不協和音の肖像

不協和音の肖像

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第一章 調律の狂った世界

俺、響わたるの耳は、世界を二つの音で捉える。調和のとれた美しい和音と、耳を裂くような不協和音だ。それは比喩ではない。人が嘘をつく時、その声は俺の鼓膜を不快に震わせるノイズと化す。三年前、ピアニストとしての未来を奪った事故の置き土産だった。以来、俺は世界の雑音から逃れるように、古いピアノの調律師として、ひっそりと息を潜めて生きてきた。

その日、俺が訪れたのは、静かな住宅街に佇む古い洋館だった。依頼主は、上品な佇まいの老婦人、佐伯千代。彼女は、半年前から行方不明になっている一人娘・美咲さんが愛用していたグランドピアノの調律を依頼してきた。

「あの子が、いつ帰ってきてもいいように。このピアノだけは、完璧な音を保ってあげたいのです」

千代さんの声は、悲しみを帯びながらも、澄み切った鐘の音のような和音を奏でていた。娘を想う母の純粋な愛情が、俺の耳には旋律として届く。俺は静かに頷き、象牙の鍵盤に向かった。

埃をかぶったピアノは、永い沈黙を強いられていた。俺は一本一本の弦の張りを確認し、ハンマーの動きを調整していく。作業に没頭していると、リビングのテレビからニュースの音声が漏れ聞こえてきた。美咲さん失踪事件の続報だった。画面には、憔悴した表情でインタビューに答える若い男が映し出されている。美咲さんの婚約者、高遠誠だ。

「彼女の無事を、今も信じています。どんなことでもしますから、どうか、どうか無事に帰ってきてほしい……」

その言葉が俺の耳に届いた瞬間、頭蓋骨の内側でガラスが砕け散ったような、鋭い不協和音が鳴り響いた。キィィン、と金属が擦れ合うような高音と、地の底から響くような鈍い低音が混じり合い、俺の神経を逆撫でする。あまりの不快さに、思わずチューニングハンマーを握る手に力が入った。

高遠誠は、嘘をついている。

テレビの中の彼は、悲劇の恋人を完璧に演じきっていた。しかし、俺の耳はごまかせない。彼の言葉の裏側には、自己保身と欺瞞に満ちた、醜悪なノイズが渦巻いていた。

千代さんは、ハンカチで目元を拭いながら、画面の中の高遠を見つめている。彼女の耳には、この男の言葉がどのように聞こえているのだろうか。きっと、悲しみに満ちた誠実な響きとして届いているに違いない。

俺は再びピアノに向き直った。ド、レ、ミ、ファ、ソ、ラ、シ、ド。一つ一つの音を、寸分の狂いもなく合わせていく。だが、俺の世界の調律は、あの男の嘘によって、もうすっかり狂わされてしまっていた。静かな生活に差し込んだ、最初の不協和音。それは、ある事件の序曲に過ぎなかった。

第二章 偽りの旋律

高遠の嘘が頭から離れず、俺は数日後、彼の経営するデザイン事務所を訪ねた。調律師の仕事で使う特殊な工具の営業、という無理のある口実をでっち上げて。

「これはこれは、ご丁寧にどうも」

高遠は、人の良さそうな笑みを浮かべて俺を応接室に通した。洗練されたインテリア、壁には彼が手掛けたというポスターが飾られている。だが、彼の発する言葉は、その空間の調和を乱すノイズの連続だった。

「美咲がいなくなって、本当に……仕事も手につかなくて」

その声は、錆びた鉄扉が軋む音に似ていた。俺は平静を装いながら、本題を切り出した。

「実は、先日、佐伯様のお宅でピアノの調律を。美咲さん、素晴らしいピアノをお持ちですね」

「ええ、彼女は……本当に音楽を愛していました」

彼の声の不協和音は、僅かにその音程を変えた。警戒、そして焦燥。俺は、彼の心の弦が張り詰めていくのを感じた。

「彼女は、何か悩んでいるような様子はありませんでしたか」

俺の問いに、高遠は一瞬言葉を詰まらせた。そして、作り物の悲しみを顔に貼り付けて答える。

「いえ、全く。いつも通り、明るくて……本当に、なぜ急にいなくなってしまったのか……」

その嘘は、これまでで最もけたたましいノイズを立てた。まるでオーケストラの全楽器が、デタラメな音を一斉に掻き鳴らしたかのようだ。俺は吐き気をこらえ、それ以上は危険だと判断して事務所を後にした。

帰り道、俺は千代さんの家にもう一度立ち寄った。美咲さんの部屋を見せてもらえないかと頼むと、彼女は静かに頷いた。部屋は、主の帰りを待つように、塵一つなく整えられていた。楽譜、写真、愛読書。その全てが、美咲という女性の輪郭を浮かび上がらせる。

「あの子は、本当に優しい子でした。私の自慢の娘です」

千代さんの言葉は、どこまでも清らかな和音だった。その響きに安堵しながらも、俺の心は晴れなかった。高遠の嘘は明らかだ。だが、警察も決定的な証拠を掴めずにいる。俺の耳にだけ聞こえる真実は、この世界では何の証明にもならない。もどかしさが、鉛のように腹の底に溜まっていく。

俺は、自分の能力を呪った。この耳は、真実を暴く力にはならない。ただ、世界の醜さを俺一人に突きつけるだけの、孤独な呪いだ。ピアノの鍵盤の上に置かれた、美咲さんと千代さんが微笑む写真。その写真だけが、この狂った世界で唯一の、調和のとれた美しい和音のように見えた。

