第一章 封印された頁(ページ)
神保町の裏路地にひっそりと佇む古書店「記憶の古書庫」。その店主である神代綴(かみしろつづり)にとって、世界は一冊の本だった。いや、無数の本によって構成された巨大な書庫そのものだ。彼には、自らの記憶を物理的な「本」として取り出す特殊な能力があった。嬉しかった記憶は上質な革装丁に、悲しい記憶は湿って頁が張り付いた粗末な文庫本になる。そして、彼は忘れたい記憶を本にして書庫の奥にしまい込み、平穏という名の空白を日々過ごしていた。
その日、店のドアベルが、乾いた音を立てた。入ってきたのは、雨の匂いを纏った一人の女性だった。長く艶やかな黒髪、強い意志を宿した瞳。彼女は名乗った、雨宮美影(あまみやみかげ)、と。
「あの……ここでは、特別な本を扱っていると聞きました」
彼女の声は、微かに震えていた。綴は無感動に頷く。客の用件はいつも同じだ。忘れたい過去を売りに来るか、失われた過去を買いに来るか。
「七年前に行方不明になった人の、記憶を探しています」
綴の表情が、初めて微かに動いた。七年前。その数字は、彼の書庫の最も暗く、埃を被った一角を指し示していた。
「その方の、お名前は?」
「長谷川湊(はせがわみなと)。……私の、恋人でした」
湊。その名前を聞いた瞬間、綴の胸の奥で、固く閉ざされた扉が軋むような感覚があった。忘れたはずの、夏の陽光の匂い。錆びた鉄棒の冷たさ。彼もまた、湊の友人だったのだ。だが、その記憶の大部分は、意図的に取り出され、一冊の本として封印されている。
「申し訳ありませんが、他人の記憶は扱えません。プライバシーの侵害にあたります」
綴は、いつもの決まり文句で断った。しかし、美影は引き下がらなかった。彼女はカウンターに身を乗り出し、真っ直ぐに綴の目を見た。
「彼が失踪する最後の日、あなたと一緒にいたはずです。あなたの記憶の中に、彼がいるはずなんです。お願いです。どんな代償でも払いますから」
その瞳は、七年という歳月をかけてもなお、少しも色褪せない愛情で満ちていた。その純粋な熱量に、感情を捨てたはずの綴の心が焼かれるようだった。代償。彼女が払うべき代償などない。もし手がかりがあるとしたら、それは綴自身の記憶の中。代償を払うのは、彼の方だ。
綴は長い沈黙の後、ゆっくりと口を開いた。「……分かりました。ただし、これは私の記憶です。何が書かれているかは、私にも分かりません」
彼は立ち上がり、店の奥、客が決して立ち入れない「私的書庫」へと向かった。軋む床を踏みしめ、無数の記憶の本が並ぶ棚の間を進む。目指すは、一番奥の、蜘蛛の巣が張った一角。そこに、一冊だけ、黒い布で覆われた分厚い本があった。背表紙には、金文字でこう記されている。
『七年前の夏』
この本を開くことは、自ら課した最大の禁忌を破ることに他ならなかった。忘れるために取り出した過去を、再び自分の中に取り込む行為。それは、平穏な日常の終わりを意味していた。だが、美影のあの瞳が、彼に選択を迫っていた。傍観者として空白を生き続けるのか、それとも当事者として痛みと向き合うのか。綴は、震える指で、その黒い布に手をかけた。
第二章 褪せたインクの告白
黒い布を取り払うと、現れたのは何の変哲もない、黒い革装丁の本だった。しかし、綴がその表紙に触れた瞬間、忘れていたはずの感覚が洪水のように流れ込んできた。真夏のむせ返るような緑の匂い、夕立の前の湿ったアスファルトの熱気、そして、親友だった湊の、快活な笑い声。
綴は本をカウンターに運び、美影の前に置いた。「ここに、何か手がかりがあるかもしれません」
彼はゆっくりと、重い表紙を開いた。古紙と乾いたインクの匂いが立ち上る。そこに綴られていたのは、彼自身が書いたはずの、しかし今はまるで他人の物語のように感じる過去だった。
