクに口を近づけ、懸命に息を吹きかけたり、喉を鳴らしたりして作り出している音だった。不協和音で、耳障りで、決して美しいとは言えない音。しかし、それは紛れもなく、響が毎夜苛まれてきた、あの音だった。

『だからね、にいちゃん……。僕がつくったこのおとを、にいちゃんのせかいに、おいていくね……。僕がいなくなって、僕のこえが、みずいろじゃなくなっても……このおとだけは、のこるから……。にいちゃんが、ひとりぼっちで、さびしくないように……』

テープが、ぷつり、と切れた。

それが、奏の最後の声だった。

呪いなどではなかった。恨みでもなかった。それは、死という絶対的な「無音」の恐怖に怯えた幼い弟が、たった一人の兄のために遺した、最後のプレゼントだったのだ。自分が消え去った後も、兄の世界に自分の存在の証を残したいという、必死の願い。あの「腐った泥のような茶色」は、生命力が尽きていく奏自身の絶望と、それでも兄を想う愛情が混じり合った、彼の魂の色そのものだった。

第四章 君のいる静寂

響は、ラジカセの前で声を上げて泣いた。嗚咽が、埃っぽい部屋の静寂を震わせた。今まで恐怖と憎悪の対象でしかなかった音が、世界で最も切なく、愛おしい響きに変わる。弟は呪いではなく、守ろうとしてくれていたのだ。自分が寂しくないようにと、最後の力を振り絞って、その存在を響の世界に刻みつけてくれたのだ。

「ごめんな……奏……。気づいてやれなくて、ごめん……」

涙が枯れるまで泣き続けた後、響は顔を上げた。不思議なことに、あれほど彼を苛んでいた恐怖は、跡形もなく消え去っていた。心を満たしていたのは、深い後悔と、それ以上に温かい、弟への感謝の気持ちだった。

東京に戻った響の世界は、一変していた。彼はもう、静寂を恐れない。一人きりの部屋でヘッドフォンを外すと、いつものように、あの音が聞こえてくる。しかし、もうそれは不快なノイズではなかった。腐った泥の色の中に、よく見ると、微かで温かいオレンジ色の光が灯っているのが分かった。それはまるで、寒い夜に灯る小さなランプの光のようだった。弟の、はにかんだような笑顔を思い出させた。

響は、新しい楽曲の制作に取り掛かった。それは、誰に聴かせるためでもない。ただ、奏に聴かせるための曲だった。彼は、奏が遺してくれた「特別な音」をサンプリングし、それを基調とした美しいアンビエントミュージックを構築していった。かつて奏が好きだった、きらめく銀色の高音と、優しい青緑色のハーモニーを重ねていく。弟の絶望の色だったはずの茶色は、豊かな大地を思わせるアースカラーとして、全ての音を優しく包み込む土台となった。

曲が完成した日、響はスタジオの窓を開け、夜空を見上げた。彼はヘッドフォンを外し、静寂に耳を澄ます。

じわり、とあの音が空間に満ちていく。

しかし、もう恐怖はない。ただ、懐かしい弟の温もりを感じるだけだった。響は、夜空に向かって、そっと呟いた。

「聞こえるよ、奏。ちゃんと、ここにいるよ」

その瞬間、彼の視界に広がった音の色は、くすんだ茶色ではなかった。それは、夜明け前の空のように、深い藍色の中に、温かいオレンジ色の光が溶け込んでいくような、見たこともないほど複雑で、美しいグラデーションをしていた。

彼の世界から、恐怖は去った。そして、本当の意味での静寂もまた、失われた。だが、それでよかった。弟の愛の色で満たされた彼の世界は、以前よりもずっと豊かで、優しかった。響は、その音と共に、これからも生きていく。一人ではない、二人分の世界を。

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