空白フレームと無限の秒針
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空白フレームと無限の秒針

第一章 零秒の観測者

降りしきる雨が、アスファルトの匂いを都市に溶かしていた。雑踏を行き交う人々の傘がぶつかり合い、不協和音のようなリズムを刻む。俺、結城櫂(ゆうき かい)は、カフェの窓ガラスに額を押し付け、その無機質な光景をただ眺めていた。人々が気にも留めない額の中央、そこに浮かび上がるデジタル数字の羅列が、俺の網膜には焼き付くように映る。

『寿命時計』。

それがこの世界の理だった。誰もが生まれながらにして、自らの余生を秒単位で宣告されている。絶望すれば数字は急落し、希望を見出せば僅かに持ち直す。だが、その揺らぎは気休めに過ぎない。時計の針は、決して逆には進まないのだから。

その時、鋭い頭痛がこめかみを貫いた。来る。俺は目を固く閉じるが、無駄な抵抗だ。脳裏に、数秒前の光景がノイズ混じりの映像として再生される。

横断歩道を渡るスーツ姿の男。彼の額には『00:00:07』の表示。そこに、猛スピードで突っ込んでくる黒い乗用車。映像はスローモーションになり、男の驚愕に歪んだ顔が映し出される。彼の寿命時計が激しく明滅し、ゼロになるはずの、その瞬間。

『∞』

無限大の記号が一瞬だけ黄金色に輝き、次のフレームで『00:00:00』へと変わる。そして、映像は数フレーム分の純白の空白を挟み、現実の衝撃音へと繋がった。

「キャアァッ!」

悲鳴とブレーキ音。俺が窓の外に目をやると、数秒前の映像が寸分違わず現実となっている。助けることはできない。俺の能力は、常に結末の後に訪れる、無力な残響でしかない。

ポケットの中で、持ち主不明の純白の砂時計が微かに熱を帯びた。ガラスの内側で、一瞬だけ『∞』の形をした砂の模様が淡く光って消える。俺はそれを強く握りしめ、また一つ、世界からこぼれ落ちた魂の重みに、ただ唇を噛んだ。

第二章 揺らぐ時計と雨の匂い

「あなたの時計、あまり揺らがないんですね」

雨宿りのために駆け込んだ古書店の軒下で、彼女は唐突にそう言った。水野美咲(みずの みさき)。湿った空気の中で、彼女の瞳だけが澄んだ光を宿しているようだった。彼女の額の時計は、まるで怯える小動物のように、秒数を細かく変動させている。

「気にしていないだけだ」俺は素っ気なく答えた。

「羨ましい。私のは、いつも嵐みたいで。映画を観て感動しただけで、数時間も増えたりするんですよ。でも、明日のことを考えただけで、ごっそり減ったりもする」

彼女は困ったように笑うが、その声には諦めではない、何かを探求するような響きがあった。古書の黴と雨の匂いが混じり合う中、彼女は続ける。

「でも、思うんです。この数字って、本当に『終わり』なんでしょうか。ただの、次のステージへのドアだったりして」

その言葉に、俺は思わず彼女を見つめた。脳裏に、あの『∞』の記号がちらつく。俺が誰にも話したことのない秘密の核心に、彼女は無邪気に触れようとしている。この女は危険だ。俺の孤独を揺るがす。

「さあな」

俺は壁を作るように背を向けた。だが、彼女の時計が、不安げに大きく数字を減らしたのを、見ないふりはできなかった。その揺らぎが、俺の心を奇妙にざわつかせた。

第三章 無限の残響

数日後、俺は再びあの感覚に襲われた。夜の路地裏。酔っ払いの喧騒と、湿ったゴミの匂いが鼻をつく。頭痛と共に流れ込んできたビジョンは、これまでになく鮮明だった。

刃物を持った男に詰め寄られる、初老の男性。見覚えがあった。美咲が「ここのコーヒーが一番落ち着くの」と話していた、古びた喫茶店のマスターだ。抵抗も虚しく、彼の胸に刃が突き立てられる。

そして、まただ。彼の額の時計が『∞』を閃かせ、消える。

だが、今回は何かが違った。空白の数フレームの間、純白の闇の中に、一瞬だけ、万華鏡のような幾何学模様が映った気がした。それはまるで、高次元からこの世界を覗き込む『窓』のようだった。