『第一章:蝉時雨と約束』
ページをめくる指が、微かに震える。そこにいたのは、今よりもずっと感情豊かで、脆く、そして未熟な自分だった。大学のキャンパス、行きつけの喫茶店、河川敷のグラウンド。全ての風景に、湊がいた。そして、少し離れた場所から、二人を穏やかな眼差しで見つめる美影がいた。
綴は、自分が美影に淡い恋心を抱いていたことを思い出した。だが、彼女が湊の隣で笑う姿を見るのが好きだった。二人の幸せが、自分の幸せでもあると本気で信じていた。その純粋な感情が、インクの染みとなってページに焼き付いている。
読み進めるうちに、物語のトーンは次第に暗くなっていく。
『第三章:不協和音』
湊が、何かに追われているかのように焦り始めていた。彼は時折、綴に不可解なことを言った。「もし俺に何かあったら、美影を頼む」「世界には、知らない方がいい真実ってのがあるんだよ」。綴はそれを若さゆえの気負いだと笑い飛ばしていたが、本の中の記述は、湊の目が真剣だったことを克明に記録していた。
そして、失踪前夜の記憶。河川敷。沈みゆく夕日が、二人を赤く染めていた。
「お前はいつもそうだ、綴!」
湊の怒声が、紙面から飛び出してくるようだった。
「嫌なことから目を逸らして、すぐに記憶を本にして売り払う! お前のその能力は、忘れるためにあるんじゃない! 真実を記録するためにあるんだろうが!」
「僕の能力だ! どう使おうと僕の勝手だ!」
激しい口論。取っ組み合い寸前の険悪な空気。綴は、湊が抱える問題の深刻さから逃げようとしていた。関わりたくなかった。自分の平穏が壊されるのが怖かった。
「……もういい。お前には頼まない」
それが、湊が彼に向けた最後の言葉だった。
綴は顔を上げた。目の前には、固唾を飲んで彼を見つめる美影がいる。
「何か……分かりましたか?」
「湊くんは、何か大きなトラブルに巻き込まれていたようです。そして、僕は……彼を助けようとしなかった」
罪悪感が、鈍い痛みとなって胸に広がる。記憶を封印することで、彼は親友への裏切りという事実からも目を背けていたのだ。彼はただの傍観者ではなかった。冷酷な逃亡者だった。
「まだ、読み終えていません」。綴は再び本に視線を落とした。最終章。そこには、この七年間、彼を蝕み続けていた罪悪感の、本当の正体が記されているに違いなかった。
第三章 偽りの加害者
最終章のタイトルは、短く、そして衝撃的だった。
『最終章:僕が湊を殺した日』
綴の呼吸が止まった。隣の美影が息を飲む音が聞こえる。嘘だ。そんなはずはない。どれだけ彼を拒絶したくても、殺すなんて。震える指でページをめくると、そこには乱れた筆跡で、あの夜の続きが記されていた。
『湊を突き飛ばした。彼の頭が、川べりの石に打ち付けられた。鈍い音。流れ出す、赤い、赤い液体。僕は、彼が動かなくなるのを、ただ見ていた。そして、逃げた。僕は、親友を殺したのだ』
綴は本から顔を上げ、茫然と自分の両手を見つめた。この手が? この手で、湊を? 記憶にはない。実感がない。まるで、出来の悪い三文小説を読まされているかのようだ。しかし、これは紛れもなく自分の記憶から作られた本。自分が書いた記録。
「……そんな」
美影の唇から、絶望的な呟きが漏れた。彼女の瞳から、七年間灯り続けていた光が消えかけている。
綴はパニックに陥りながらも、心のどこかで冷徹な自分が囁くのを感じていた。おかしい。この記述だけが、あまりにも演劇的すぎる。あまりにも、小説的すぎる。彼は無我夢中でページをさらにめくった。最後の、最後のページ。そこには、それまでとは違う、湊のものによく似た、力強い筆跡でこう書かれていた。
『――ここまでが、俺がお前に書いてほしかった「偽りの記憶」だ。綴』
綴の思考が、完全に停止した。
湊の筆跡? なぜ、この本に?