第三章 砕かれた和音

高遠への疑念は確信に変わっていたが、物証は何一つない。俺は無力感に苛まれながら、最後の望みを託して、美咲が失踪直前に訪れたとされる、佐伯家の別荘がある山間の町へ向かった。霧深い森の中に、その山荘はひっそりと佇んでいた。

千代さんから預かった鍵で扉を開けると、ひやりとした空気が肌を撫でた。リビングの暖炉のそばに、一冊の革張りの日記が置かれているのを見つけた。美咲さんのものだろうか。俺は、他人の秘密を覗き見る罪悪感に苛まれながらも、そのページを繰った。

インクで綴られた文字は、最初は明るく、伸びやかだった。しかし、ページが進むにつれて、その筆跡は徐々に乱れ、切迫した感情を帯びていく。そこには、高遠からの執拗な束縛と、時折見せる暴力に怯える美咲の苦悩が、生々しく記されていた。

やはり高遠が。俺がそう確信した時、日記の後半に書かれた文章が、俺の思考を根底から覆した。

『高遠さんの暴力よりも、私を追い詰めるのは、お母様の「完璧な愛」だ。私の人生は、お母様の描く完璧な設計図通りに進まなければならない。ピアノも、進学も、婚約も。私は、お母様の最高傑作。でも、もう疲れた。少しでも期待から外れれば、あの美しい瞳が悲しげに曇るのを見るのが、何よりも怖い』

息が詰まった。ページをめくる指が震える。そして、最後の日付のページに、俺は凍り付いた。

『だから、私は消えることにした。未解決の失踪事件の、悲劇のヒロインとして。そうすれば、私は永遠に「お母様の完璧な娘」のままでいられる。高遠さんへの疑いが、この悲劇をより完璧なものにしてくれるだろう。お母様、私の最後のわがままを許して。私を、あなたの手で『完璧な思い出』にしてください』

背筋を冷たい汗が伝った。これは、失踪ではない。母と娘による、歪んだ合意の上での「消失」だ。

その時、背後で静かにドアが開く気配がした。振り返ると、そこに千代さんが立っていた。いつからそこにいたのか。彼女は、穏やかな、しかしどこか虚ろな微笑みを浮かべていた。

「見つけましたか、あの子の置き手紙を」

彼女の声は、驚くほど落ち着いていた。そして、俺の耳には、これまで聞いた中で最も純粋で、最も恐ろしい、完璧な和音として響いたのだ。一分の狂いもない、絶対的な調和。

「あの子は、私の最高傑作でしたから。少しの汚点もあってはならないのです。未完成のまま終わらせるわけにはいかないでしょう?」

嘘は不協和音。真実は和音。俺の中で、世界の法則がガラガラと崩れ落ちていく。高遠の嘘は、自己を守るための醜いノイズだった。だが、目の前にいるこの母親の言葉は、狂気と呼ぶべき信念に裏打ちされた、紛れもない「真実」だったのだ。彼女は微塵も自分を偽っていない。娘を「完璧な悲劇のヒロイン」として永遠に保存すること。それが彼女にとっての、歪みきった愛の形であり、絶対的な真実なのだ。俺は、その美しくも恐ろしい旋律の前で、立ち尽くすことしかできなかった。

第四章 静寂のレクイエム

「美咲は、生きています。あの子が望んだ通り、どこか遠い場所で、誰でもない誰かとして」

千代さんは、まるで美しい詩を朗読するかのように告げた。彼女の言葉は、静かな湖面に広がる波紋のように、淀みなく俺の耳に届く。

「私は、あの子の物語を完成させる語り部に徹するだけ。悲劇の母を演じ続けることが、あの子への最後の手向けですから」

母娘が共謀して築き上げた、完璧な悲劇の舞台。高遠は、その舞台装置として利用されたに過ぎない。俺は、警察に通報すべきか迷った。だが、何を告発するというのか。法で裁ける罪はそこにあるのか。千代を告発することは、美咲が命懸けで手に入れた「自由」を奪うことになるのではないか。

俺の耳に聞こえる音は、善悪までは教えてくれない。ただ、それが嘘か真実かを示すだけだ。そして今、俺は知ってしまった。完璧な真実が、時として完璧な狂気を内包していることを。

数日後、俺は再び佐伯家の洋館を訪れた。最後の調律を仕上げるために。俺は黙々と作業を進め、すべての弦を完璧なハーモニーに整えた。作業を終えた俺に、千代さんは深々と頭を下げた。彼女の瞳には、穏やかな悲しみが湛えられている。その言葉も、仕草も、すべてが完璧な和音を奏でていた。

俺は、調律を終えたピアノの前に座り、そっと鍵盤に指を置いた。そして、弾き始めた。誰のためでもない、レクイエムを。行方不明の美咲のために。歪んだ愛に生きる千代のために。そして、音に縛られていた、過去の自分のために。

弾き終えた時、俺は気づいた。世界の音が、ただの「音」に戻っていることに。人の声が、心地よいとか、不快だとか、そういったフィルターを通さずに、ありのままの音波として鼓膜を震わせる。あの事故以来、初めて訪れた静寂だった。能力が消えたのか、あるいは俺自身がそれを拒絶したのか、分からなかった。

俺はもう、人の心の音を聞くことはないだろう。それでいい。真実は、耳で聞くものではない。世界は、単純な和音と不協和音で割り切れるほど、美しくも醜くもないのだから。

俺は静かに立ち上がり、佐伯邸を後にした。背後で、ピアノだけが完璧な沈黙を守っていた。その静寂は、どんな旋律よりも深く、俺の心に染み渡っていくようだった。

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