ポケットの砂時計が、これまでで最も激しく振動し、灼けるような熱を発した。俺はたまらずそれを取り出す。純白のガラスの内側で、『∞』の記号が、まるで心臓のように明滅を繰り返していた。

これは単なる予知ではない。この映像には、俺の知らない『意味』が隠されている。マスターの最期の顔と、美咲の笑顔が重なり、言いようのない焦燥が俺の胸を締め付けた。

第四章 砕かれた交差点

運命が、悪意を持って微笑んだのは、その翌日のことだった。

青信号の交差点。向こう側で、美咲が俺を見つけて、嬉しそうに手を振った。彼女の額の時計は、喜びに呼応するように、僅かに数字を増やしている。俺も、無意識に口元を緩め、一歩踏み出そうとした。

その瞬間、世界から音が消えた。

大型トラックが、けたたましいクラクションも鳴らさずに、信号を無視して交差点に突入してくる。スローモーションになった世界で、美咲の驚いた顔と、俺に向かって伸ばされた白い指先だけが、やけにゆっくりと動いて見えた。

叫び声は出なかった。

それよりも早く、俺の脳を灼くような激痛と共に、史上最悪のビジョンが再生されたからだ。

目の前の光景そのものだ。トラックに撥ね飛ばされる美咲の、花びらのように宙を舞う身体。そして、彼女の額の時計が、『∞』の黄金色の光を放つ。

だが、ビジョンはそこで終わらなかった。いつもなら数フレームで終わるはずの『空白』が、永遠に引き伸ばされていく。純白の光が俺の意識を包み込み、現実世界の時間が、完全に静止した。

第五章 管理者の視点

真っ白な静寂の中、俺は『そこにいた』。

いや、違う。俺は、事故現場の交差点を、少し高い場所から、まるで映画のワンシーンのように見下ろしていた。俺の身体は、手を伸ばす寸前の姿勢で固まったまま、そこにいる。そして、宙に舞う美咲の身体も。

これが、『空白のフレーム』の正体。

俺の意識だけが、時間の流れから切り離され、この世界を俯瞰する視点へと移行していたのだ。

すると、時間が止まったはずの美咲の身体から、無数の暖かい光の粒子が、ゆっくりと溢れ出した。それは恐怖や苦痛の色ではなく、どこまでも穏やかで、安らかな光だった。魂、と直感的に理解した。

光の粒子は、一つの流れとなり、静止しているはずの『俺』の身体へと、吸い込まれていく。その光が俺の意識に触れた瞬間、美咲の最後の想いが、優しい声となって流れ込んできた。

『怖くないよ、櫂さん。やっと、意味がわかった。あなたは、終わりを看取る人じゃない。始まりへと導く人だったんだね』

俺は、死を予知していたのではなかった。生命が肉体という殻を脱ぎ捨て、本来あるべき場所へと還る、『変容の瞬間』を観測していたのだ。額の『∞』は、有限の生命が、無限の存在へと繋がるゲートが開いた証。

そして、俺自身が、その魂を回収し、次のステージへと送る『管理者』の一人だった。空白のフレームは、管理者である俺が、この世界に介入するために与えられた、聖域のような時間だったのだ。

第六章 未完成な約束

純白の世界が収束し、現実の時間が再び流れ始める。

けたたましいサイレンの音。人々の悲鳴。砕けたガラスの破片がアスファルトに散らばる音。世界は先程までの喧騒を取り戻していたが、俺の心は、湖の底のように静まり返っていた。

俺はもう、無力な観測者ではない。

ポケットの砂時計を握りしめる。これは、俺がこれまで回収してきた魂を、一時的に留めておくための器だったのだ。そして、未完成なのは、いつか俺自身の魂が、別の管理者によって回収され、この砂時計に収められることで、初めて完成するからだろう。

砂時計は、美咲の光を吸い込んで、以前よりもずっと暖かかった。

俺は静かにその場を離れ、雑踏の中へと紛れていく。人々は相変わらず、額の時計の数字に一喜一憂し、自らの有限な生を駆け抜けている。その一つ一つの生命が、どれほどまでに尊く、輝かしいものか。

俺の孤独は、これからも続くだろう。だが、その意味は永遠に変わった。俺は、生命の終着点に立つ絶望の案内人ではない。無限へと続く扉を開く、始まりの番人なのだ。

空はいつの間にか雨が上がり、薄日が差し込んでいた。俺は空を見上げ、胸の中にある温かな光を感じながら、管理者としての、静かで果てしない道を歩き始めた。


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