『もしお前がこれを読んでいるなら、計画はうまくいったんだろう。俺は今、どこか遠い場所にいる。俺はある組織の不正の証拠を掴んでしまった。彼らは俺を消そうとしている。俺が「殺された」ことになれば、それも組織の内部抗争として処理され、美影にまで危険が及ぶことはないはずだ。
だから、頼む。お前の能力で、この「偽りの死」の記憶を本にしてくれ。お前が犯人だという、あまりにも馬鹿げた、だが最も確実な偽装工作だ。この本だけが、俺が「死んだ」という唯一の証拠になる。
辛い役目を押し付けて、本当にすまない。でも、お前しかいないんだ。お前なら、この記憶を完璧に封印して、真実から目を背けてくれると信じていたからな』
綴は、言葉を失った。全身の力が抜け、椅子に深く沈み込む。
殺したのは、自分ではなかった。湊は、生きていた。いや、少なくともあの時点では生きていた。そして、自分の臆病さ、逃避癖そのものを利用して、彼は最大の賭けに出たのだ。綴が「犯人」であるという偽りの記憶は、湊が自ら綴に依頼して作らせた、美影と自分自身を守るための、苦肉の策だった。
綴が犯人である限り、警察は綴を疑うだろうが、証拠不十分で動けない。その間に、本当の敵は湊が死んだと信じ込み、追跡をやめる。完璧な計画だった。友の臆病さを信じ切った、あまりにも残酷で、そして信頼に満ちた計画。
第四章 未完の物語
「……湊くんは、生きています」
綴は、ようやく絞り出した声で美影に告げた。彼は本を彼女の方へ向け、最後のページを見せた。美影は食い入るようにその文章を読み、やがてその瞳から大粒の涙がとめどなく溢れ出した。それは絶望の涙ではなかった。七年間の不安と悲しみが、安堵と喜びへと変わる、浄化の涙だった。
「彼は……私のために……」
「そして、僕の弱さを利用して。彼は僕がこの本を二度と開かないと信じていた。僕が、過去から逃げ続ける人間だと……信じてくれていたんです」
綴は自嘲気味に笑った。だが、その表情には、もはや以前のような感情の希薄さはない。罪悪感、安堵、そして友への感謝と、わずかな怒り。様々な感情が渦巻き、彼に「生きている」という実感を与えていた。
湊は、綴に「殺人者」という偽りの十字架を背負わせた。だが同時に、真実への道標も残していたのだ。この本を再び開くこと、それは綴が過去の痛みと向き合う覚悟を決めた証であり、湊が仕掛けた壮大な計画の、次のフェーズが始まる合図でもあった。
最後のページには、追伸があった。
『追伸:もし、万が一、お前がこの本を開く日が来たら。それは、お前が俺の知ってる臆病な綴じゃなくなった証拠だ。その時は、きっとお前なら真実に辿り着ける。ありがとう、友よ。美影を、頼む』
綴は、静かに本を閉じた。この本は、もはや封印すべき禁忌の書ではない。湊との友情の証であり、これから始まる戦いのための、最初の地図だった。
「美影さん。湊くんは、まだ危険な状況にいるのかもしれない。これから、僕たちが彼を見つけ出すんです」
綴の言葉には、揺るぎない決意が宿っていた。美影は涙を拭い、力強く頷いた。彼女の瞳には、再び希望の光が、前よりも強く輝いていた。
彼らが立ち向かうべき敵が何者なのか、湊が今どこにいるのか、まだ何も分からない。物語は、まだ始まったばかりだ。
綴は、店の奥にある「私的書庫」を見つめた。そこには、『七年前の夏』以外にも、彼が封印してきた無数の記憶の本が眠っている。幼い頃の悲しみ、初恋の痛み、挫折の屈辱。それら全てから、彼は目を背けてきた。
だが、もう逃げない。
記憶を失うことは、自分の一部を殺すことと同じだ。痛みも、悲しみも、全て抱えて生きていく。それが、湊が命がけで教えてくれたことだった。
綴は立ち上がり、店の扉に手をかけた。外には、雨上がりの澄んだ光が満ちている。
「行きましょう」
彼の顔には、穏やかだが確かな覚悟が浮かんでいた。古書店「記憶の古書庫」の店主、神代綴の本当の物語は、今、この瞬間から始まる。彼の書庫の最も重要な一冊は、これから彼自身の手で、未来へと綴られていくのだ。